蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

お花畑で遊ぶ哲学者

2018-05-16 | 老い
私は自己チューなので、サービス精神がない。
自分が楽しくなければ、期待されたりしても、しない。
例えば、ブログ。
自分が面白がらなければ、書かない。
これは面白いネタだから、ぜひ書いてみよう、と思っても、絶対ウケるはず、とウケを狙って書くことは卒業した。

かつての記事を読むと、ウケ狙いが臭って、クサイ。
目下、他者は存在せず、自分だけを考えることにした。
と言いつつ、閲覧数は非常に気になる。
矛盾しているが、まあ、よい。
矛盾は、わたしの大親友。常時、ぴったり張り付いている。

と、この長い前置きは、いつもの悪い癖。
エンジンが温まるのに時間がかかる、スロースターターである。
じつに燃費が悪い。

ウケ狙いの「運動する、付けまつ毛」編は、後日、いつになるのかわからないが、まあ、きょうはパス。

さて、本題。
わたしの尊敬する、ある知人、年相応の老化が見られる。
この現象は、わたしの知っている、一定以上の年齢、全ての人に共通するのだが、同じ話をする。
わたしも代表選手の一人。

同じ話をされた場合、どう対応するか。
わたしは、気が弱く、お人好しで温厚な、あかんたれのため、今まで聞かなかったことにして、にこやかに、相槌を打つ。
わたしの受け入れ体勢が整っていない時は、3回目ぐらいには「前にも聞きました」と、とりあえず、伝える。
機嫌が悪い時は「何回目?」と攻撃。
ただし、これは、ごくごく近い身内にしかしない。
娘には、よく「その話、好きよね」と、優しくイヤミを言われるので、最近、わたしは、いささか無口になったかも。(自分比)

まあ、それはそれとして。
頭脳明晰、博学、研究熱心な、わたしの持っていない長所をお持ちの方が、同じ話をする。
1回ならず、2回ならず、3回ならず、4回ならず、、、。

好きな話だと、子供が繰り返し同じ本を読んでもらうのが好きなように、お気に入りの落語や講談のように、何度聞いても楽しい。
あるいは、聞く側(わたし)の記憶力、理解力が悪い場合、何度も話してもらううちに、だんだん飲み込めてくる。

が、そうでもない、日常の、いたってカンタンな話の場合は?
本人に言うべきか?
例えば、昔の手柄話だとか、輝かしい経験、おぞましい体験などは、何度も話すことで、本人のストレス発散になる。
こちらは、うん、うん、そうなんですかー、と、合間、合間に相槌を打つだけ。
だが、知り合いの誰それが、ああした、こうした、という話、何回も何回も聞くと、この人、大丈夫なんだろうか?と思ってしまう。
こんな、賢い、頭脳が売りの人なのに、頭脳が心配。
本人は気づいていないところに、老化の現実味、重さを感じる。

わたしのように、もともと、若い時から天然の場合は、ぼけても、毎日接する、ごくごく近い家族でも、発見しにくいだろう。
しかし、本人もアタマの良さを自負している、神経のとんがった人は、ちょっとでもヘンなことを言うと目立つ。
しかも、プライドが高いため、自分の自然なボケ老化は、絶対に認めない。
結構、厄介である。

この人、他の言っていることも、大丈夫?と、心配が広範囲に広がったりする。
わたしなんぞ、ちょっとマトモなことを言うと「誰からの受け売り?」と言われ、真逆のキャラ。
いつもお花畑、気楽で良いが。

と、、、、そういう、何度も何度も同じ話を賢い人から聞き、時を止めることは誰にも出来ないのだと感じた。
天然お花畑の、自己肯定付き哲学者になっている自分に、感慨深いわたしである。