蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

友達がいない

2018-09-12 | 無題
今夜、Eテレ、NHKのハートネットTVを見た。
高校時代、友達がいなくて、一人で過ごした教室。
固定された仲間同志の付き合いをスクールカーストと呼ぶらしい。
番組ディレクターが高校時代から20年を経て、こころの空洞を埋めていく。
とても興味深かった。

友達がいないことに対して、自分がどう思うかではなく、友達がいないことを周りにどう思われるか、に囚われていたとディレクターは言う。

これ、姑が、夫を亡くした時によく言っていた。
未亡人という目で見られるのが辛い、と。
わたしは、まったく理解できなかった。
配偶者は平均寿命で亡くなった。つまり生命体としては旬。
姑自身も、高齢者であるので(独居老人への心配はあっても)、未亡人だからどうこう、という目など、全くないとわたしは思った。
しかも、長い介護生活からの解放。
戦争で若い身で夫を亡くしたならともかく、いたって順調な人生の送り方。
未亡人になりたくなければ、夫より先にあの世に行くことだ。
別にわたしは姑を嫌っているわけでもなんでもなく、むしろ好意を感じ感謝している。
でも、考え方や感じ方は、違う。理解できない。
個人は別個のもので個々に違うから、そんなものだろう。

話を元に戻す。
ディレクターは、友達がいない自分を人にどう思われるかを気にして悩んでいた。
自分がどう思うかではない。
わたしは、友達はべつにいなくてもいいと思う。いても、いいけれど。
自分がどうしても友達が欲しいなら努力すればいい。
努力も面倒、友達を持つことをさほど欲していない。

友達に何を求めるか、だ。
助け、助けられ、助け合い、相互、互助。
自分がピンチの時に助けてもらえるよう、保険をかけるかのよう。
見返りを求めず、やったことが感謝され、リターンがあるかも知れない。
リターンは、目的にはしていない。
たまたまの副産物だ。

災害などで地域で互助、助け合いはある。
これは、友達なのか?
日頃、お付き合いがなければ、助け合いから外されるのか?
濃い情報などは、友達から得ることもあるだろう。
友達のいない人は孤立し、情報も得られないのだろうか。
情報を得るために友達になるのか。

わたしは、学生生活を終えてから、あまり友達づきあいをしていない。
友達がいないことに何も感じないのは、おかしいのだろうか。

今、わたしが一方的に友達だと思っている人はいるが、ちゃんと定期的にコンタクトを取っていない。
友達じゃなくなっているのかも知れない。
一方的に思っている、わたしは、変なのだろうか。
友達関係を確認できる行動に表さなければいけないのだろうか。

友達って、なんだろう?
行動するのに便利だから付き合うのは、深い意味では友達とは言えないと思う。
友達100人いる人、一人一人とちゃんと向き合っているのだろうか。
友達3〜5人ぐらいが 負担がない人数?

よくわかりません。

ひとつには、自分と同じ環境にいる人が少ないので、分かり合えないだろうと、こころのシャッターを下ろしてしまう。
わたしは、あまり自己開示したり、悩みを打ち明けたり、相談したりしないから、人の意見は必要ないタイプ。
いかにも友達がいない典型的キャラである。

それを苦にしていない、問題だと思っていないところが、良くないのかも知れない。
「友達はいるほうがいい」という一般的定義に外れているから、努力したほうがいいのだろうか?
(あまり努力しそうもないが)
堂々巡りである。