文理両道

専門は電気工学。経営学、経済学、内部監査等にも詳しい。
90以上の資格試験に合格。
執筆依頼、献本等歓迎。

古代史の秘密を握る人たち

2025-01-20 13:42:04 | 書評:学術・教養(人文・社会他)

 古代史は面白い。なぜなら当時の出来事と現代の間には深い谷が横たわっており、なかなか本当のことが分からないからだ。もちろん分かることもあるが、それはかなり偶然の要素が強い。古代史の謎を解き明かすには、想像力は不可欠なのだが、もちろん客観的な証拠が見つかることは少ない。

 古代史というと日本書紀や古事記等を思い起こす人が多いだろう。しかしあれには色々な疑問点がある。いずれにしても神話から始まっているようなものがまともな歴史のはずがない。おまけにあの歴史書は勝者によって書かれたもの。自分達に都合の悪いことは消されるか改変されているおそれがある。しかし書かれたものに拘る人にはあれらを金科玉条のように扱っている人が多いのも確かだ。
だいたい『日本書紀』は、嘘を嘘で塗り固められていながら、これまでだれも嘘を見抜けなかったのだから、嘘の宝庫といってよく(p102)

これが著者の立場だろう。まあ戦前ならともかく、今の世に神話の部分を信じ込んでいる人はそういないと思うが。

 著者の推理を少し紹介すると、そもそも乙巳の変から始まる大化の改新について、討たれた蘇我氏こそが改革を進める側で、クーデターを起こした中大兄皇子と中臣鎌足こそが守旧派ではなかったのか。

 この他にも、古代史に関して色々な疑問が提示されている。どこまで関さんの推測が当たっているのかは分からないが、自分の頭で色々な謎を考えてみるのも古代史ファンには面白いだろうと思う。
☆☆☆☆









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インド工科大学マミ先生のノープロブレムじゃないインド体験記

2024-10-19 10:03:32 | 書評:学術・教養(人文・社会他)

 語り手は山田真美さん。インド工科大学ハイデラバード校の客員准教授だという。インド工科大学といえば理系の大学としてブイブイ言わしているというイメージがある。対して山田さんは、明治大学経済学部で学士を高野山大学で修士をお茶の水女子大で博士を取ったという文系の人だ。博士論文のテーマは「カウラ事件の研究」である。カウラ事件というのは第2次大戦中にオーストラリアのカウラにあった捕虜収容所から日本軍捕虜が脱走した事件だ。なぜそんな人がインド工科大学で教鞭をとるのだろうか。実はインド工科大学は学部こそバリバリの理系なのだが、大学院レベルでは文系研究もおこなわれているそうだ。

 山田さんは、ひょんなことからインドと縁ができた。しかし、山田さんの紹介するインドはまさに異世界。例えば、サーバントを雇うように町内会長が言って来たり、フロアの半分を占める隣のテレビ番組制作会社の内装工事でアパートの壁をぶち壊されたり。この時の対応が面白い。向こうは全く悪びれずに笑いながら来週までに直すのでノープロブラムと言ったが、さすがに頭にきた山田さんが、自分が東洋武術の達人で、5分以内に直さないと実力行使に出ると言うと、先方は真っ青になりあっという間に壁が直されたらしい。実は山田さん、少林寺拳法は習ったことがあるものの、達人というのはハッタリである。日本人にありがちな謙遜も所による。異文化の人を相手にするときはハッタリも大事だということを教えてくれる。

 また、ジープを盗まれて保険金を請求したときのこと。警察の担当官からは袖の下を要求されるし、保険の担当者からは保険金が下りた例を見たことがないと言われたり。この時は、保険の担当者に新聞に載せてもらうと脅したら保険金は無事下りたという。それでも1年超かかったらしい。この保険会社の男は「ヤマダさんのところは保険が下りていいなあ」と言ったというからあきれたものだ。コンプライアンスって何?それって食べれるの?と言った感じか。

 インドと言えば悪名高いカースト制度。カーストを越えた結婚はものすごく困難だ。そもそも結婚相手を親が探すのは当たり前。インドでは家族関係は日本よりずっと濃いし、家族と見做す範囲もずっと広い。

 この他、日本ではまず考えられないような出来事がいっぱい。でもどこか憎めないインドがそこにある。最後にこれだけは言っておきたい。インドで「ノープロブレム(問題ない)」と言われたら、問題ありありということのようだ。
☆☆☆☆











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広電宮島線もっと魅力発見!

2024-10-15 17:24:30 | 書評:学術・教養(人文・社会他)

 広電と言えば、各地で廃線となった路線を走っていた電車を走らせており、動く路面電車の博物館としても全国的に有名だ。路面電車というのは街中の軌道線を走っている、俗に言うチンチン電車というやつだ。我が懐かしの京都市電も走っている。この会社の持っている鉄道線が宮島線である。鉄道線というのは、要するに専用の線路である。もっとも軌道線から鉄道線への直通になっているものが多いので、あまり鉄道というイメージはないかもしれない。広島に住んでいる人なら一度は広電に乗ったことがあるだろう。

 著者の中田さんは、2022年に退職するまで、35年間宮島線の運転士を努めた方だ。私も昔宮島線沿線に住んでいたことがあるので、宮島線も何度も乗った。本書はこの宮島線沿線の見どころを紹介したものだ。昔の宮島線沿線がどうだったかもわかり、極めて興味深い。

 この今の沿線案内も興味深いが、更に100年前の沿線案内を復刻して収録しているので、昔の姿もうかがえる。本書を持って、今の沿線を回ってみるのも面白いと思う。
☆☆☆☆








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終生知的生活の方法

2024-09-17 08:56:39 | 書評:学術・教養(人文・社会他)


渡部昇一さんといえば、昔「知的生活の方法」で一世を風靡したことを覚えている。残念ながら渡部さんは、2017年に鬼籍に入られ、この「終生知的生活の方法」は遺著ともいえる作品である。

 本書は、2004年に刊行された「老年の豊かさについて」(大和書房)に加筆修正をしたものであるが、原稿を出版社に渡して刊行の準備中に渡邊さんが亡くなられたため、刊行は死後の2018年となっている。

 書かれているのは高齢者になった渡部さんの生活スタイル。本書には高齢者になっても知的活動をしている例が書かれているが、何をするにしても遅すぎるということはない。せいぜい私も見習って、死ぬまで知的生活にがんばりたいものである。かってインド独立の父と言われるガンジーは「永遠に生きると思って学びなさい」と言ったという。その境地に至りたいものである。

 私の場合は積読本がものすごくある。最近はあきらめ気味だが、なんとか死ぬまでには全部読みたいと思う。ただ増えるスピードの方が読むスピードより速いため、なかなか難しいのであるが。

 もっとも高齢者になると個人差がものすごく大きい。88歳で亡くなった私の父などは、最後まで頭の方ははっきりしており、パソコンなど私より詳しかったくらいだ。また90歳を過ぎても知的活動を続けられている人は結構おられる。願わくば私もそのひとりになりたいものである。
☆☆☆☆










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買い物の科学

2024-09-15 13:15:35 | 書評:学術・教養(人文・社会他)

 タイトルからは、消費者が買い物をするときの心の動きが書かれているように見える。企業と消費者は裏表の関係にあるので、広い意味ではそれでもいいのだが、マーケティングの教科書・参考書として読むとなかなか興味深い。書かれていることには売り方に関することの比重が高いように思う。

 面白かったのは、以下の二点だ。まず写真の撮り方だ。例えばスープの写真を撮る場合右からスプーンを出した方や刺身に箸や日本酒を添えた方が食欲をそそるというのだ。なぜおいしそうに見えるかというと著者はこう書いている。
これは頭の中でそれを食べるイメージがより簡単にリアルのシミュレートできるからだと思われます。これを「メンタルシミュレーション効果(あるいは運動流暢性効果)」といいます。(pp48-49)
ということは、前者は左ききの人ばかり集めれば逆の結果になるんだろう。後者は私のようにアルコール類が嫌いな人を集めればかえって食欲がなくなるのかな。さすがにそこまでは書いてないが、実験をしてみれば面白いと思う。

 もう一つは、ペプシコーラのコカ・コーラに対する比較広告。日本では比較広告自体は禁止されていないが、競争相手より著しく有利と誤認されるようなことをすると表景法違反として規制される恐れがあり、見た覚えがない人も多いだろう。しかし、アメリカは違う。比較広告は当たり前なのだ。ペプシコーラを自動販売機で買うために、コカ・コーラを踏み台にしたり、ペプシコーラとコカ・コーラの自働販売機があれば、UFOがペプシコーラのものだけ持って行ってしまう。(p178) なかなかユーモラスなので日本でも増えればいいと思うのは私だけだろうか。

 ともあれ心理学的側面、行動経済学的側面、マーケティング的側面から販売戦略を立てようと思う人は一読しても損はないと思う。
☆☆☆☆











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考えるレッスン

2024-08-23 13:12:08 | 書評:学術・教養(人文・社会他)

 本書は2020年に亡くなられた外山滋比古さんのエッセイ集である。外山さんは1923年生まれというから、享年96歳。そのお歳まで知的活動を続けられるのはうらやましくもある。

 本書は2012年1月に集英社インターナショナルから刊行された「考えるとはどういうことか」を改題して再編集したものである。だから元の本は90歳近くで書いたことになり、その年齢になっても本を書くことができるというのは本当に頭が下がる思いで、私などまだまだひよっこのようなものだ。

 ただ、外山さんの言われることが十分理解できるかと言われると良く分からないというのが正直なところだ。外山さんは知識を詰め込み過ぎるとクリエイティブでなくなると言っているが、これは人によるとしか言えないと思う。むしろ功成って研究や勉強をしなくなるというのが大きいと思う。教授になると学内政治にばかり精出し、研究や勉強をしなくなる人がいるというのはよく聞く話だ。

 また、球面思考だとか第4人称と言うのも良く分からない。日本語が曖昧だと言うのも異論がある。日本語でも十分論理的なのだ。私のような理系人間からは、ロジックを記述するのに大切なのはアルゴリズムであり、プログラム言語ではない(もっとも使いやすいものと使いにくいものはあるが)と思う。だから論理的かどうかは言語に寄らないのではないか。あまり理解できないのは、文系と理系の差なのであろうか。
☆☆☆








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天野為之:日本で最初の経済学者

2024-02-23 09:26:06 | 書評:学術・教養(人文・社会他)

 

 本書を一言で表せば天野為之と言う人の伝記である。私は寡聞にして天野為之と言う人を知らなかったのだが、表紙カバーには「日本で最初の経済学者」とある。

 私は電気工学が主専攻だが、放送大学で色々と勉強している。経済学についても副専攻くらいには勉強しており、有名どころの名前くらいは、一応押さえていると思う。しかし、どれだけ頭の中をひっくり返してみても天野為之という名前は出てこないのだ。だからどんな人だろうと興味が湧いたというわけである。

 天野は佐賀県は唐津の人である。ただし生まれたのは江戸。つまり東京生まれという訳である。父が、唐津小笠原藩の藩医だったからだ。しかし、その後明治維新の頃に、父が病死したので、一家で唐津に引き上げ、その後東京大学(その前身を含む)へ入学するために再び上京することとなる。

 天野は、東京大学の文学部に進んだ。当時は経済学部というのはなかったようだ。明治の初め頃の大学教育に活躍したのは、いわゆるお雇い外国人だ。天野もお雇い外国人から教わり、教科書には英語の本を使った。そのようなお雇い外国人の一人にあの有名なフェノロサがいる。フェノロサというと、私の記憶には、岡倉天心とともに、狩野芳崖の悲母観音を描く話くらいしかない。でも天野がフェノロサから学んだのは経済学。

 そして、彼の学位は法学博士。経済学博士でないのは、当時は経済学と言う学問が独立していなかったためだろう。彼の文筆活動などが評価され、博士推薦会で博士に推薦されたようだ。これについては、現在の博士論文を出してそれにもとづいて学位が与えられるというシステムと大分違うと思ったが、近代日本の黎明期はそんなものかもしれない。

 その他彼は教育の分野でも活躍した。東京専門学校(のちの早稲田大学)の設立に尽力し、初代商科長を務めている。

 巻末には年表もあるので、いつ天野が何をしたのかが分かりやすい。

 ここで持論を一つ披露したい。
 博士、修士、学士などの学位は、各大学もしくは学位授与機構が与える。
 教授、准教授、助教などの職位は各大学等で与える。
 それでは学者という二つ名は誰が与えるものなのだろう。学位があるから学者なのだろうか。大学等で教えているから学者なのだろうか。どちらも満たしていなくても、あの人は学者だと言えるような人がいる。例えば、地方の非常にミクロな歴史などは、ほとんど注目されないが、地道に研究している人はいるのだ。要するに学者とはその人の生きざまにも大きく関わってくるのではないだろうか。もっとも、政治や経済に関するような社会科学の場合は、その判定はなかなか難しいのではあるが。ただそういった意味からは、天野は経済人・教育者かもしれないが「学者」と呼ぶことには「?」が頭の周りを飛び交ってしまう。

☆☆☆

 

 

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はたらく物語

2024-01-07 09:47:11 | 書評:学術・教養(人文・社会他)

 

 本書は、小説、漫画、アニメ、映画、ドラマなどを通じて、「はたらく」ということを考えていこうというものだ。そして、それらの視点は主に3つ。すなわち新自由主義、ポストフォーディズム。ポストフェミニズムである。本書中に、この3つの単語は何度も繰り返して太字で出てくる。「新自由主義」位は分かるが、この言葉も久しぶりに使われているのを見たような気がするのは私だけだろうか。こういった用語には複数の意味が有ることが多いので、補足的な説明を加えて、一応本書の中から定義を拾っておこう。

 新自由主義というのは、複数の訳語として使われることがあるらしいが、よく目にするのは、ネオリベラリズムの訳語としてだ。本書もその意味で使っている。これは市場に任せれば何でもうまくいくという一部経済学学者の間にはびこる一種の信仰のようなものである。つまり福祉国家を否定し、規制緩和(もしくは撤廃)を前面に出し、小さな政府をつくって、市場に任せておけば、すべてうまくいくという思想である。

 フォーディズムというのは、フォードシステムに由来するもので、人がベルトコンベアの前に並び、それぞれが、単純労働を繰り返し、その結果全体として製品が出来ていくというもの。労働者は単純繰り返し労働の苦痛に耐える見返りとして高賃金、短時間労働を手に入れた。要するに、大量生産・大量消費という現代資本主義の根幹をなす思想だ。

 フェミニズムというのは聞いたことがない人は少ないだろうが、女性解放を旗印に性差別をなくそうという思想や社会運動のことである。

 ポストというのは、思想関係の研究者などが好きな言葉で、それ以後という意味で使われる。つまりフォーディズムやフェミニズム以後ということだ。

 新自由主義以外の言葉は、初めて目にする言葉だ。まあ、私は大学・職業とも特定の思想には関係のないところで育ってきたので、単にそのような素養がないだけかもしれないが。

 分析の対象となっているのは、「3月のライオン」、「プラダを着た悪魔」、「マイ・インターン」、「宝石の国」、「機動戦士ガンダム 水星の魔女」など。私は、「宝石の国」を深夜アニメで視たことがあるくらいで、他の作品については全く知らない。

 例えば、ポストフォーディズムの例であるが、将棋漫画である「3月のライオン」であるが、将棋は従来労働とは呼びにくかったが

従来は賃金労働とは関係ないと思われていた生活や人間の能力の能力の側面が、賃金労働に組み込まれていく(p040)

と著者は述べている。新自由主義との関係であるが、著者は

福祉国家と新自由主義はほぼフォーディズムとポストフォーディズムに一致する政治・経済の体制です。(p030)



 「プラダを着た悪魔」であるが、こちらは女性のお仕事映画である。この中でポストフェミニズムについては、

経済成長に貢献する限りにおいて認められるフェミニズム(p067)

と言っている。つまり、ポストフェミニズムとは、

新自由主義(ネオリベラリズム)にフェミニズムの目的が簒奪された状況(p071)

なのだそうだ。 

 廣野由美子さんの著作に批評理論入門―『フランケンシュタイン』解剖講義(中公新書)というものがある。これを読むと、一つの作品に対して、色々な視点があることが分かる。ある著作は、著者の手を離れたとたんに、その解釈は読者にゆだねられる。だから著者が思いもよらぬ解釈をされる場合もあるのだ。フランケンシュタインの作者のシェリー夫人も、まさかマルクス主義批評とかポストコロニアル批評なんてものをされることを予想していたかということは疑問だ。

 これらの批評家にとっては、自分の主義主張が主であり、作品はその主義主張を補強するための従ということになる。もっとも、何か視点を定めて深読みしていくというのも面白い気がする。大切なことは、解釈はなにもひとつではないということ。もし答えがひとつだと考えるなら、完全に受験勉強に毒されているのだろう。だから、本書のように特定の思想を基準にして作品を評価するのも面白いと思う。ただ、それは評者がどういう思想を持っているかを明らかにすることになる。場合によっては、人から呆れられる諸刃の剣となるのだ。

☆☆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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太田川 恵みと営み

2024-01-04 22:46:28 | 書評:学術・教養(人文・社会他)

 

 太田川というのは広島市などを流れている母なる川だ。中国山地を源流として、広島湾に続いている。広島市内でいくつもの流れに分岐し、それぞれ名前がついている。本書は、広島市を中心にこの太田川流域を美しい写真で紹介するというものである。中国新聞とは広島市に本社を置く、中国地方のブロック紙だ。そのせいか、本書は2022年度の新聞協会賞を受賞している。

 本書を読んでまず思ったのは、太田川にも色々顔があるんだなあということ。源流は中国山地にあるので、太田川は、広島市だけを流れている訳ではなく、季節だけでなく場所にもよって風景が変わるのである。季節を合わせて、本書に掲載されている場所を訪れてみるのもいいと思う。

 ひとつ勉強になったのはアマゴのこと。同じ種類だが、一生を渓流魚として過ごすのがアマゴ、海に下る降海型の者をサツキマスというのだと思っていたが、実は海の代わりに湖に下る降湖型のサツキマスというのもいるらしい。例えばダム湖などでは、そこから容易に海に出られない。だから湖を終着点にするようになったのだろう。考えてみると生命の不思議さを感じる。

☆☆☆☆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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マンガ家が解く古代史ミステリー 邪馬台国は隠された(改)

2023-10-15 11:18:09 | 書評:学術・教養(人文・社会他)

 

 本書は、「緋が走る」などで知られるマンガ家あおきてつおさんによる邪馬台国談義。ほとんどは文章で書かれているが、ところどころマンガ家らしくマンガが差し込まれており、読みやすさを増している。そのマンガはあおきさんが古代史研究部(こだけん)の3人の女子学生(たぶんJK)をところどころ登場させて、自分が解説しているという感じになっており、読者を飽きさせないように工夫されている。

 邪馬台国の位置については、百家争鳴の感があり、私の知っているものの中で一番すごいのはエジプト説だらろうか。それというのも魏志倭人伝の記述が曖昧であり、色々な解釈ができるからだ。一番有名なのは、京都帝国大の内藤湖南の畿内説と、東京帝国大学の白鳥庫吉の九州説だろうが、このほかにも色々な説がある。

 本書では、魏志倭人伝の記述の「45度修正説」と、結論として邪馬台国は、宇佐・中津を中心とするところにあったことが述べられている。もちろんこれらの根拠も本文中に示されており、興味があれば本書を読んで確かめていただきたい。

 宇佐・中津が邪馬台国の中心ということは、つまりはあおきさんも九州説をとっているというわけだが、邪馬台国が東遷して大和朝廷となったという説には否定的である。邪馬台国と大和朝廷は別の勢力だったとしている。そっして記紀から邪馬台国が消されている理由を推理しているのだ。

 もちろん、今となっては、当時どうであったかという明確な証拠を見つけることは困難だろう。しかし、日本の古代は謎だらけであり、僅かな手掛かりを元に推理することはものすごくロマンのあることだと思う。

☆☆☆☆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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