蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

ボランティア活動の資格なし

2025-01-16 | わたし
いよいよ何もすることがなくなってきた。
あまりにも時間と体力を持て余し、ボランティア活動をしてみようかと、ネットで調べる。
しかし、高齢者向けのボランティアは、施す側なのか、受ける側なのか、、、境界がわからなくなっている。
すでに高齢者である、わたし。

病院の付き添いや家事代行などは、やって欲しい側。
有償で経済的に利用出来ない人向けの無償ボランティアだろうけれど、、、
行政の不足している財源、人員を、税金を払っている側が補うのか、、、と思うと、、、
幸い、自分はまだ介護保険のお世話にはなっていないものの、介護保険料をたっぷり差し引かれている身としては、複雑な心境。
そして、老人施設に慰労で訪れるのは、身内(母)を見舞ってからの話。明日にでも。
更に、人の家のお世話をする前に、自分の家をどうにかするのが先。
ボランティア応援をして欲しいぐらいだ。
などと、軽口を叩くのは、被災された方々のことを思えが、はばかられる。
軽薄な自分の口を慎む。

あれはダメ、これはダメ、候補リストから一つ一つ潰していくと、、、
最後に行き着く先は、しかたないから、タスク、自分が課せられた義務を遂行するしか選択肢がなくなった。
先ずは、出来ていないことを先にせよ!である。
あれ? それもしていないのに、暇だって?
どの口が言う?!
足元も固めていないくせに、他にふらふら行けない。

それに、いくらボランティアだからと、あまり軽々、無責任に引き受けられない。
甘い自分を露呈して、周りを混乱させるだけなら、自宅の掃除でもしなさい、ということ。

そう思うと、やるべきことなのに放置してサボっている事柄が山のようにある。
やりたいことリストより、やるべきリストのほうが、ずっと多い。しかも、多岐に渡る。
やりたくないから、現実逃避しているだけだ。
それで、暇だ暇だとボヤくのは、本末転倒もいいところ。
自分を限りなく野放図に放置して、甘やかしている。
自分放任主義。囲いがない放牧牛。
誰も文句を言う人がいないから、お目付け役不在だから、と、好き放題していてはいけない。
と、もう1人のわたしが、そっと言う。

身近に迫る遊行期をいずれ迎えるのであれば、わーい!解き放たれた住林期だ!と浮かれてばかりいないで、やるべきことに注視して、「立つ鳥跡を濁さず」に着手すべき。

ゲームオーバー。
パーティは終了。
祭りは終わった。

ぼちぼち、そろそろ、、、遊びには一区切りつけて、遊びを縮小し、真面目にタスクに取り掛からなければ、、、。
と、とりあえずは、思う。
だが、そう強く誓っているわけではない。
逃げ場を残して、いつでも決心を覆してもいいよう、囲いのゲートは鍵を掛けず、退路は断たずオープンにして、、、

しかしなが、自分の本質は「遊び」ではないのかも知れない、、、なんて思ったりする。
自身の、意外な真面目な一面に触れたような気がした。
のではあるが、「遊び」の定義にもよる。
なんて言い始めると、またまた文頭から文末まで全文スクロール、オススメになる。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。