今朝は、サプライズお誕生日メールがあちこちから。
「おたんじょうび、おめでとう」と大きく書かれた紙の前で、孫のフォトジェニック・スマイル。
「おばあちゃん、いつもありがとう」という、娘婿の通訳メッセージつき。
趣味のSNSでは、お誕生日メッセージが、ある会員さんから届いた。
さらに、皆、出勤した後の、誰もいないダイニングリビングから、
いきなり「ハッピバースデー ツーユー」のメロディーが流れた。
パソコンから? 電話から?
どこだ、どこだ、と探していると、なんと、置き時計にセットしてあった。
いっこうに鳴り止まないので、自分で止めたが。
流れている間は、マリリン・モンローがケネディ大統領に向けて壇上で歌った、その曲と映像が、脳内で同時進行していた。
いやはや、楽しいサプライズであった。
・・・
一人住まい、独居老人になっても、趣味仲間や、遠くに住む子供夫婦から、
こんなふうにコンタクトをとってもらうと、意外に老後、さびしくないのかも知れない。
しかし、ある程度の頻度で、家族や仲間と、会ったり、会食したりする機会が必要かと思う。
趣味仲間とは、いつもいつも飲み食いを共にしなくても、趣味だけをいっしょに楽しむのでもいい。
ちょっと会話を交わす程度でもいいかも知れない。
公園や屋外、ロビーなどで、自販機で買ったお茶を飲みながら、ほんのちょっとした時間、会話するのもいい。
孫の保育所に向う途中、大きな団地があり、真ん中に遊び場がある。
小学生たちが、遊具を使ったり、グランドを元気いっぱい駆け巡って遊んだり、
中高生が、まわりでたむろして話したり、ふざけたり、
年配の女性たちや、男性たちが、おしゃべりしていたりする。
その公園の手前のお店では、お店は閉まっているのだが(たぶん、廃業?)、
その店舗前のテラスに置かれたイスとテーブルで、自前で持ち寄ったドリンク片手に、
年配の男性たちが夕涼みがてら、談笑している。
夕方の、ほっとするひとときである。
多額のお金は要らない。
ほんのちょっとしたお茶や缶ビールで、近所の気の会う人と、おしゃべり。
老若男女が団地公園に集う。
ただ、住まいのすぐそば、近隣で便利ではあるが、
仮になにかトラブルがあった場合、生活も人間関係も、すべて同じなので、けっこうたいへんだろう。
保育所から小学校と、同級生は同じメンバーなので、人間関係がこじれたら、抜け出る空気穴がない。
悲劇が起こる種も潜んでいる。
自力で、ほどよい距離のところまで、抜け出ていく力、気力があるのが、わたしの理想とするところだ。
うんと年をとって、出て行く元気など毛頭ない場合は、おそらく体もかなり弱っていることだろうから、
気力も萎え、それどころではないことだろう。
元気なうちに、仲間を作っておくのは、とてもいい。
だが、仲間が、病気や家庭の事情で、一人脱落し、二人脱落し、どんどん年とともに減っていくことだろう。
遠方まで出かけていたものが、どんどん近くに距離が短縮されるだろう。
最後は、自分の家の中だけでいい。
それでいいと思っている。
出かけられる間に出かけ、仲間とコミュニケーションできる間に、お付き合いをし、
家族へは、手助けできる間に手助けし、
自分も順調に年を重ね、やがて、静かになることだろう。
・・・
いろんな方面、いろんな分野、いろんな面で、嫌なことも・・・気に入らないことも、あるが、
自分は自分の道を歩けばよいのかと思う。
素晴らしい人もいるし、
中には、ズルイ狡猾な人もいるが、そうしなければやっていけない人は、
その人の能力を存分に発揮して、そうしているのだから、それで幸せなことである。
他人になんと思われようが、その人の人生だ。
どんな評価であっても、評価ごと、その人のものだ。
ただし、他人であっても、利害関係が絡む場合は、関係がこじれ、解決するにも根が深くなる可能性がある。
晴れない怨みは、根深く地下に潜み、一見沈静したように見えても、絶えることはない。
これとは逆に、感謝の念を抱くと、それもまた伝えられていく。
自分の世代を超え、次の代にその思いは踏襲され、こころが代々受け継がれていく。
感謝や喜びなど・・・善、プラスのこころも、非難や怨恨など・・・悪、マイナスのこころも。
自分の軸をはっきり持ち、ぶれることなく自分道のを歩きたい。