池田信夫氏のブログを読むとよく分からない部分があった。氏のブログ記事「思考する言語」から引用してみよう。尚この記事は、ピンカーと言う人の本の訳書に対する氏の感想を書いたもののようだ。
<生成文法や新古典派経済学のような疑似科学がアカデミズムで主流だったのは、その数学的に整った体系が、大学や学界のヒエラルキー構造を維持する上で便利だったからだが、社会科学が数学や物理学をモデルにするのはおかしい。社会の要素は人間なのだから、今後の社会科学の基礎は脳科学や心理学だろう。>
まず、数学的に整った体系が、なぜ大学や学会のヒエラルキー構造をを維持する上で便利だったというのだろう。仮にそうだとすると、最もヒエラルキー構造が顕著なのは、理工系の分野のはずである。しかし、理工系は人文科学系や社会科学系に比べヒエラルキーはそれほど堅固ではない。理論が数学的に体系だっていることと人間組織がヒエラルキー構造になっていることとの間には、なんら論理的な関係は見出せない。
次に数学はモデルにしているというよりは、思考を他の者に正確に伝えるための道具として使用しているのだろう。数式で書けば1行で書けることを言葉で書けば冗長になるだけでなく不正確にもなる。<今後の社会科学の基礎は脳科学や心理学だろう>と言っても、この二つだけを基礎に社会科学が展開できるわけではない。脳科学がどのように社会科学の基礎となるのかはよく分からないが、社会科学で人間を基礎に置くのは当然のことだ。しかし、何らかの社会科学のモデルを考えた場合、それを厳密に記述するのには数学ほど便利なものはない。その意味で、社会科学での、基礎としての数学の素養の必要性は少なくともこれまでより少なくなることはないだろう。
更に、仮に社会科学の基礎が脳科学や心理学になったとしても、それとモデルをどのようにつくるかとの間には論理的な関係はない。脳科学や心理学を基礎にしても、物理学のような秩序だった体系をつくることは可能性としては否定できないだろう。基礎にするということとモデルにするということはレイヤーが違うと思うのだが。
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<生成文法や新古典派経済学のような疑似科学がアカデミズムで主流だったのは、その数学的に整った体系が、大学や学界のヒエラルキー構造を維持する上で便利だったからだが、社会科学が数学や物理学をモデルにするのはおかしい。社会の要素は人間なのだから、今後の社会科学の基礎は脳科学や心理学だろう。>
まず、数学的に整った体系が、なぜ大学や学会のヒエラルキー構造をを維持する上で便利だったというのだろう。仮にそうだとすると、最もヒエラルキー構造が顕著なのは、理工系の分野のはずである。しかし、理工系は人文科学系や社会科学系に比べヒエラルキーはそれほど堅固ではない。理論が数学的に体系だっていることと人間組織がヒエラルキー構造になっていることとの間には、なんら論理的な関係は見出せない。
次に数学はモデルにしているというよりは、思考を他の者に正確に伝えるための道具として使用しているのだろう。数式で書けば1行で書けることを言葉で書けば冗長になるだけでなく不正確にもなる。<今後の社会科学の基礎は脳科学や心理学だろう>と言っても、この二つだけを基礎に社会科学が展開できるわけではない。脳科学がどのように社会科学の基礎となるのかはよく分からないが、社会科学で人間を基礎に置くのは当然のことだ。しかし、何らかの社会科学のモデルを考えた場合、それを厳密に記述するのには数学ほど便利なものはない。その意味で、社会科学での、基礎としての数学の素養の必要性は少なくともこれまでより少なくなることはないだろう。
更に、仮に社会科学の基礎が脳科学や心理学になったとしても、それとモデルをどのようにつくるかとの間には論理的な関係はない。脳科学や心理学を基礎にしても、物理学のような秩序だった体系をつくることは可能性としては否定できないだろう。基礎にするということとモデルにするということはレイヤーが違うと思うのだが。
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