文理両道

専門は電気工学。経営学、経済学、内部監査等にも詳しい。
90以上の資格試験に合格。
執筆依頼、献本等歓迎。

高校の学力テスト(思い出シリーズ43)

2024-09-19 00:54:44 | 思い出シリーズ
 私は、山間部にあった小さな県立高校の出身だ。どのくらい小さいかというと1学年120人程度しか生徒がいなかったのである。一応は進学校ということになっており、毎年1人か2人は旧帝大クラスに進んでいた。今だったらまず考えられないが、昔はそんな高校が結構あった。
 私は京大だったが、同級生には九大もいた。山間部にあったと過去形を使っているのは最近の少子高齢化のために近隣の高校と統合され、私の通った高校自体は廃校になったからだ。田舎だったので塾や予備校と言ったものは存在しなかった。今のように塾に行くのが当たり前になっているような時代ではなかったのだ。大学自体は定員は変わらないのだから、難関校と言われるところは実質難易度は下がっているはずだ。
 それはさておき、120人のうち1人か2人旧帝大クラスと言うことは、学校の成績も1番か2番だったと思う人も多いだろう。実は悪くはないが範囲を定めて行われる定期テストでは4~5番目当たりをうろうろしていた。ただ、範囲を定めないような模擬テストでは圧倒的に強かった。大学入試にはどちらが有利かと言うのは言うまでもないだろう。だから私はあまり定期テストという奴を信用していない。ただ、3年になると定期テストの方も順位が上がったのは謎である。

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えっ?痩せた(思い出シリーズ42)
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えっ?痩せた(思い出シリーズ42)

2024-09-15 21:27:25 | 思い出シリーズ
 私の大学時代のことをひとつ思い出したので記しておこう。同じ学生アパートの住人だった男の話だ。大学ははっきり覚えていないが、確か立ちゃんだったと思う。

 私のいた学生アパートは、私が大学に入った時に建てられたもので、皆同じような歳だった。(ただし浪人を何年していたかで多少の誤差はある。)その中に例の彼もいたのだが、あるときアパートを出て行ってしまった。別に卒業したわけではない。まだ大学在学中だったのだ。その後確か1度アパートに遊びに来たが、アパートに入ったころは太ってはいないまでも、どちらかといえばふっくらしていたのに、その時はかなり痩せていた。

 本人に聞いたわけではないが、噂によると、かなり年上の女性と暮らして居て、スナックなどを手伝っていたようだ。もちろん男女の関係もあるのだろう。でもそんなに痩せるまで・・・(以下自粛)

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私の通った高校(思い出シリーズ41)

 
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私の通った高校(思い出シリーズ41)

2024-06-04 18:30:50 | 思い出シリーズ
私の通った高校は、山口県の山間部にある1学年120人程度の小さな学校だった。少子高齢化の波に押されて現在は廃校になっている。しかし、珍しいことに、なぜか「水球部」があった。水球部がある高校自体が少ないのに、なぜか田舎の小さな高校にあったのだ。もっとも、そこの部員には色々思うところがあったのだが。ちなみに、「野球部」はなかったので、暑い中応援に駆り出されるということはなかったのは幸いだった。普通高校だったにも関わらず廃校時に近くの工業高校と合併したのだが、そこに野球部があったものだから、統合後の高校には野球部が存在している。生徒たちは応援に駆り出されているのだろうか。それはよく分からない。自由意思で有志だけというのなら問題ないのだが。水球部の方はホームページを見ても無かったので、統合の際に廃止になったのだろうか。もっとも部員の数も少ないようだったのでその前から廃部だった可能性もあるが。
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また一人いなくなった(思い出シリーズ40)
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また一人いなくなった(思い出シリーズ40)

2024-05-04 14:21:45 | 思い出シリーズ
 久しぶりの思い出シリーズである。以前書いたのが2018年10月であるから実に5年半ぶりである。さすがに昔のことはあまり思い出すことが少なくなり、ネタもなくなってきたので、このテーマで書くことがなくなったからである。

 それでも、今回書こうと思ったのは、もう昨年のことであるが、喪中の連絡が来たからである。それもいつも年賀状をやりとりしている本人ではなくその奥様から来た。本人は昨年亡くなったそうだ。同じ学生アパートに暮らしたことがあり、私が訃報を知ったのはこれで二人目である。音信不通になった人たちの中にも亡くなった人がいるかもしれない。亡くなったT君は、大学こそ違たものの同じ学生アパートができたときにいっしょに入居したということもあり結構つるんで遊んでいた。一つ年上だったとはいえ、今の基準から言えばまだ若い部類に入るだろう。彼は卒業後に生まれ育った県に帰りそこで警察官になっていた。

 また一人、学生時代の知り合いがいなくなってしまった。亡くなった原因は分からないが、みんなそんな年齢になったんだと少し寂しい思いがする。

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鬼ごっこ(思い出シリーズ39)
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鬼ごっこ(思い出シリーズ39)

2018-10-28 00:18:46 | 思い出シリーズ
 そういえば、子供の頃すごい遊びをしていたのを思い出したので「思い出シリーズ」に付け加えておく。

 それは「縛り鬼」という遊びだ。鬼になったやつを電柱にふん縛って、鬼は縄抜けをした後で、隠れている他の子たちを探す。要するに数を数えるとか「もーいいかい」という代わりに、鬼が縄抜けをするのである。

 これが、同じ人間ばかりふん縛ったらいけないのだろうが、鬼になる人間は公平にじゃやんけんで決める。今やると、色々な意味でちょっとまずいだろうが、大昔の超田舎での話だ。

 ただ、鬼になった子がいつまでたっても縄抜けができずに泣きだしたので、その後その遊びが行われることはなかったような・・・。

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遠足の目的は(思い出シリーズ38)

 
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遠足の目的は(思い出シリーズ38)

2016-10-17 08:00:00 | 思い出シリーズ

 「Mine秋吉台ジオパーク」の記事を書いていると、小学校時代のことをひとつ思い出したので、「思い出シリーズ」としてここに書いておこう。

 私の通っていた小学校は、秋吉台からそれほど離れていないこともあり、秋の遠足では必ずと言っていいほど秋吉台に登っていた。秋吉台に登るバスもあったのだが、小学生の遠足のこと。皆で元気よく歩いて登るのである。

 秋吉台に登ると、皆でセンブリという薬草を採取する。白色の小さくて可憐な花が咲く植物だが、煎じると健医薬となる。ただしものすごく苦い。千回振り出してもまだ苦いということで、この名がついたらしい。最近は採集が禁止しているようだが、昔は地元の人は自由に採取していた。あお、同じような植物で紫色の花を咲かせるものがあるが、こちらはイヌセンブリと呼んでいたのだが、今ネットで調べてみると、出てくる画像が、どうも私が記憶しているものと違う。もっと調べてみると紫色の花を咲かせていたのは、ムラサキセンブリという名前だったらしい。

 センブリやムラサキセンブリは、かっては麓のほうでもたまに見ることがあったのだが、最近ではそんなことはない。また機会があれば、秋吉台に登って目にしてみたいものだ。

 ところで、なぜ遠足でセンブリを集めていたか。実はセンブリを地元の薬局に売って、その金でドッジボールなど学校の備品を購入していたらしい。今はもちろんそんなことはできないだろうし、売っていた薬局も、もうだいぶまえに無くなってしまった。


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鴨川をどんぶらこ(思い出シリーズ37)
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鴨川をどんぶらこ(思い出シリーズ37)

2015-12-06 18:04:43 | 思い出シリーズ
 私が、大学院に通っていたころのこと。同じ学生アパートの隣に部屋に、同志社に通う学生が住んでいた。この男、酔っ払って鴨川沿いをふらふらと歩いていたそうな。なにぶん酔っ払いのこと、足を滑らせて、川の中にドボンと落ちてしまったらしい。らしいというのは、後で本人から聞いたことなだからだ。

 酔っ払いなので、その時何を考えていたのかは定かではないが、なぜか岸に上がろうともせず、そのまま、桃太郎の桃よろしく、流れに身をまかせて、どんぶらこ、どんぶらこと流れて行ってましたとさ。

 このまま、海まで流れていってしまうかと思っていたら、親切な人が、川へ飛び込んで拾い上げてくれ、めでたし、めでたしとなったとのことだった。

 でも、賀茂川って、それほど深くはなかったと思うのだが。当事、雨で水かさが増していたという記憶もないし、彼は、結構背の高い男だったので、立てば、底に足がつくと思うのだが。何分酔っ払いの話なので、どこまで正確かはよく分からないのだが。

※本記事は、2006.02.11付で「時空の流離人」に掲載したものに加除修正を行ったものです。

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鈴虫のお土産(思い出シリーズ36)

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鈴虫のお土産(思い出シリーズ36)

2015-12-05 13:26:05 | 思い出シリーズ
 学生のころ、同じアパートに、某菓子メーカーの経営者一族の息子が住んでいたことは既に書いた。結構金持ちの家だったのに、なぜ、我々のような庶民御用達の安アパートに住んでいたのかは、未だに謎である。彼が通っていた京都工芸繊維大学に近かったということがあるのかもしれない。

 彼の家に、同じアパートの連中と遊びに行ったことも、以前書いた通りだが、このとき彼の実家に鈴虫を飼っているのを見つけた。元々昆虫大好き人間なので、興味を持って、何か言ったのだと思うが、さすがにお金持ちの家は太っ腹だ。鈴虫、持って帰りなさいということになった。

 虫好きの私としては、何も考えずにありがたくいただいたのだが、これが間違いにもと。何しろ、私が住んでいたのは、四畳半の学生用アパートの一室。それも京間なので狭い。我が家にやって来た、鈴虫は、環境が変わっても、夜になると、元気に鳴く。しかし、これを風流だと思ってはいけない。あれは、どこかそこらへんで、わびしく鳴いているのを聞くから風情があるのであって、狭い部屋の中で、何匹も一斉に鳴いていたら、そのうるささはかなりのものである。夜ろくに寝られないくらいだの音量なのだ。もちろん、アパートの他の住人が引き取ってくれるはずもなく、かといって、もらったものを外に逃がすと言うのも気が引けるので、冬が来て、鈴虫さんたちがご臨終になるまで、こんな状態が続いていた。

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またしても寺の跡取り息子の話(思い出シリーズ35)
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またしても寺の跡取り息子の話(思い出シリーズ35)

2015-11-16 12:22:47 | 思い出シリーズ
 またしても、幼馴染の寺の跡取り息子の話である。

 大学時代、幼馴染である寺の跡取り息子が、僧侶になる勉強をするために、京都にある仏教系の大学に通っていたことは、既に書いた通りだ。

 時々会っていたが、人の顔を見ると、いつも女の子の話しかされた記憶しかない。いかにも自分が、もてもてのような感じでしゃべっていたのだが、そのわりには、いつも、合コン、合ハイ(合ハイとは、女子大の女の子たちと一緒に行う「合同ハイキング」のこと。昔は、健全な男子大学生は、こんなことでもしないと、女子と知り合う機会がなかったのだ。合コンは、昔は大学生限定で使われていたと思うが、最近はもっと幅広く使われているようだ。しかし、合ハイってどうなんだろう。今でもうやっているのだろうか)やろうと、人にけしかけてくる。そんなにもてているのなら、合コン、合ハイなんて必要ないだろうと思うのだが。もう一回念押しすると、彼は寺の跡跡取り息子である。立派な坊さんになるために、わざわざ京都の大学まで、勉強をしに来ていたのである。

 さて、この寺の息子、ある時、ちょっと来て手伝って欲しいことがあると電話をかけてきた。行ってみると、食事をおごるから、卒論を手伝ってくれと言う頼み。いったい何をすれば良いのかと思ったら、いきなり浄土真宗関係の書籍を渡され、使えそうなところを抜き出してまとめてくれとのこと。皆さんはもう知っていると思うが、私の専攻は電気工学である。いくらありがたい親鸞様のお言葉でも、そうすぐに、内容が頭の中にすうっと入ってくるわけがない。そのうえ、彼が、どんな論旨で論文を書くつもりかも分からないのである。(多分、本人も何も考えてなかったと思うが。)

 それでも、まあ、適当に書いて渡したが、後でしっかりカップラーメン1杯おごってもらった(これが約束の食事だそうだ)。私も本当に人がいい。その2年後には、彼の弟の卒論も、同じように手伝うはめになろうとは、その時点では知る由も無かったが・・・。

 その後、彼がどのような卒論を仕上げたかは知らないが、ともあれ、その彼も、いまは立派な?住職になっている。

※本記事は、2006.02.15付で、「時空の流離人」に掲載したものに加除修正を行ったものです。


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警察に捕まったヤツをもらい下げに行った話(思い出シリーズ34)

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警察に捕まったヤツをもらい下げに行った話(思い出シリーズ34)

2015-11-07 10:25:45 | 思い出シリーズ
 私は、大学院の学生時代に、警察に捕まったヤツをもらい下げに行った経験がある。というと驚く人もいるかも知れないが、そう大した話では無いことは、あらかじめ断っておく。

 ある夜、住んでいた学生アパートの近くにある交番から電話がかかってきた。同じ学生アパートの学生を原付の無免許運転で捕まえているので引き取りに来いというのだ。

 その学生は、同じ大学の工学部の金属工学の学生であった。同じ大学の同じ学部といっても、歳も違うし、学科も違い、何回か話はしたことがあるが、そう親しいと言う訳でもない。

 どうして、私のところにとも思ったが、一応後輩に当たるので、かわいそうに思ってもらい下げに行った。(私も人が良いですな。)

 行って話を聞くと、どうも兄の原付を無免許で乗っていて捕まったらしい。それだったら、兄にもらい下げに来てもらえばよさそうなものだが、あっちに話が行くと怒られると思ったのか、身元引受人として、私の名前をあげたようだ。

 警察もいい加減なものである。肉親が近くにいるのなら、そちらに引き取らせるのが筋だろうにとも思ったのだが、面倒くさかったんだろうな。さすがは、こんなことあったK府警(今はどうかは分からないが)。かわいそうに思ったので、何かの書類に書き込んで、放免してもらった。

 でも、この男、この後、「ご迷惑をおかけしました。」の一言もない。引き取ってもらったことに感謝している様子も無い。これだったら、引取りを拒否して、ブタ箱に2~3日放り込んでもらって反省させれば良かったかなと、少し後悔した次第だ。よく「いまどきの若者は」などというが、こんなのは、昔からいたことは確かである。

※本記事は、2006.08.21付で「時空の流離人」に掲載したものに加除修正を行ったものです。

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K君の思い出(思い出シリーズ33)




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