マリヤンカ mariyanka

日常のつれづれ、身の回りの自然や風景写真。音楽や映画や読書日記。手づくり作品の展示など。

300年前の道標

2018-08-13 | Weblog
幾度も通っている道ですが、
今まで気づきませんでした。
吉田の京大の石垣の前に、
ほとんど葉隠れの術か、と思うほど目立たない小さな道標が立っています。
鉄の枠が、何とか崩れ落ちるのを塞いでいます。
下部は埋もれて消えているようです。

左 百まんべん(百万遍)、
右 さかもと(坂本)、からさき(唐﨑)、白川、と彫ってあります。
ここから右(東)へと進み
白川に沿って、比叡山へ登り、滋賀県側に降りれば(山中越え)
坂本へ、そして唐崎へ到達します。
1日がかりです。
一方、ここから百万遍までは、歩いて5分くらい。


裏側には、宝永6年の文字が読み取れます。
309年前、江戸時代の中期、
電車も、車も、自転車も、無い時代。
どこへ行くのも、歩く、
歩くことが全ての基本だった時代です。

そして、宝永は大変な時代でした。
日本列島の各地で地震や噴火が相次ぎ、
ついに、宝永4年に、歴史上日本最大級と推定されている宝永地震(南海トラフ・M8.4~8.7)が起き、
その49日後には富士山の噴火が起きています。
富士山の宝永の噴火では、関東一帯に降り注いだ火山灰で、
農作物は甚大な被害を受けました。
河川には大小の天然のダムができ、
雨が降ると決壊し、
多くの水害が起こったそうです。
富士山はその時から噴火していません。

宝永地震(南海トラフ)では、
津波で多くの町や村が消え、
何万人もの人が亡くなったそうです。
また京都では宝永5年に大火災があり、
1万人以上の人が無くなり、
町の中心部の広大な面積(今出川~錦まで)を焼失したそうです。

この道標はそんなすさまじい時代に建てられたのです。
人はどんな目にあっても、生きようとする、歩いていく…
この道標は、それを黙って見てきたんだなと思いました。

家に帰って写真を見ていたら、
道標のそばの地面にこんなものが

知りませんでした。
大切にしたい史跡ですが、
今にも崩れそうです。









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