・兵藤裕己
「太平記」という名前は聞いたことがあっても、実際に読んだことのある人はそれほどはいないだろう。本書によれば、この40巻から成る太平記は、3部に分けられるという。後醍醐天皇即位から建武政権発足までの第1部。建武政権の崩壊から後醍醐天皇崩御までの第2部。そして、その後の足利義満登場までの第3部だ。
太平記の原本は、法勝寺の恵鎮上人が足利直義のもとに持参した30余巻本だったようだ。著者は、太平記40巻は、足利義満の時代にその政治体制と不可分のところで成立し、室町幕府の草創を語る正史として最終的に整備・編纂されたと見ている。
太平記は、平家物語を意識して書かれているらしく、多くの平家物語のパロディのような話が挿入されている。例えば、正中・元弘の変の発端として語られる「無礼講」の話は平家物語の「鹿谷」を意識して書かれているのである。だから、平家物語の方にも詳しい読者なら、ああこれはあそこのパロディだなと思いながら、太平記を読むことができるのだろう。私の場合は、どちらにもそんな知識はないので、無理だろうが。
本書で特筆すべきは、「太平記」には相反する二つの論理が重層的に描かれているということを指摘しているところか。すなわち儒教的な源平の「武臣」の名分論と、その名分とは異なった位相を持つ「無礼講」の論理だ。
名分論とは、君臣がそれぞれの名分をまっとうするということである。つまり君は君らしく、臣は臣らしく振舞えということだ。だからこれから外れた行いをする者は、君だろうが、臣だろうが悪なのである。平家物語の仏教的な因果論に対して、太平記は、儒教(宗学)的な名文論によって悪王・悪臣の必滅の理を説いているらしい。
太平記の1、2部は平家物語的な源平交替史によって構想されているのだが、平家物語の序章が滅んだ悪臣を列挙しているのに対して、太平記の序文は、悪臣と共に悪王が滅んだ先例にも言及しているのだ。これが名分論に基づいた記述というものだ。だから太平記は、「武臣平高時」を「臣の礼を失ふ」とする一方で、その武臣を滅ぼした後醍醐天皇についても「君の徳にたがい」と述べている。
太平記は、天皇と「武臣」の2極関係を前提として、「武臣」の交代史という歴史が描かれている。この歴史観の下では、源平両氏は交替で覇権を握るが、けっして政権の主体にはなり得ない。源平交代の物語は、武家の頭領である両氏を「朝家の御かため」として天皇制国家に組み入れる論理だからだ。しかし、それが、鎌倉時代以降、武家政権の自己正当化の論理となるとはある意味歴史の皮肉だろう。
つまり太平記がイメージする「太平」の世とは、君臣の上下が、それぞれの名分をまっとうすることなのだ。後醍醐天皇は、この2極関係を飛び越えて親政を行おうとした。そこで、武臣に代わって現れたのか、楠木正成や名和長利、児島高徳といった悪党武士なのである。太平記の名分論とは矛盾するこの悪党武士たちを太平記は極めて好意的に描いているという。これは、太平記は語られるものでもあり、どのような者たちが太平記を語っていたかということと関係しているということのようだ。
本書では、「太平記」がどのように読まれてきたか、それが歴史の流の中でどのような役割をしてきたのかが、詳細に考察されている。このあたりを専攻したい人や、太平記に興味を持っている人には一読して損はないと思う。私のように国文学の素養のないものは、ただそうなのかとうなずくばかりなのだが。
ただやたらと「相対化」という単語が使われるのは、人文系の特徴だろうか。結構あやふやな用語なので適切な言葉で言い換えればいいのではないかと思うのだが。
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※本記事は、書評専門の拙ブログ
「風竜胆の書評」に掲載したものです。