文理両道

専門は電気工学。経営学、経済学、内部監査等にも詳しい。
90以上の資格試験に合格。
執筆依頼、献本等歓迎。

書評:自分を最高値で売る方法

2018-11-30 09:34:36 | 書評:ビジネス
自分を最高値で売る方法
クリエーター情報なし
クロスメディア・パブリッシング(インプレス)

・小林正弥

 最近は不況とも相まって、企業は従業員に払う給与をカットしている。この対策として副業を解禁する企業も多いという。もっともいくら副業を禁止していても、法的にはツッコミどころがあるようだ。

 しかし、なかなか収入が増えないと悩んでいる人は多いだろう。例えば、今現在、月給20万円の人間が、いくら頑張っても次の年に月給100万円になる企業というのは殆どないと思う。(もしかするとあるかもしれないが、歩合制の営業職でない限りまず考えられない。)

 本書での主張は、一言で言えば、自分というものは高額商品に化けるということ。そのためには、モノを売るのではなく、やり方を売れということである。つまり、魚を売るのではなく、魚の釣り方を売れということだ。

 ただし、すべての業務について当てはまるとは思えない。仕事の中には、中に入らないと分からないものも結構あるからだ。また習熟の必要なものだと、いくらやり方を覚えても、それだけではなかなかうまくいかないだろう。おそらくこのビジネスモデルは汎用性の高い仕事の方が向いているものと思う。

 次の主張には賛成だ。

 <安売りの人は、働きがいだけで満足する。
  最高値の人は、働きがいと高額収入の両方で満足する。>
(p222)

 「働きがい」とか「やりがい」というのは、だいたいが「洗脳」の第一歩。ビジネス書にも多いが、この言葉にごまかされて安い賃金でこき使われるのは目に見えている。「自分が上役になったつもりで」というのも危ない。それをいうなら給料も上役と同じだけ払えばいい。そうでないとなんのために上役がいるのか分からない。

☆☆☆

※初出は、「風竜胆の書評」です。
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書評:原民喜 死と愛と孤独の肖像

2018-11-28 11:53:29 | 書評:学術・教養(人文・社会他)
原民喜 死と愛と孤独の肖像 (岩波新書)
クリエーター情報なし
岩波書店

・梯久美子

 原民喜というと「夏の花」などの原爆文学で有名だが、一般には忘れ去られた作家かもしれない。私も放送大学の面接授業で取り上げられるまでは知らなかったし、名前を聞いたこともなかったのだが、彼の作品を読んでみてその美しさに魅了された。

 本書は原民喜の評伝である。岩波の本は流通過程が他の出版社と違うことで有名だ。通常本というのは書店の委託販売になるのだが(だから売れ残ると返品される)、岩波の場合には書店の買取になる。だから通常よく行く書店には岩波の本は置いていないのだが、さすがに広島の書店だからだろうか、この本だけは新書の棚に置いてあった。

 原民喜は1905年に今の広島市中区幟町で生まれた。実家は陸海軍や官庁を相手とした繊維商をしており、幼少期は豊かに育った。彼は人づきあいが苦手で極端に無口だった。友人の詩人・長光太が原の中学時代の同級生である熊平武ニから聞いた話では、中学に入学してから4年の間に彼が声を発するのを聞いた者はひとりもいなかったという逸話が本書に紹介されているほどだ。

 生活能力は全くと言っていいほどなかった原であったが、その原の唯一ともいえる支えだったのが、彼の妻・貞恵だろう。彼女は夫の才能を信じ、彼をよく支えた。原の妻を追想した連作「美しき死の岸に」の中の「苦しき美しき夏」という作品の中に次のような場面があるという。

 小説の構想を話す夫に対して、貞恵は喜びにあふれた顔で次のように言う。

 <お書きなさい、それはそれはきつといいものが書けます。>(p113)

 貞江は民喜より6歳年下だったが、母のような存在だった。しかしその最愛の妻も、肺結核と併発した糖尿病で亡くしてしまう。1944年9月、民喜39歳の時である。この時彼の心は、妻の死と共に死んでしまったのだろう。

<原は妻と結婚したばかりのころ、ふと、間もなく彼女に死なれてしまうのではないかという気がして、「もし妻と死に別れたら、1年間だけ生き残らう。悲しい美しい一冊の詩集を書き残すために・・・・・・」と思ったと書いている(「遥かな旅」)。>(p29)

 しかし、妻の死後、1年を経過する前に広島で被爆してしまう。1945年8月のことである。彼の前に広がったのはまさにこの世の地獄。彼の代表作「夏の花」を読んでみるといい。美しい文体で粛々と描かれる被爆直後のヒロシマの様子に、一層当時の悲惨さが際立ってくるだろう。彼は作家として、ヒロシマの様子を書き残さずにはいられなかったのだ。

 結局彼は自らに課された仕事をやり終えたと思った時に、妻の待つ世界に旅立ったのだろう。享年45歳。早すぎる死だった。本書はそんな原に捧げる鎮魂歌のように思える。

☆☆☆☆☆

※初出は、「風竜胆の書評」です。


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書評:書物のある風景: 美術で辿る本と人との物語

2018-11-26 15:31:35 | 書評:学術・教養(人文・社会他)
書物のある風景: 美術で辿る本と人との物語
クリエーター情報なし
創元社

・ディヴィッド・トリッグ、(訳) 赤尾秀子

 本が届いて装丁が立派なのにびっくり。値段を見てもちょっとびっくりしたが、きっとこの本は、私の本棚の中でもいい位置を占めるに違いない(笑)。収録されているのは、書物の描かれた絵画。本を読んでいる人、本そのものがモチーフになっているもの。すべてではないが、解説が付いているものもあるので、興味がある人は合わせて読むとよいだろう。

 特に興味を引かれたのはミレル・ラゴスという人の「わが家」という作品(p224)だ。なにしろ本がかまくらのようになっているのだから。うーん、こんな家に住んでみたい(笑)。その隣のアリシア・マーティンという人の「現代」という作品では、壁が破れ大量の本が溢れている。これなど我が家を見るようで・・・(涙)

 これだけ絵の題材になっているくらいだから、本好きは昔からいたのだろう。しかし昔は本はとてつもない贅沢品だった。現代のように本が安い時代は、本好きにとってはいい時代に違いない。ところが、最近は本が売れない時代だという。特に専門的な本や少し難しい本は売れない。売れないと、本の値段は高くなる。私が学生の頃と比べると物価の上昇以上に本の値段は上がっているように思える。再び本は贅沢品になるのだろうか。これは本好きにとっては辛いことだ。

☆☆☆☆☆


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放送大学施設見学会参加

2018-11-25 13:32:28 | 放送大学関係


 もう昨日のことになるが、放送大学広島学習センター主催の施設見学会に参加してきた。訪れたのは、江田島市の「さとうみ科学館」。ここは廃校になった深江小学校を利用した施設だ。一般にはあまり知られておらず、私も今回この催しに参加して初めて存在を認識した次第である。



 ここではカブトガニの飼育・研究をしている。瀬戸内海でカブトガニと言えば笠岡のカブトガニ博物館を連想するのだが、実はその他の地域でも、ぼちぼち見つかり新聞に掲載されたりしている。ほんの半世紀前にはものすごくいたようだが、山育ちの私にとっては、何度か潮干狩りに行ったことはあるが、子供のころには一度も海で見たことはなかった。




 科学館で講義を受けたあと、少し行ったところの河口にある干潟でカニの観察だ。夏ごろだと沢山カニが出ているのだが、この季節かなり寒くなったので、あまり穴から外には出ていない。ちょっと顔を出しても、近づくとすぐ穴にもぐってしまう。参加者の平均年齢はかなり高めだったと思うが、みな童心に帰り、干潟でカニを探していたようだ。

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書評:場を支配する「悪の論理」技法

2018-11-24 08:48:17 | 書評:ビジネス
場を支配する「悪の論理」技法
クリエーター情報なし
フォレスト出版

・とつげき東北
・フォレスト出版

 本書で言う「悪の論理」とは、「理屈では間違っているのに、一見正しいとされる論理」のことだ。著者によれば、この「悪の論理」が世の中に多く流通し、無自覚に使われているという。本書ではそんな詭弁とも思える多くの「悪の論理」が紹介され、それに対して的確なツッコミを入れている。

 少し言わせていただくと、本書には現役京大生との論争が掲載されている。幼稚な議論を繰り広げる相手に対して<これがただの人なら「バカな人だなあ」で済む話だが、当時現役の京都大学生だったのだから酷い>(p036)と述べている。しかし、あそこは1万人くらいの学生がいる。つまり京大生といってもピンキリである。私の経験からは、京大生にも残念な人はいくらでもいるのだ。だから別に驚くにはあたらない。

 私も昔はブログやツイッターなどで、よく論争をしていた時期があった。議論を戦わせることは自分の論理力を鍛えることになるだろうと考えたからだ。しかし寄る年波のせいか、最近では面倒くささが先に立ちいっさい論争はしないことにしている。それにバカはいくら論破されたからといって、決して心の底から自分の考えを変えることはないことも実感したからだ。

 著者の次の主張には賛成だ。

<たまに「哲学」といったものをやたら有り難がる連中がいるが、さすがにもういいだろう。哲学とは、すべての学問のうちで、ほとんど最もレベルが低い。きちんとした学問の形になる領域は、哲学ではなくなるからだ。>(p172)

 要するに哲学とは、学問の残りかすということだが、これを聞くと哲学専攻の徒は顔を真っ赤にして起こるだろう。やれ哲学は考える力を養うだのと反論が聞こえてきそうだが、いまどき古代ギリシアの人間などをありがたがるものが他にあるのか。それに考えることはなにも哲学の専売特許ではない。

 お茶の水大名誉教授の土屋賢二さんによれば、哲学には常識的な言葉の使い方にいちゃもんをつけてどうこういっている連中がいるらしい。例えばベルクソンの時間論である。彼は本当の時間とは時計では測れるものではなく、「純粋持続」だとか訳のわからないことを言っている。しかしそれをありがたがる連中が多いのは確かだ。また、ハイデガーの研究者として有名だった故木田元さんは、「哲学は何の役にも立たない」とその著書の中で明言している。

 私にはソクラテスもプラトンもアリストテレスもデカルトもカントもどうでもいいが、個別に見ればその考え方に興味惹かれるものがあることは事実だ。しかし、それをもって哲学全体を認めている訳ではない。

 本書を一読すれば、世の中に多く溢れる、尤もらしいがどこか違うなあという主張に対して突っ込むことができるようになるだろう。それにしても、著者のこのペンネームはどうにかならないものだろうか。いくら良いことを言っても、うさん臭さの方が先に立ってしまうのだが。

☆☆☆☆

※初出は、「風竜胆の書評」です。

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書評:ローズ・アンダーファイア

2018-11-22 09:02:37 | 書評:小説(その他)
ローズ・アンダーファイア (創元推理文庫)
クリエーター情報なし
東京創元社

・エリザベス・ウェイン、(訳)吉澤康子

 主人公のローズはアメリカ人女性飛行士で、イギリスの補助航空隊に所属している。戦闘機の輸送途中でドイツ空軍に捕まり、ナチスの強制収容所の一つであるラーフェンスブリュック収容所に送られることになる。そこはまさにこの世の地獄。

 収容者は番号で呼ばれ、栄養状態も衛生状態も最悪。繰り返される虐待。食べ物はパンのかけらと何が入っているかわからないスープ。色が付いているだけのコーヒーと呼ばれるもの。腸チフスや結核などの疫病が蔓延し、収容者が、点呼中に催した時は、そのまま垂れ流ししないといけなかった。

 またウサギと呼ばれるポーランド人の女性たちも収容されていた。彼女たちは、忌まわしい人体実験の材料にされ、足に傷を持っていた。

 そしてしばしば行われる大量処刑。銃殺やガス室での処刑が日常的な風景なのだ。病気や飢えで死ななくても、いつ自分が処刑される番になるかわからない。死人たちの衣服は回収され、収容者たちに再利用される。そこには人間の尊厳などといったものはない。

 この作品はローズを語り手にして、彼女が収容所に入れられる前後を含めて描き、収容所の悲惨さを描いたものだ。

 それでは、当時のドイツ人がひときわ残虐だったのだろうか。もちろんそんな人間もいるだろうが、多くの人間はそうではなかったのだろう。心理学にミルグラムという人が行った有名な実験がある。この実験についての詳細はググってみて欲しいが、この実験はしばしばアイヒマン実験とも呼ばれている。人間は服従や権威への盲従でいくらでも残虐になれる生き物なのだ。

 それにしても、あのちょび髭の見るからに胡散臭いおっさんに世界中がかき回された時代。今から見ればアホらしいことこの上ないが、いったん権威が確立されると人はそれに盲従してしまうものだ。

 ところで、この作品もやはり、「正しい理科知識普及委員会(自称)」からの指摘は免れなかった(笑)。

 この作品にも「高圧電流が流れている」という表現が気が付いただけで2か所。もう指摘するのも疲れたのだが、「高電圧」とか「大電流」というものはあるが、「高圧電流」というものはない。一応、出ている箇所を抜き出しておこう。ローズたちが、ラーフェンスブリュック収容所を脱出して、そこから飛行機を盗むことになる飛行場に拘束されているときのことだ。

<わたしは、自分たちが有刺鉄線のフェンスのすぐそばに立っていたので心配だったことを覚えている。そこにはたぶん高圧電流が流れているに違いないと。>(p369)

<それなのに、高圧電流の流れる鉄条網に囲まれ・・・>(p371)

 この表現は2重の意味で間違っている。一つは先に言った通り、「高圧電流」というものはないということ。もうひとつは、鉄条網に高圧の電圧はかかっているかもしれないが、常時はほとんど電流が流れていないということだ。電流は何かが鉄条網に触れたとき、そこから大地に向けて流れるのである。

 次の箇所も気になる。

<重力というものは常に一定だと思うかもしれないが、そうではない。曲芸飛行や急降下をする場合-凧が砂浜に墜落する場合もー加わる重力は増し、通常の重さ以上になる。>(p423)

 これは力学の初歩 F=ma を知っていれば間違いだと分かる。慣性力の方向を考えると、曲芸飛行はともかく、急降下する場合、減速している場合にのみ、慣性力と重力の方向がベクトル的に一致して、見かけの重さが増す。凧のように自由落下する場合には、重力と慣性力がキャンセルするため、無重力状態に近くなるのである。

 著者はカバーに掲載されている紹介によれば、小型飛行機を操縦するのが趣味のようだが、こういった科学的な知識には疎いようなのは残念だ。

☆☆☆☆

※初出は、「風竜胆の書評」です。


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書評:ミクロコスモス: 森の地衣類と蘚苔類と

2018-11-20 13:37:42 | 書評:学術教養(科学・工学)
ミクロコスモス: 森の地衣類と蘚苔類と
クリエーター情報なし
つかだま書房

・大𣘺弘、(解説)田中美穂

 本書を一言で表現すれば、苔(蘚苔類)と地衣類の写真集である。苔はなんとなく分かると思うが、地衣類というのは、菌類に藻類(シアノバクテリアや緑藻)が共生しているものだ。一般にはまとめて苔と思っている人が多いだろうが、苔と地衣類は全く異なるものである。苔は植物であるのに対して、地衣類はキノコやカビの仲間で植物とは一線を画しているのだ。もっとも両者を合わせて広義のコケという場合もあるからちょっとややこしい。

 ページを開くと、なんとも幻想的で不思議な世界が広がる。コケとはこれほどまでに美しいものだったのか。妖精がこの周りに飛び跳ねていても全然不思議とは思えない。むしろ本当にどこかに隠れていそうである。

 実はこの春京都に行ってきた。京都で苔といえば苔寺(西芳寺)だ。昔は拝観料を払えば気軽に入れたのだが、苔が痛むという理由で大分昔に事前申し込み制になり敷居が高くなった。私が行ったのは嵯峨野の祇王寺。ここの苔も美しい。こんど苔の生えているような場所に行くことがあれば、じっくり観察をするのもいいだろう。きっとその美しさに魅了されることだろう。

 最後にひとつ改善点を挙げたい。掲載されているコケの種類が一応掲載されてはいるのだが、写真の掲載されている場所ではなく、最後に纏められているので、いちいち見比べなくてはならない。写真と同じページに入れることはできないのだろうか。

(注)本書評においては、「コケ」という言葉は、蘚苔類、地衣類を含めた広義の意味で使っています。

☆☆☆☆☆

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放送大学面接授業(ミクロ経済学の思考法)

2018-11-19 18:56:53 | 放送大学関係
 もう昨日のことになるが、この土日は、放送大学広島学習センターで面接授業を受講していた。受講したのは、「ミクロ経済学の思考法」。

 講師は放送大学広島学習センターの新垣繁秀氏。授業の内容は、ミクロ経済学の基礎の基礎といったもの。いつも面接授業を受講するたびに思うのだが、放送大学の学生は普通の大学よりレベル差が大きい。特に理系科目や経済学など数式や数値を扱うものにはそれが顕著だ。

 本当はレベルごとに分けるのがいいのだろうが、そうすると上級の受講者が少なくなるのだろう。これが、首都圏ならレベル分けをしても案外と人が集まるだろうが、地方では限界がある。難しいところだ。
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放送大学通信指導提出

2018-11-18 21:16:55 | 放送大学関係
生理心理学 (放送大学教材)
クリエーター情報なし
放送大学教育振興会


 本日放送大学のシステムWAKABAから、今学期受講している「生理心理学」と「社会心理学」の通信指導を提出した。これであとは試験を受けるだけ。上記の科目2つとも合格すれば、放送大学5回目の卒業となる。とりあえずは提出して一安心というところだ。

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書評:魔邸

2018-11-18 21:07:18 | 書評:小説(ミステリー・ホラー)
魔邸
クリエーター情報なし
KADOKAWA

・三津田信三

 主人公は、母の再婚に伴い、姓が「瀬戸」から「世渡」になった優真という少年。義父となった知英にはなじめなかったが、新しく叔父になった知敬には懐いていた。話は知英が海外赴任をすることになったため、優真が、知敬の持っている別荘で暮らすことになったことから、不気味な事件の幕開けとなる。

 その別荘の裏手には、「じゃじゃ森」という不気味な森が広がる。その森では「神隠し」が起こるとのうわさがあった。知敬の別荘は、かってその森で行方不明になった少年を助け出したことにより、当時の所有者から譲られたものだ。

 しかし最後の方で、意外な真相が明らかになる。神隠しの真実、叔父・知敬の本当の姿など。

 三津田信三といえば、ホラーとミステリーが融合した作風で知られる。この作品もそんな感じだ。読後感は、ちょっと中途半端かなという感じである。ホラーにしては、それほど怖くないし、ミステリーの中に超自然的要素を入れているのは、やりようによっては何でもありになるので、それほど褒められたものではないだろう。ミステリー要素は入れるにしても、もっとぞくぞくするような恐怖を感じるような作品を読みたかった。

☆☆☆

※初出は、「風竜胆の書評」です。

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