やっとブログタイム。
といっても、今、近隣大型商業施設で末孫をベビーカーに乗せて子守中。
ちょっとかわいそうなおばあさん?
明らかに孫の守り。
老年ベビーシッター。
長女がインナーマッスルトレーニングと整体施術中、外で子守。
私もインナーマッスルトレーニングをしているのだが、(元気もりもりで)整体施術は必要ないため、後半時間を子守に当てている。
といっても、末孫は今、ベビーカーの中で寝ているだけなので、ソーシャルディスタンス仕様のベンチに座ってブログ書き。
気楽なおばあさんである。
と、前書き。
昨日は晴天に恵まれ、午前中に七五三とお宮詣り。
その後、昼食はうちでして、午後は写真スタジオで写真撮影。
写真は、末孫のお宮詣り、二番め三番め孫の七五三。
今回は、七五三も卒業した長男は、写真にはきょうだい枠でオマケ参加ということになった。
ジジババさんは、娘サイドのみの参加。
娘婿側のおじいちゃんおばあちゃんは、写真での閲覧参加。
集合写真には、最初の孫にはあちらのおじいちゃんおばあちゃんも写っていたが、孫が増える度に参加は見送りとなった。
わたしは、いつも同じような服装。
誕生した孫順に写真を並べてみると服装の手抜きぶりがよくわかる。
写真スタジオ、今回で5回め?だったか?
どれも可愛い写真である。
着物は、わたしの子供たちが生まれた時にその都度、実家が作ってくれたもの。
男の子と女の子用。
もう一枚、姑が作ってくれた、女児用晴れ着があるのだが、夫の実家を探したものの、見当たらなかった。
数代前の姑の和ダンスの中にある、見当をつけていた着物のたとう紙を開けると、なんとわたしの振袖だった。
では、いったい少し大きめの女児用の着物はどこに行ったのだろう。
草履とバッグもちびっこ長女と次女が二人とも着物と共に同時に身に付けて写真に写っているのに、見当たらない。
今回の七五三のスタジオ写真では、三番め孫(三歳女児)は、四番め孫(三ヶ月女児)が着用したお宮参り用の着物を順番に着た。
だが、神社では三番め孫と四番め孫は、同時に着物を着れなかった。
次の七五三の時までに見つかればいいが、ほぼ諦めている。
(読む人にはどうでもいい事情を延々と書いている、、、)
娘の子供だから、わたしの親が作ってくれた、自分が着た晴れ着でも問題ないが、これが、息子の子供だったらそうもいかないだろう。
いわゆる息子の嫁が、「こんなお古の着物を着せられた」と、パワハラ被害者意識、不快感を示すかも知れない。
息子には嫁はいないので、というか、もう諦めているので、嫁姑の心配事はない。
ある意味、よかった、、、。
たぶん、違うんだろうけれど、みんな、幸せ。
ちなみに、、、
結婚もしたくない、異性とも付き合いたくない50歳以下の男性女性は多いらしい。
結婚は、経済的、時間的、身体的自由を奪われ、お付き合いするにはお金が十分ではないとか。
勢いや、ホレタハレタで結婚しても、その後の生活が大変。
昔ほど情熱的ではなく、現実に直面する理性が勝つのだろうか。
ひと昔前の、時代的に終わっているわたしが何を言おうが、何の説得力もない。
老人は引っ込んでおこう。
(実際のところは自分では違うと思い込んでいたとしても)
子育てには強力なエネルギーが必要である。
気力、労力、知力、体力、経済力、人間力、ネットワーク、、、その他、いっぱい。
わたしにはとても出来そうもない。
若い頃は何も知らないから勢いでやってきた。
それが若さというものだろう。
今という時は、二度と無い。
今、この瞬間を大切にしようと強く思って、毎日、のほほんと暮らしている。
(て、ちょっと逆説的か)
いろんなタイプがある。
先週観た映画「おらおらでひとりいぐも」のように、べつに寂しさを紛らわせるために、何人もの自分を登場させる必要は全くない。
人それぞれの人生だなあと感じる。
好きな人と暮らすことを自分を解放することだと思っていた主人公だが、好きな人が亡くなった後は寂しさから逃れられない。
だけど、他人に影響を受ける自分(他人軸)から解放されたと感じる主人公。
これからは自分軸で生きる。
わたしにも言えるが、いまに始まったことではない、何を今更感がある。
他人軸を卒業してから、かれこれ20〜30年になる。