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どうも今日の記事は全くの駄作。
(いつもと同じ。どこが違うの?と声なき声あり?)
時間を割いて読んでいただくには、こころ苦しすぎるため、、、冒頭から最後まで、全スクロールをお願いします。
・・・・・
新しい写真がないなら、ストック写真、使いましょう。
旅行が駆け足で、使う余裕はなかった。
というか、その旅行前日に、タイトなスケジュールを組んでいた。
もう、あんなスケジュールは2度と組まない、、、と、コリゴリの経験。
それはそれで、結構、意味があった。
話せば長いので、、、話さない、書かない。
いずれ、書きたい時が来たら書く?
そんな時は来ないだろう。
認知機能低下と、諸々、低下によって。
今が一番幸せだと思う。
人生の中で。
これでいい。
確か、21〜22歳の頃もそう思った。
40歳代の時も。
でも、やはり今が一番なのではないかと。
なぜか?
考え方が変わった。
1日1日は完結するが、それでおしまい。
次を期待しない。
毎日毎日が、最高。
明日のために少し取っておいても、取っておかなくても、どっちでもいい。
引きこもりの毎日でも?
そう。
引きこもりでも、今日が楽しいと感じるのなら、よい。
毎日は完結するが、ストーリーは続く。
ドラマや映画でいうと、「ある1日」の描写。
どこかに続く途中の、ある1日。
1日は終わるが、話が終わってしまうのではない。通過点。
布で言うと、フェルト生地のような、切りっぱなし。
未知の未来に続く、とりあえず今日が終わる。
どういう風に続くかはわからないが、続くことは確か。
確実で決定された、ハッキリした未来より、ぼんやり、ほんわり柔らかい明るさがあればよい。
曖昧さが残る、余白。
写真やツールで仕上げたものより、手描きフリーハンドの図面のほうが味がある。
変化、更新を含む、固定されてない動きや、まだまだ広がる可能性を感じられる楽しみが残されている。
しかし、、、
意外なことを発見した。
この引きこもり9日間、振り返ってみると、何をしていたかほとんど覚えていない。
ウィキペディア検索ぐらいか。
空白時間は、脳の空洞。
ぼーーっとしていた時間は、無かったのと同じだった。
これは、時間がもったいないのか、はたまた幸せなのか、はたまた「無」なのか。
自分の捉えようによって、これからの時間の使い方に影響を与える。
どう感じるか?
自分は、どうしたいか?
全く何もしない引きこもり体験は、それなりの意味があった。
ちなみに。
話は変わるが。
3年前に知り合った人。顔を知ったのは4年前。
この人は、同じ話ばかりする。
別に認知症ではないのだが、認知症にありがちな性質をお持ちだ。
老化による認知機能の低下なのか、元々の性質なのか、両方が混ざりドッキングしているのか、定かではないが、、、。
この人の若い頃を知らないので、過去との推移を比較出来ない。
で、わたしが自分事として捉えることは、、、
家族であろうが、親友であろうが、同じ話は何度も何度もしないようにしよう、、、と肝に銘じている。
が、そのかわりといってはナンだが、自分のブログには同じ話を延々と繰り返し書いている。
幾つものバリエーションがある人生を送っているわけではないので、同じ出来事がベース。
捏造や創作はしないため、ひたすら、書いた時に感じたままを書いている。
ただ、勘違いや思い間違いはある。
自分で時を経てから読むと面白かったりする。
蝶ブログは、自分自身、わたしが最大の読者である。
まさに自分のために書いているのだと、後になって変に腑に落ちる。
と、それはまあいいとして。
視点を変えると、、、
同じことを手を変え品を変え、何度も何度も言うことは、ある意味、効果がある。
聞かされる側は、脳に染み込む。刻まれる。
良くないのは、一度聞いたらもう十分で、興味が尽きる内容、説明もワンパターンで、わたしのリアクションを全く見ないし聞いていなくて、自分だけが楽しかったシーンを思い浮かべて話している場合。
「はいはい、良かったですね、また同じようにやればいいんじゃないですか」
と紋切り型コメントをわたしはしているが、いつも全く聞いていない。
わたしは、なんのために、この人の話を遮りもせず聞いているのだろう、と自問する。
恩があるわけでも、親しみを感じているわけでも、今後、共に歩むわけでも、同志でもない。
たんなる傾聴ボランティア。
運動の後、一人で喉の渇きを潤し、休息するよりはまあいいか、と、二人で帰りに立ち寄るお店。
わたしも、ペラペラ好きなことを延々と話しているので、お互い、相手は人間の形さえしていれば良いのかも。
カカシ相手でもいい。人間型AIロボットでもいい。
お互いのニーズが一致して、時を共にしていると言える、、、が、どうも虚しい。
とは言え、人生の自分の持ち時間、満ち足りることばかりではない。
電車移動するにも待ち時間が必要なように、コアな時間だけを使えるわけではない。
ご飯を炊くのにも炊飯器がやってくれて手間はかからないが、ある程度、炊けるまで時間はかかる。
洗濯も洗濯機がやってくれるが、干さなければならない。
目的だけを満たすのは難しい。
(コインランドリーなら干さなくてもいいが、わたしは天然日照力で乾かしたい派なので、乾燥機は使いたくない)
何かをしたければ、それに付随する何かをしたり待ったりしなければならない。
それがしたくなければ、好きなことを想像だけして過ごせばよい。
実際に行う時間はほんの少しで、前後に準備したり片付けたり、人に手助けしてもらったり、の手間暇、労力、時間がある。
20分間だけの欲求や用事のために、1ヶ月を費やすこともある。
ほんの短時間のために、一生を費やすことも、、、。
細く長く絶やさず続けるパターンもある。
一生の中には、色んなパターンが組み合わされている。
脳内と実際、実践、リアルの対比。
一瞬の出来事でも、一生、忘れないこともある。
同じ事も続けると、意図しない展開がある。
ある時、一瞬でガラガラ崩れ落ちることもあるし、逆もある。
長々長々相変わらずの長文。
延々と、着地できない。
※写真は、昨日に引き続き、旧山形師範学校本館。