蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

午後のひととき、嵐の後と、嵐の前

2018-09-06 | 日々のこと
私の父は22年前に他界した。
男性の平均寿命あたりで、この世を去ったので、年齢としては、まあまあ早くも遅くもない。
バブルがはじける前に亡くなったため、その後の世の中を知らない。
ある意味、幸せだったと思う。

父が生まれて育って、青年期も中年期も壮年期も晩年も過ごした故郷にある、地元の墓に眠っている。
戦争で遠く東南アジアに駆り出され、無事、生還した。
生死を分けるギリギリ際のところにいても、幸運にも命がつながった。
あんなに、あちこち行って、あんなにいろんなことがあっても、生まれた場所に見事にピンポイントで帰ってきて、父の両親や夭折した子供たち(わたしの兄たち)と静かに眠っている。
不思議なものだと、つくづく思う。
人の一生、、、。


不動産は土地の価値を地価や需要で決められる。
田舎で需要のない土地は、値がつけられないほど安い。
タダでも要らないと言われるだろう。
地方の空き家は廃屋になり、朽ち果てていく。
頑なに守り通し維持する後継者の有無、また、維持費の捻出に腐心した結果、先祖代々の土地を手放すことになる。
手放すなら、まだシロクロはっきりするが、手放す勇気も決断力もなく、事実上、放置。
そんな土地・家屋が全国にはいっぱい散らばっていることだろう。

かたや、過酷な自然状況に見舞われず、何をするにも便利な都会周辺に人々は集まり暮らす。
買い物、医療、介護、日常のサービスが行き届いている地域に移る。
それは自然な流れであって、止めようがない。

都心に近い高級住宅地の大邸宅ですら、住み手がいない。
税金が高く維持費もかかり、家の手入れも高齢化した人々の手に負えなくなり、高齢者住宅に入る。

高い相続税がかかる高級住宅地の大邸宅は、個人から会社の所有となったり、売却後、マンションに建て替わったりして、個人の手を離れる。
住居に莫大な資産を注ぎ込んだ、往年の大金持ちは、次代にバトンタッチされるのが苦しくなり、今や存続できない。

タダみたいな田舎も、廃屋になり、高級住宅地は所有者が変わりマンションになり、個人の顔が消えていく。
これは時代の流れなのか。
日本に、明治、大正、昭和初期にかけて見られる、富の象徴のような大邸宅は、(ほんの一部を除いて)消滅していく方向にあるようだ。
(先日の建物探訪ツアーで、残存する大邸宅、御殿をマジマジと見てきたが)
古き良き時代は、過ぎ去る。

その代わりに、枯れた古い大木から新芽が出るように、新しいものが誕生する。
古き過去のように凝ったお金のかかったものではなく、シンプルでランニングコストがミニマム、エネルギーを無駄に消費しない、守りの住宅であり、ライフスタイルであろう。
何もないのが、贅沢。
「何もないのが、貧乏」と思われた、モノの無かった時代の真逆。
大量のモノに埋もれて暮らすことに、反旗をひるがえす。
モノに固執する、モノを捨てられない世代は、少しずつ、この世から姿を消して、残るのはシンプルに生き抜く次世代。

親の時代は終わった、と実質的に感じられるが、我々の時代もほぼ同時に終わりつつある。
いつまでも引退しないお年寄りが、やっと引退しても、我々のすぐ後にはもう次の世代が押し寄せる。
我々世代は、じつに短い天下である。
しかし、天下なんか要らない。というか、取れない。
リタイアした瞬間に、力ははく奪されている。
それでもいいけど、いや、よくないような。
・・・
なんだか、またまた、眠くなってきた。


娘から、今日、わたしが孫たちを保育所から引き取ったあと、引き続き、今晩泊まらせて預かって〜とライン。
うわぁ。台風が過ぎたばかりなのに、また、、、

鬼の居ぬ間に洗濯。
今のうちに、うとうと昼寝しよう。

午後の至福の居眠りタイムに移行します。
と思ったらまた目が冴えてきた。
どうしよう、、、