秋田大学通信教育「一般地質学」単位認定試験が返ってきた。結果はC72。一応の合格だ。それはいいのだが、なぜ減点されているのか分からない。この方面は自分に適正がないことが分かったが、とりあえず学習単位が合計4単位。今出しているのが1単位分。近々出せそうなのが4単位分。あと1単位分をどうにかすれば、修了要件を満たすことになる。
今日は、広島グランドインテリジェンスホテルで行われた「中国地域産総研技術セミナーin広島」に出席してきた。講演は3つに分けられ、講演1と講演2がMZプラットフォームに関すること。MZプラットフォームとは、産総研で開発したソフトウェア基盤である。講演1でMZプラットフォームを紹介して、講演2では、聖徳ゼロテックという会社での応用例を紹介している。
講演3は、「産総研センシングシステム研究センターの取り組み」というタイトルで、産総研で行っているセンサーに関する研究を紹介していた。
たまには、こういったものを聞いて、知識をリフレッシュするのもいいものである。
少し早めに家を出て、昼食を近くのやよい軒で取る。食べたのはかつ丼。
本書は、大学受験のための古典文法の参考書だ。私は、文理という分類でいけば理系に区分されるのだろうが、実は、古文が得意だった。古文には、大学入学以来縁がなかったが、古文の文法が身に付けば、読書の幅が広がるのではないかと思って読んでみたという次第である。
本書の構成は、基本的な事をまず先に書いて、その後、講師が説明し、生徒がこれに質問をするという形で、解説が続いている。正直、これが読みにくい。おそらく、講義という形だったらいいんだろうと思うし、他書と区別したいということも理解できる。
どうして読みにくいのかと考えてみた。それは私の高校生のころの勉強方法とも関係しているようだ。必死で古文を勉強した覚えはない。1冊の例文のついた単語集を、例文といっしょに何度も繰り返しただけである。私が受験生のときは、新書サイズのそれほど厚くない古語の単語集があったが、それを繰り返しやっただけである。
コツは、1日15分と短時間毎日繰り返すのである。覚えようとする必要はない。何度も繰り返すうちに自然に覚えてしまうし、例文も頭に入るのだから、古文もあまり苦労せずに読めるようになった。作者でも解けないと揶揄される現代文や、本来中国語である漢文よりよほどとっつきやすい。
だから、あまり文法の細かいところをつつくのは、受験のテクニックとしては、否定的なのだ。私たちが日本語を話すときに文法を気にしているだろうか。そもそも古文の文法知識を問うような問題は、数としては少ないのではないだろうか。そのために本を一冊覚えるというのはどうだろう。基本的な部分を充実させればこんな厚さにはならないと思う。そして理系受験生には、古文関係はより薄くということを求められる。
理系を目指す人間は数学や理科など、他にやらなければならないことも多く、それほど暇ではない。これが文系に進む人だったら違うのだろうが、理系志望者の場合、細かいことを聞かれても、どうせ出来る者は少ないと思えば、出来るに越したことはないのだが、捨ててしまっても、そう致命的にはならない。
細かいことを言うと、動詞の六活用で、「已然形」というのがいきなり出てくる。これは私が高校生の頃聞いた覚えがない(居眠りしていただけかもしれないが)。説明が欲しいところだ。
以上昔の理系受験生からの観点である。国語のある国立理系を目指している人の参考になれば幸いである。
☆☆☆
今日は、放送大学の単位認定試験。受験したのは「Webのしくみと応用」と「コンピュータとソフトウェア」の2科目。今回落ちたとしても、来学期もう一度受けられるので、気が楽だ。別に成績はどうでもいいが来学期受けるとなると面倒臭い。まあ、おそらく単位はとれたんじゃないかな。
試験前に、放送大学が入っている広島大の東千田キャンパスの学食で昼食。食べたのが、肉うどんとオリーブ牛コロッケ、大学芋。
同名小説のコミカライズ版の1,2巻。この作品は数学好きな高校2年の「僕」が、同じクラスの数学女子ミルカや1年下のテトラ、従妹のユーリといっしょに数学をしまくるというものだ。なお、数学の問題は村木先生という数学教師から出されることが多いようだ。
数学にあまり縁がない人にも興味を持ってもらおうという著者の狙いは分かるのだが、どうして、数学がテーマというと、数論とか数学基礎論的な話題が多いのだろう。私も分類すれば理系なのだろうが、色々と理工分野で使われているものには興味がある半面、あまりこの作品で取り上げられた分野には感心がない。まあ、こういうことに興味が湧くかどうかで、真の数学好きかどうかが分かるんだろうが。
ところで、数学女子たちの名前が変わっているので、その由来を色々調べたのだが、結局分からなかった。原作を読めば分かるのだろうか。
それにしても、数学好きの「僕」が数学好きの可愛らしい娘に囲まれてということが、まず実際にはあり得ないと思うのだが。それとも結構数学好きの女子っているのかなあ。
☆☆☆
※初出は、「風竜胆の書評」です。
舞台はある中学校。2年生の佐伯さんは、才色兼備のクラス委員長。しかし、隣の席に座っている時宮君は、佐伯さんの秘密を知っている。佐伯さんは眠るのが大好きで、特に5時間目は居眠りすると決めているのだ。そんな佐伯さんの凛とした惰眠ぶりに魅かれた時宮君、佐伯さんの惰眠を守ろうとやきもきするのだが・・・。この作品はそんな二人の物語。
佐伯さんの惰眠にかける情熱はものすごく、居眠りのあの手、この手を考えてくる。例えば、胸に定規を差し込んで、頭を支えたり、よく眠れるようにアロマを使ったり。そして5時間目に眠るために、自分が当てられたときに困らないように、5時間目だけ予習したり。佐伯さんは5時間目ずっと寝ているわけではない。教師の特性に応じて、居眠りの仕方を変えているのだ。そして自分が当てられたときに分かるようにしている。そもそも、委員長になったのも、居眠りしている間だったので、本人には委員長を引き受けた記憶はないらしい。
私も中高時代はよく居眠りしていた。なぜか当てられても答えられるため、みんな不思議がっていたが、おそらく熟睡していなかったので、少しは教師の言うことが聞こえていたのではないだろうかと思う。別に授業を聞いていたからといって理解力が上がるというようなこともないので、佐伯さんのようにあの手・この手を考えれば良かったと思う。
佐伯さんの家はレストランをやっているが、本人の料理の腕はかなり怪しいようだ。6年前にお母さんが法事で実家に帰ったときのこと、今日は私が晩ごはんを作るとはりきったのはいいのだが、その時のお父さんの感想が「すべてのマズいが融合し私をマズいの森へ誘う」というからすごい。もっとも7歳の時のことだから、あれから料理の腕は上がっているかもしれないのだが。
☆☆☆☆
※初出は、「風竜胆の書評」です。
実家から帰ると、秋田大学通信教育の一般科学技術コースのうち「情報工学概論」の単位認定試験の結果が返っていた。結果はA100である。これで学習単位2単位をゲット。初めての学習単位である。12月までに10学習単位以上とれれば修了となる。一応目途はついているので、後は計画通り、レポートを出すだけ。この講座は、社会教育法に基づくもので、学校教育法に基づく大学通信教育とはまったく関係がないらしい。今月は、放送大学の単位認定試験もあるので、結構忙しい。
この話も明治になって、半七老人が、岡っ引き時代の話を作者に語っているという形式である。今回の話は、不思議な話である。
世の中には「トリ頭」という言葉がある。要するに、直ぐ物事を忘れてしまうということだ。しかし、その代表である鶏が、敵の顔を覚えていたのだから。
半七親分が、子分の庄太といっしょに川崎大師に詣でた帰り道の話、大森にある、ある店で休んでいたところ、その店で飼っていた雄鶏が、突然休んでいた中年増の女に飛びかかったのだ。
半七親分も庄太も、どうもその女に見覚えがあると、いろいろ調べてみると、とんでもない事件が潜んでいた。
その女・お六は、浅草の鳥亀という軍鶏屋で女将をしていた。その鳥亀の亭主が鮒釣りに出て死んでしまったため、店を閉めたのだが、お六を襲った雄鶏は、その鳥亀で飼っていた鶏だったのである。その亭主の死の真相と、もう一つ予想もできないような事件がこれに絡んでくるのだが、どうして鳥亀から売られた鶏がお六を襲ったのか?果たして死んだ亭主の魂が鶏に乗憑ったのか?これについては、不思議という結論でそこに論理的な因果関係はない。ホラーとしては面白いのかもしれないが、ミステリーとしてはどうだろう。それとも三津田信三作品のように、ホラーとミステリーの融合の走りとなるのだろうか?
☆☆☆
※初出は、「風竜胆の書評」です。
加藤諦三さんと言えば、私が学生時代によく見た名前である。人生相談のような内容のものが多かったと思うが、あまり私には縁がなかったので正直な話、当時読んだことはなかった。久しぶりに加藤さんの名前を見たので、つい懐かしくなって手を出してみたという訳だ。この書評を書く前にちょっと調べてみたのだが、ずっとコンスタントに本を出しておられる。加藤さんといえば、著者略歴によると1938年生まれということで、私よりずっと年上なのだが、80歳を過ぎても本を出せるくらいなのだから、その知的好奇心の旺盛さはせいぜい見習いたいものである。
本書のキーワードは3つ。それは表題にある「レジリエンス」と「プロアクティブ」、「リアクティブ」というものである。レジリエンスとは、こう書いてある。
「レジリアンスの定義はなかなか定まっていないようであるが、困難な環境にあっても正常な発達をすることである。」(p28)
たぶんほとんどの人は、これを読んでもよく分からないのではないかと思う。そして、この定義だと、成長段階に限られる思われそうだが、要するに精神的にタフなことを表すこととして使われることが多いと思う。同じことを経験しても、酷く落ち込む人もいれば、なにくそとそんなことなど跳ね飛ばしてしまう人もいる。レジリエンスのある人とは後者のことを言うのである。そして、レジリエンスのある人とは、プロアクティブな人だという。
本書では、プロアクティブとは起きたことに対処すること、リアクティブとは、ただ嘆くだけで、対処しないことと述べている。(p28)しかし、色々調べてみると、プロアクティブとは何か起こる前に積極的、自発的に問題と関わること、リアクティブとは何か起きたときに、問題に対処するという意味で使われることが多く、この本とは少し意味が違っていることには注意が必要だろう。
加藤さんは、プロアクティブ、リアクティブであることをその人の特性だと思っているようだが、私はそれには反対である。これは問題に対する対処の仕方であり、場合に応じて、2つの態度を使い分ければいいと思う。いないだろうか、昔のお父さんで、普段は奥さんの尻に敷かれて、リアクティブに見えるが、いざ一家の大問題ということになれば、前に出て、一転プロアクティブに行動するような人を。まあ今は、一度尻に敷かれればずっと敷かれっぱなしなんだろうけど(笑)。
本書を読むと、誰がこう言ったとか、こういうことがこの本に書いてあるといったような表現が目立つ。どうも横のものを縦にしたような感じが拭えないのだ。注と言う形で巻末にあげられた参考文献リストも外国の物ばかり(一部翻訳されたものはあるようだが)である。そして古い。こういうところに、我が国の文系分野の貧弱さを感じるのは私だけだろうか。
☆☆
ソロキャンプとは、一人でするキャンプのことだ。ソロキャンプと言えば、現在、「COMIC FUZ」(芳文社)に連載中で、アニメにもなった「ゆるキャン△」(あfろ)の主要な登場人物の一人である志摩リンを連想してしまう。一人でやるキャンプには仲間と楽しむキャンプとは違う、独自の楽しみがあるようだ。
そういった意味で、ふたりソロキャンプというのは、矛盾した言葉なのだが、相手が可愛い女の子となると話は違うだろう(笑)。
この作品の主な登場人物は二人。34歳の樹乃倉厳というおっさんと、20歳の草野雫という女の子。巌はソロキャンプを趣味としており、雫はキャンプ初心者だ。ちなみに、巌は雫に言わせれば、「コミュ障で不愛想で口が悪く、ヒゲボーボー」ということらしい。
ひょんなことからふたりはキャンプ場で出会う。雫は巌にいろいろ指導してもらい、二人ソロキャンプを提案する。最初は嫌がっていた巌だが、ぐいぐい来る雫に押され気味。一度お試しで、最後は雫に継続的な二人ソロキャンプの承諾をメールした場面でこの1巻は終わっている。
でも、どう考えても、巌は雫が料理上手の可愛い女の子だから、ふたりキャンプを承諾したんだろうなと思う。これが、相手がもし筋肉ムキムキのおっさんだったら(以下略)。雫が九州の方言をしゃべるというのもいい。方言女子って可愛さが増すよね。
☆☆☆☆
※初出は、「風竜胆の書評」です。