蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

ニーチェと、お友だちになった

2016-03-03 | 人生

読書をしない、わたし。が、立ち読みは、毎週。

そんなわたしが、本を買った。
まあ、なんと、ニーチェ。

そもそも、なにもすることがない母のために、退屈しのぎに本を買ってあげようと思って書店に立ち寄った。
もともと本など読まない母だが、時間が腐るほど、文字通り、死ぬまで持ち時間があるので、
なにか母に適した本はないかと物色していた。

すでに、もう1冊はプレゼント済み。
英国人ベニシアさんの京都、大原での生活を中心に、写真を主体にした四季折々の自然を写した本。
けっこう、母は喜んでくれていた。

その次の週も本を探した。
ブッダの言葉集が目に留まった。
これもいいかも。
でも、とりあえず、1週間考えよう。
母にどんな本がいいか、聞いてみたところ、新品でなくても、わたしが読んだあとの本でいいと言う。
なら、母向きではなく、自分が読みたい本にしようと、選択基準を切り替えた。

そう思ってブッダの本コーナーに行くと、隣に、ニーチェがあった。

という長い長い、前置き。


現代風に、超意訳されていて、活字嫌いのわたしにも、すんなり読める。
最初に、ぱらぱらと読んだ時に、あれ?と思った。
なぜなら、いつもわたしが日頃、思っていることと同じだからだ。
こんな内容なら、わたしのブログは、ニーチェのパクリだと思われそうだ。
あるいは、自分の考えなのか、ニーチェの考えなのか、ボーダレスになって自分でも混乱しかねない。

太宰治の「人間失格」を初めて読んだとき、「あ、これは、どんぴしゃり、わたしのことだ」と思った。
それと同じ感覚か。(これって、「共感」っていうみたいです)
共通するものを感じるということ、それは人間の本質を突いているのだろう。
うやむやな、よくわからない感覚、考え、思いを、どう整理し、表現するか。
心理学とも共通するものがある。


わたしは、学校で心理学を学んだ時は退屈していた。
成績も最低。
社会学を学んだ時は、付いていけずに脱落した。
ちんぷんかんぷん、まるで漢文を読んでいるかの如く。
フランス語も、そう。
アタマが勉強向きではないようだ。(かといって、スポーツ向きでもない)
作業向きでないし、労働向きでもないし、何向きだ?
緻密でもない、ダイナミックでもない。

つまり、何にも向いていないということだ。
神様が製造した中にも時折混じっている、欠陥品。
醜いアヒルの子ではなく、醜い白鳥の子。
アヒルの中に混じっている白鳥ではなく、白鳥の中に混じっているアヒル。
なので、周りと同じように理想を求めても、高度なことは無理なのである。

ある、研究熱心な研究者が、わたしのことをこう言った。
「あなたは、でんでん太鼓ですね。
紐でつながれたバチが、太鼓の表面に触れそうで触れなくて、でも触れる時は、ちょっとだけ触れて、
ぶるんぶるん回しているだけですね」

研究者のわりに、うまいこと言うやん、この人!と思い、思わず、座布団10枚あげそうになった。
わたしは、深く考えるとアタマが痛くなるので、はい、次!とすぐに逃げる。
学者や研究者にはなれないのは、この、忍耐力と耐久性の無さらしい。(それ以前の問題か)

そこで思いついたのが、バランス学。
サボりを肯定するための、屁理屈を体系化したものだ。
一生懸命やってもデキない自分を慰める、いや、肯定するための、一種の自己暗示、思い込みのためのツールである。

デキないことは、代わりの代理品であったり、代理人であったりに、代わりに動いてもらう。
各分野、専門家にやってもらい、弱いスキルを補強する。
生活分野でフツーに言えば、「メガネ」だったり「杖」だったり「グーグル」だったり・・・。

よくよく考えてみると、お年寄り向けのグッズは、みなそんなかんじだ。
そうか、わたしは、お年寄りなのだ。ちょっと早いけれど。
お年寄りを先取りしているのか。

しかし、20歳の頃からすでに、わたしはお年寄りだったのか。
これって、小学生の息子が「はやく、おじいさんになりたい」と発言するのと似ている?
さすが親子・・・と感心している場合ではない。

わたしは能力に均整、均衡が取れていない。ばらつき、ムラがある。
なので、バランス力が発達したのだろう。
それを後になってニーチェさんが、整理してまとめて、セオリーみたいに力強く言ってくれるので、
肯定の背中を押されるかんじ。
「あら、これでいいのね、わたしのこのやり方で」、なんてへんに自信を持ってしまう。
(ニーチェは、なんでも否定らしいけれど。自分の都合の良いように自己流解釈)

大の苦手の心理学や社会学、哲学が、今、こんな年齢になって、とても興味があるなんて、
皮肉なものだ。
だが、学問は学ぶだけでは退屈そのものであり、実生活に役立たなければ、何の意味もない。


人間は完璧な人なんていないので、どんなに賢い立派な人だって、
ごくかんたんな家事ができない、身の回りのことができない、そんな人もいるんだし。
秀でることは素晴らしいが、すべての分野に秀でるのは不可能である。
各人の持ち場で、持ち味を発揮できたら、それが一番いい。

いくら優秀でアタマでっかちだったとしても、いずれ、今までできていたことが、できなくなるんだから。
優秀な人ほど、デキない自分は受け入れがたいと思われるが、
受け入れてみると、楽ちんである。
(「あほなお前といっしょに、するな」と言われそうだが)

ただし、ある程度の努力は必要。できるところまで、やってみる。
なにもしないで、楽を取るのは、けしからん。
高い険しい山を登るのか、低い山を登るのか、各人の志向に合わせて、能力と相談しながらどうぞ。
少しずつハードルをあげてみるのもよし、維持するのもよし、下山するのもよし。

決定するのは自分。
いろいろ調べて、人にも聞いて、自分と相談するのがいいと思う。

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