好きなこと・・・趣味を、追求する。
時間とお金と、エネルギーを堪能するまで、たっぷり注ぐ。
誰にも迷惑をかければ、なにをしてもいい。
はず、なのだが・・・
それも、内容による。
犯罪一歩手前の趣味や、健康上よくない趣味、
生活が破綻するような趣味はおススメできない。
逆に、研究や、健康にいいライフワークや、人のためになったり、
趣味が高じてプロになったりするような、好ましい趣味もある。
精進するようなものは、よいが、
どうも私は、享楽的な生活ができない。
浪費するばかりは、楽しくない。
かつて、東京に住んでいた時、毎日、毎日、遊んでいた。
出歩き回ったり、人のお宅にべったり居ついたり。
映画、観劇、コンサート、ホテルのディナーショー、展覧会、
ショッピング、グルメ、お酒、旅行、パーティ、ファッションあれこれ、
街探索、イベント、お稽古、スポーツ、・・・
何組かで合流したり、何泊もしたり、家族ぐるみのお付き合いもあった。
気の合う人と昼下がりに、ぶらり街歩きをしたり、
深夜の街に、出かけたり・・・
顔の広い人と親しかったので、その人と一緒にいると
いろんな方と出会った。
棚ボタ式、パラサイト依存交流も多々あった。
著名な方にも、お会いした。
有名なお店にも、行った。
大物政治家のお嬢さんを交え、よくいっしょに遊んだ。
(お子さん連れの時は、お付きのベビーシッター嬢も一緒だった)
豪邸にも、お招きいただいた。
当時、住んでいたところに因るものが、大きかったようだ。
東京は、さすが中央だと思った。
住民の顔ぶれ等を見ても、それを思わせた。
今、総裁選、渦中の人物名も聞こえてきた。
(ご親戚なのかも知れないが)
大手老舗企業の社長私邸の土蔵が、ま後ろにあり、
ドロボー騒ぎも起きたことがある。
そういう日々は、夫の転勤辞令が出て、東京の地を離れるまで、
2年間、続いた。
また遊びほうける日々を送りたいかといえば、
別に、そうでもない。
経済的理由からでは、ない。
浪費するばかりでは、おもしろくないと感じたからだ。
同じことの繰り返し。
両手からするりと、何かがこぼれ落ちるような
積み重ねても、実感がない、虚構のような世界。
若かった。
その時、その時は、おもしろいのだが、
それが続くと、虚しくなる。
点と点は、つながって、やがて線にならなければいけない。
何も残らず、点だけで、消えてしまっては、
あまりにも刹那的。
遊びの経験が少ない人にとっては、その、その場限りの
刺激がたまらないのかも知れないが。
何が好きなのかもよくわからない私には、遊びの洪水は、
若い日の、経験のひとつだった。
そんな日があってこそ、今の自分がいる。
今、私はこの年齢になって、
リタイアにはまだ早い、でも、そこそこの年齢の人で、
たっぷりの自由時間があって、
遊ぶ一方の人を見ていると、なにかしら違和感がある。
いくら趣味だからと言っても
今まで、よほど遊ぶ機会がなかったのか、
浪費するばかりの行動に、疑問を抱かないのだろうか。
どのぐらい続けると、もう十分、となるのだろう。
ひょっとして、ある日、突然、今までの遊びの集大成を
カタチとして発表、発揮する時が来るのかも知れない。
それはそれで、楽しみだ。
苦しみながら、無理矢理、浪費して遊んでいる、という同級生の話を
先日、Bさんから聞いた。
もともと綺麗な人であるが、さらに着飾り、お連れの人々を従えた
彼女の表情は、決して楽しそうには見えなかったらしい。
迫り来る何かの重圧に、抵抗するごとく、
苦渋に満ちていたようにも感じられたと、Bさんは言っていた。
彼女は、誰が見ても羨ましいような、
幸せそのものの生活を送っているはずなのに、
現実のどこかに「心の闇」を抱えているそうだ。
どこかで、バランスが崩れたのだろう。
やはり、遊ぶだけ、は、私には合っていない。
そう。
で、それで? その結果、生み出すものは?
それが、ほしい。
時間とお金と、エネルギーを堪能するまで、たっぷり注ぐ。
誰にも迷惑をかければ、なにをしてもいい。
はず、なのだが・・・
それも、内容による。
犯罪一歩手前の趣味や、健康上よくない趣味、
生活が破綻するような趣味はおススメできない。
逆に、研究や、健康にいいライフワークや、人のためになったり、
趣味が高じてプロになったりするような、好ましい趣味もある。
精進するようなものは、よいが、
どうも私は、享楽的な生活ができない。
浪費するばかりは、楽しくない。
かつて、東京に住んでいた時、毎日、毎日、遊んでいた。
出歩き回ったり、人のお宅にべったり居ついたり。
映画、観劇、コンサート、ホテルのディナーショー、展覧会、
ショッピング、グルメ、お酒、旅行、パーティ、ファッションあれこれ、
街探索、イベント、お稽古、スポーツ、・・・
何組かで合流したり、何泊もしたり、家族ぐるみのお付き合いもあった。
気の合う人と昼下がりに、ぶらり街歩きをしたり、
深夜の街に、出かけたり・・・
顔の広い人と親しかったので、その人と一緒にいると
いろんな方と出会った。
棚ボタ式、パラサイト依存交流も多々あった。
著名な方にも、お会いした。
有名なお店にも、行った。
大物政治家のお嬢さんを交え、よくいっしょに遊んだ。
(お子さん連れの時は、お付きのベビーシッター嬢も一緒だった)
豪邸にも、お招きいただいた。
当時、住んでいたところに因るものが、大きかったようだ。
東京は、さすが中央だと思った。
住民の顔ぶれ等を見ても、それを思わせた。
今、総裁選、渦中の人物名も聞こえてきた。
(ご親戚なのかも知れないが)
大手老舗企業の社長私邸の土蔵が、ま後ろにあり、
ドロボー騒ぎも起きたことがある。
そういう日々は、夫の転勤辞令が出て、東京の地を離れるまで、
2年間、続いた。
また遊びほうける日々を送りたいかといえば、
別に、そうでもない。
経済的理由からでは、ない。
浪費するばかりでは、おもしろくないと感じたからだ。
同じことの繰り返し。
両手からするりと、何かがこぼれ落ちるような
積み重ねても、実感がない、虚構のような世界。
若かった。
その時、その時は、おもしろいのだが、
それが続くと、虚しくなる。
点と点は、つながって、やがて線にならなければいけない。
何も残らず、点だけで、消えてしまっては、
あまりにも刹那的。
遊びの経験が少ない人にとっては、その、その場限りの
刺激がたまらないのかも知れないが。
何が好きなのかもよくわからない私には、遊びの洪水は、
若い日の、経験のひとつだった。
そんな日があってこそ、今の自分がいる。
今、私はこの年齢になって、
リタイアにはまだ早い、でも、そこそこの年齢の人で、
たっぷりの自由時間があって、
遊ぶ一方の人を見ていると、なにかしら違和感がある。
いくら趣味だからと言っても
今まで、よほど遊ぶ機会がなかったのか、
浪費するばかりの行動に、疑問を抱かないのだろうか。
どのぐらい続けると、もう十分、となるのだろう。
ひょっとして、ある日、突然、今までの遊びの集大成を
カタチとして発表、発揮する時が来るのかも知れない。
それはそれで、楽しみだ。
苦しみながら、無理矢理、浪費して遊んでいる、という同級生の話を
先日、Bさんから聞いた。
もともと綺麗な人であるが、さらに着飾り、お連れの人々を従えた
彼女の表情は、決して楽しそうには見えなかったらしい。
迫り来る何かの重圧に、抵抗するごとく、
苦渋に満ちていたようにも感じられたと、Bさんは言っていた。
彼女は、誰が見ても羨ましいような、
幸せそのものの生活を送っているはずなのに、
現実のどこかに「心の闇」を抱えているそうだ。
どこかで、バランスが崩れたのだろう。
やはり、遊ぶだけ、は、私には合っていない。
そう。
で、それで? その結果、生み出すものは?
それが、ほしい。