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やたら長い、本日の記事、全スクロール、オススメ度は100%です。
どうも、時間があると、よろしくありません。
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負け犬の遠吠え。
負け惜しみ。
これ、大好きだ。
自分は気に入っていても、周りから見ると、イタイ!と感じられることもある。
というか、ほとんどが、そう。
周りにいる人のタイプ、人柄、属性にもよるだろうけれど。
例えば、とあるSNS会員同士のやりとり。
経済的には普通の男性会員A氏は、話術や行動力で女性にモテるようだが、謙遜して、「俺は黒歴史があって女性を泣かせたけど、モテる雰囲気ではない」と書くと、
「女性は、やっぱりカネなんじゃない?」と、野次馬男性B氏の野次コメントが付く。
このB氏は、いつもA氏にネガティブなことを言って、足を引っ張ってくる。
そこで、「俺はカネに、なびくようなオンナには興味がない」と、ピシャリ、カッコよくA氏は突き放す。
確かにその通りで、信念には筋が通っている。異論はない。
カネの部分を「ルックス」だったり「学歴」だったり、ハイスペック要素に置き換えることも、出来そう。
ある程度の基準があり、客観的に、わかりやすい。
「俺は◯◯になびくようなオンナには興味がない」
と言い切るだろう。
貫一お宮、、、古すぎて誰もわからない、知らないだろうけれど、、、ダイヤモンドに目が眩んだ恋人、お宮がすがりつくのを学生姿の貫一が蹴っ飛ばす(ギャグ?)シーンを子供の頃、何度もメディアか何かで見た。
名セリフもしっかり脳に残る。
(しょうもないことばかり覚えている、幼い頃の、わたし)
ちなみに、尾崎紅葉の小説「金色夜叉」中のこのセリフは有名で、明治期の小説の中で、最も広く読まれたものの一つらしい。
背景は日清戦争後の社会を背景に、金銭と恋愛を描いたもの、、、。
昭和高度成長期に生まれ育ったわたしが、なんで、そんなに脳裏に焼きついているのかは、不明。
おそらく、戦後、豊かになった社会の中で、余裕を表すシニカルギャグとして、よく使われていたのではないかと推測する。
サブカル評論家なら、もっと高度な考察を述べるだろうけれど、サブカルじゃないし。文学だし。
サブカルが格が下で、文学が高尚だとは、言い切れないが。大衆の力。
文芸評論家より、サブカル評論家のほうが、グイグイ来るものがある、、、と、わたしの個人的感想。
ではあるものの、文学もサブカルも、さっぱりわからない、わたし。
まあそれは、社会が激変する明治期の象徴的シーンだったのかも知れないが、令和だからといって、あり得ないわけでもない。
とは言え、社会は大きく変貌していることも確か。
と、話はいつものごとく逸れている。
前述のA氏。
わたしは意地悪なのか、ひね曲がっているのか、性格が悪いようで、どうも違和感がある。
カネ目当てのオンナには興味はない、と声高らかに言い切るには、ある程度のオカネがないと、どうも説得力がない。
婚活パーティーで、高齢男性が年金手帳を参加女性に見せて、「私は、お金には心配ありません」と力説しておられる場面をTVの取材ニュースで見たことがある。
スポーツが上手くない、苦手な人が、「私は、スポーツが得意な人には全然興味も関心もありません」と言っているようなかんじか。
とても、わかるのだが。
一緒に行動すると体力差で、ついていけないことがある。
高圧的、体育会系、熱血系、押しつけ系の人は苦手かも知れないが、そうでない、淡々とスポーツ好きな人もいる。
しかも、努力家だったり、継続力、忍耐力があったり、尊敬すべき美点をお持ちのこともある。
それを、こっちから願い下げだ、というスタンス。
畏れ多くて辞退するならいざ知らず。
負ける前に、相手を否定する。
(それ以前に、野次馬、、、周りから他人の弱点をワザと晒すようなことを言うのは、もっと、けしからん、姑息な小さな器だとは思うが)
イソップ物語の「酸っぱい葡萄」。
自分の劣勢を認める前に、自己の能力の低さを正当化したり擁護するため(自己肯定するため)対象を貶めたり価値の無いものだと否定するパターン。
いわゆる、負け惜しみは、理想的な「負けず嫌い」とは、少し違う。
しかしながら、負けを認め過ぎて、こころを病んではどうしようもないので、自分の尊厳、プライドを守るには良いだろうけれど。
負け惜しみと、負けず嫌いは、リンクしている。
対象を否定する気持ちはわかるが、外から見て負け惜しみが透けてわかりやすいと、微妙な心境になる。
本人は絶対に自覚はないし、自覚しろとは口が裂けても言えない。
コンプレックスの裏返しかも知れないナイーブな箇所に、土足で踏み込んで、人のことをとやかく言える何様でもない。
見て見ぬフリをするのは、容認の一種だろう。
お互いさま。人間だもの。
欠点や弱点は、必ずある。
人の弱点が見えたからといって、いちいち敏感にピリピリ感受性を発揮していたら、やってられないことも確かだ。
その面が、受け入れられるか、受け入れられないか。
積み重なるとどうなるか。
価値観の違いを受け入れられない場合は、受け流せるかどうか。
近寄り過ぎると、良くない。
遠いと気にならないだろう。
距離感は必要だ。