「里山」と言う言葉を初めて聞いた時、少し違和感がありました。
「里の山」とどう違うのかな?
でも四手井綱英の書いたものや、今森光彦の田んぼや虫の写真をみたりするうち次第に納得。
生態学のある先生は「里山」とは山と里がひとつながりになったもので、
ため池や田んぼや水路や土手や畔も萱場もみんなひっくるめて里山として見るべき、と書いています。
なるほどそうか、さすが、と感心しました。
でも、「里山」という言葉がすっかり定着したように思える今頃になって、
なんか「里山」がひっかかるようになってきたのです。
新聞などで都会の人対象の里山体験や、里山遊びや、里山ボランティアの記事を見た時には特に。
「里山」はオールマイティの言葉のように使われているようになりました。
都会に隣接する山であろうと、都会から遠く離れた山であろうと、、、
村を潰してダムを作り、発電した電気は都会の便利な暮らしのために使う。
そうで無い場合でも、路線バスが廃止され、分校は廃校になって、、、
お年寄りばかりのさびしい村になり、限界集落への道をたどり、やがて廃村になるしかない、
そんな話を聞くたびなんかおかしいと思うのです。
社会は山里を見捨て荒廃させてきたことに対して、
もちろん個人の責任ではないのですが、そのような社会を今も推し進めることに異議を申し立てずに、
里山を守る、ってなんか変です。
里がなくて里山はあり得ません。
苦手だけどやっぱり政治、経済を横においての里山論は空しいです。
TPPによってさらに打撃を受けることになるでしょう。
「里の山」の「の」を取っただけでなにか学術的な言葉のような、
それでいてなんかナチュラリストみたいな印象があります。
四手井氏はいい言葉を思いついたもんです。
管理好きの行政は里山という山さえ管理すればいいと都合よく考えます。
かつて、山をシイやカシの生い茂る暗い森になる遷移(西日本の場合)に任せておくべきか、
それとも戦前ように、どんどん切って遷移を人為的に止めて明るい森にすべきかという論争がありました。
あれからずいぶん時が経ちました、
その後どうなったか、村里は?木々は?森の生き物は?キノコや動物は?地質なども含めて
もう一度検証すべき時だと思います。
里の裏山、林や小川、あぜ道やため池、やっぱりそんな風に表現する方がいいです。
「の」を復活させて、いなかの様子が目に浮かぶような言葉を使う方がいいと思います。
「里の山」とどう違うのかな?
でも四手井綱英の書いたものや、今森光彦の田んぼや虫の写真をみたりするうち次第に納得。
生態学のある先生は「里山」とは山と里がひとつながりになったもので、
ため池や田んぼや水路や土手や畔も萱場もみんなひっくるめて里山として見るべき、と書いています。
なるほどそうか、さすが、と感心しました。
でも、「里山」という言葉がすっかり定着したように思える今頃になって、
なんか「里山」がひっかかるようになってきたのです。
新聞などで都会の人対象の里山体験や、里山遊びや、里山ボランティアの記事を見た時には特に。
「里山」はオールマイティの言葉のように使われているようになりました。
都会に隣接する山であろうと、都会から遠く離れた山であろうと、、、
村を潰してダムを作り、発電した電気は都会の便利な暮らしのために使う。
そうで無い場合でも、路線バスが廃止され、分校は廃校になって、、、
お年寄りばかりのさびしい村になり、限界集落への道をたどり、やがて廃村になるしかない、
そんな話を聞くたびなんかおかしいと思うのです。
社会は山里を見捨て荒廃させてきたことに対して、
もちろん個人の責任ではないのですが、そのような社会を今も推し進めることに異議を申し立てずに、
里山を守る、ってなんか変です。
里がなくて里山はあり得ません。
苦手だけどやっぱり政治、経済を横においての里山論は空しいです。
TPPによってさらに打撃を受けることになるでしょう。
「里の山」の「の」を取っただけでなにか学術的な言葉のような、
それでいてなんかナチュラリストみたいな印象があります。
四手井氏はいい言葉を思いついたもんです。
管理好きの行政は里山という山さえ管理すればいいと都合よく考えます。
かつて、山をシイやカシの生い茂る暗い森になる遷移(西日本の場合)に任せておくべきか、
それとも戦前ように、どんどん切って遷移を人為的に止めて明るい森にすべきかという論争がありました。
あれからずいぶん時が経ちました、
その後どうなったか、村里は?木々は?森の生き物は?キノコや動物は?地質なども含めて
もう一度検証すべき時だと思います。
里の裏山、林や小川、あぜ道やため池、やっぱりそんな風に表現する方がいいです。
「の」を復活させて、いなかの様子が目に浮かぶような言葉を使う方がいいと思います。