先ほどは、前書きだけで長文になってしまい、別記事にした。
この蝶ブログの気楽さ。
ひっそりした山の中、狸が話し相手では物足りなくなり、誰もいなくて寂しくなれば、ちょっとおめかしして、麓の街に降りていけばいい。
そこには、同じような暇を持て余した人々が、たむろしている。
いらっしゃい!と、暖房の効いた店内に案内してくれる。
そもそもわたしは、自分は嫌なヤツだということを他の誰よりも熟知している。
だから、自分のような嫌なものはシェアできない。
そんな嫌なヤツは、キライだから、友達にはなりたくない。
で、真逆の人と、接点だけで接する。
立体だったり、面や線、点だったりする。
あとの合わない部分は見ない。
見ると、拒絶反応を起こすぐらい、自分の嫌な面がむくむく出てくる。
その嫌な面は、自分でも嫌なのだが、自分の一部として実在しているので、切り離せない。
あえてわざわざカミングアウトする必要もないと思っている。
先にカミングアウトする人は、自分の嫌な面に耐えきれない、背負いきれない人だろう。
だから、吐き出して、身を少しでも軽くする。
カミングアウトという手段でなくても、高尚な手法もある。
昇華。芸術家なんかは、これか。
あるいは、スポーツや別のことに打ち込む。
はたまた、自分の他の秀でたものを見出し、それを磨く。
株の損益、プラマイ、トータル計算みたいな感じで損失を上回るよう努力する。
わたしが自分で嫌だと感じるのは、自分を基準にした物差し。
世の中には、いろんな人がいるのに、万人に応用できない、自分の尺度。
これが実にけしからん悪さをする。
失礼な感想、ジャッジを次々生み出す。
世の中の人、全てを受け入れようという度量の大きさは、皆無。
こころの豊かさを示すのは、モノではない。
仮に教養だとする。
このあたりで、またわたしの、けしからん悪さをするものが、顔を出す。
常識は、教養ともリンクしていると考える。
「なぜそんな風に思う?考える?知識はないのか?思考力はないのか?」と思ってしまう。
幼い子供だったら、かえって癒される。
「何も知らないからそう感じるのか」、などと、かえって新鮮な驚きとなり、プラスの影響を及ぼす。
これが大の大人なら、、、
世代ギャップによるものなら、まあ仕方ない。
「世代ギャップにより、理解できない」ということが、理解できる
同じような世代なら、困る。
しかし、基準はあくまでも自分なので、わたしより上は山ほどいて、わたしより下も多々いる。
わたしは、自分より下の人は受け入れにくい。
自分より上の場合は、まあ、まし。
何事も同じぐらいのレベルであることが望ましいが、カンに障るジャンルがある。
これは、ヒステリックになる。
何故だかわからないが。
で、人は人!人それぞれ!と、無理やり認めようと頑張り、噛まずに丸呑みし、喉や胃の中で異物が暴れる。
消化不良が起きる。
しかし、喉元すぎればなんとやら、で、違う事態に事が移れば、どうってことはない。
これが、いつまでも追求したり尾を引いたりすると、破裂、爆発、破綻を来たす。
どうしてもこだわるジャンルか否か。
生死にかかわることでもない。
数値が少し違って根幹産業の信用が脅やかされるような大事件でもない。
で、そのことよりも、掃除して清潔な環境で暮らしたり、食べ物を大事にしたり、仲良く穏やかに暮らしたり、基本的なことが出来るほうが良いと考える。
頭脳や知識より知恵を重んじたほうが、暮らしやすい。
で、アタマに来るほどの、常識の捉え方、感覚の違いがあっても、その場が過ぎればまあよいか、と自分をなだめる。
神様は、わざと耐え難いほどの難関を設け、試練の場を与え、逆風を吹かせるのか。
生きるには矛盾があることや、自分の考えや欲求が通らないことを教えようとしているのだろうか。
昇華でもなく、スポーツ発散でもなく、自分との、妥協、折り合い。
はっきり文字、文章で表し、悪態をつきたいところだが、わたしはあまり、そういうのは好きではないので、おとなしく、ひっそり、一人で完結している。
嫌いな自分も含めて、自分だ。
清濁合わせ持つのは、よくあることだ。
切り離せない。
この蝶ブログの気楽さ。
ひっそりした山の中、狸が話し相手では物足りなくなり、誰もいなくて寂しくなれば、ちょっとおめかしして、麓の街に降りていけばいい。
そこには、同じような暇を持て余した人々が、たむろしている。
いらっしゃい!と、暖房の効いた店内に案内してくれる。
そもそもわたしは、自分は嫌なヤツだということを他の誰よりも熟知している。
だから、自分のような嫌なものはシェアできない。
そんな嫌なヤツは、キライだから、友達にはなりたくない。
で、真逆の人と、接点だけで接する。
立体だったり、面や線、点だったりする。
あとの合わない部分は見ない。
見ると、拒絶反応を起こすぐらい、自分の嫌な面がむくむく出てくる。
その嫌な面は、自分でも嫌なのだが、自分の一部として実在しているので、切り離せない。
あえてわざわざカミングアウトする必要もないと思っている。
先にカミングアウトする人は、自分の嫌な面に耐えきれない、背負いきれない人だろう。
だから、吐き出して、身を少しでも軽くする。
カミングアウトという手段でなくても、高尚な手法もある。
昇華。芸術家なんかは、これか。
あるいは、スポーツや別のことに打ち込む。
はたまた、自分の他の秀でたものを見出し、それを磨く。
株の損益、プラマイ、トータル計算みたいな感じで損失を上回るよう努力する。
わたしが自分で嫌だと感じるのは、自分を基準にした物差し。
世の中には、いろんな人がいるのに、万人に応用できない、自分の尺度。
これが実にけしからん悪さをする。
失礼な感想、ジャッジを次々生み出す。
世の中の人、全てを受け入れようという度量の大きさは、皆無。
こころの豊かさを示すのは、モノではない。
仮に教養だとする。
このあたりで、またわたしの、けしからん悪さをするものが、顔を出す。
常識は、教養ともリンクしていると考える。
「なぜそんな風に思う?考える?知識はないのか?思考力はないのか?」と思ってしまう。
幼い子供だったら、かえって癒される。
「何も知らないからそう感じるのか」、などと、かえって新鮮な驚きとなり、プラスの影響を及ぼす。
これが大の大人なら、、、
世代ギャップによるものなら、まあ仕方ない。
「世代ギャップにより、理解できない」ということが、理解できる
同じような世代なら、困る。
しかし、基準はあくまでも自分なので、わたしより上は山ほどいて、わたしより下も多々いる。
わたしは、自分より下の人は受け入れにくい。
自分より上の場合は、まあ、まし。
何事も同じぐらいのレベルであることが望ましいが、カンに障るジャンルがある。
これは、ヒステリックになる。
何故だかわからないが。
で、人は人!人それぞれ!と、無理やり認めようと頑張り、噛まずに丸呑みし、喉や胃の中で異物が暴れる。
消化不良が起きる。
しかし、喉元すぎればなんとやら、で、違う事態に事が移れば、どうってことはない。
これが、いつまでも追求したり尾を引いたりすると、破裂、爆発、破綻を来たす。
どうしてもこだわるジャンルか否か。
生死にかかわることでもない。
数値が少し違って根幹産業の信用が脅やかされるような大事件でもない。
で、そのことよりも、掃除して清潔な環境で暮らしたり、食べ物を大事にしたり、仲良く穏やかに暮らしたり、基本的なことが出来るほうが良いと考える。
頭脳や知識より知恵を重んじたほうが、暮らしやすい。
で、アタマに来るほどの、常識の捉え方、感覚の違いがあっても、その場が過ぎればまあよいか、と自分をなだめる。
神様は、わざと耐え難いほどの難関を設け、試練の場を与え、逆風を吹かせるのか。
生きるには矛盾があることや、自分の考えや欲求が通らないことを教えようとしているのだろうか。
昇華でもなく、スポーツ発散でもなく、自分との、妥協、折り合い。
はっきり文字、文章で表し、悪態をつきたいところだが、わたしはあまり、そういうのは好きではないので、おとなしく、ひっそり、一人で完結している。
嫌いな自分も含めて、自分だ。
清濁合わせ持つのは、よくあることだ。
切り離せない。