蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

涙、涙、涙、、、52ヘルツのクジラたち

2024-03-14 | 映画
わたしは両極端、トップとボトムしかない。真ん中がない。
このせいで、今までの人生、結構苦しんできた。
上に合わせると、もたない。足りない。
下に合わせると、はみ出す。余る。
帯に短し襷(たすき)に長し。
昔の人は、まさに言い得て妙のことを言う。
古今東西、皆さん、そうなのだ。

ただ、その特徴が強いか、そうでもないか、ぐらいで、多かれ少なかれ、その経験、傾向はあるだろう。
修練を積んだり、努力して、ちょうど良いところに自分を持って行く。
自分で自分と折り合いをつける。

しかし、なかなかしっくり行かない。
真ん中の自分は、自分には馴染まない。
両極端の位置からのスゥイング、振り子エネルギーが動力源になっている。
(こんなことを書いても読む側には退屈なだけなのは、よくわかっている)

ところで。
映画「52ヘルツのクジラたち」を観た。
全編、涙涙涙、、、プラス鼻水で、分厚いタオルハンカチは、しっとり。
周りでもすすり泣く声が聞こえた。
皆さん、泣き虫。
魂の叫び。
制作費はさほどかかっていないと思われるが、原作が素晴らしい。
本屋大賞を受賞した小説らしい。
ストーリー、中身が卓越していると、感動を呼び起こす。

FMラジオのDJが、「原作も読み、映画も観て、映画では3ヶ所で大泣きしました」と言っているのを聴いて、観たくなった。
で、観て大正解だった。
寝る暇は到底なかった。
(わたしの映画評価基準は、眠いか否か。
いたってレベルが低い)

ただし、ワザとだとは思うが、とってつけたような作り込み箇所がいくつかあった。
(室内インテリアがまさに「映画」のようで、モデルルームのようにつるんとキレイで生活感がなさすぎる。
背景考証的に、どうしても疑問が残る点がある)
現実を知らない未成年が、インターネットや映画などから想像するようなステレオタイプ的なイメージが数ヶ所あり、ちょっとわたしにはマンガチックに映る。
幼い少女が夢みる童話の中の世界、登場人物に通じるものがある。
大人の描き方に欲求不満が残る。
わざと?デフォルメ、メリハリのため?
大の大人を通り過ぎ、現実人生の先輩としては、気になるものの、目を瞑る。
実写ドキュメンタリータッチ、リアリズム追求路線ではないのだろう。
まあ、「魂」優先だから、仕方ない。
あれもこれもは、望み過ぎか。
スポンサーでもないのだし。
(が、こころに傷を持つ繊細な人を思い遣らない無神経な発言は控えたい)

「いやあ〜映画っていいですね」と、水野晴郎氏や淀川長治氏の顔が浮かんだわたしは、かなりの年齢。
それにしても、最新作品もなかなか良いものだ。



寒く暗い雨の朝

2024-03-12 | わたし
ある人と話していた。
30年来の知り合い。
「今はもう別に何がしたいというものはない」と、わたしが言った。
すると、その人は言った。
「もう、やりたいことはやったからでしょう?」
なるほど。
その通り。
かと言って、今はやる気がなく生きた屍というわけではなく、十分満足しているのだ。
あとはそのまま、すーーっとニコニコして生きていけたらいい。
わたしはまだまだ平均寿命より20歳も若いのに、皆さんには活力がないと思われることだろう。
だが、満足していたら、別に活力がなくてもいいと思う。
イキイキ、やたら元気に張り切って頑張らないといなければならないのか?
誰のために?
愛する家族たちはいて、こころの拠り所にしているが、今は見守るスタンスで関わっている。
いずれ、見守られる時期が来る。

頑張らない、頑張れない自分がそれで良ければ良いのでは?
活発な毎日を期待されるとすると、誰に期待されるのだろう?
静かに安らいで生活しているのは、わたしの年齢では理想的模範的ではないのかも知れない。
模範って、誰のために?
自分で勝手に理想像を作り上げて、へんに抵抗している。
迷惑をかけなければ、自分の満足いくようなスタンスで生きたい。
自分の理想像そのものが変化しているのだろう。
出力を減少、下げて行きたい。
世間(メディア)では、下げるな下げるなと圧をかけてくる(ように感じる)。

暗いニュースや災害特集が続く。
一瞬で積み上げてきたものが失われた絶望感、喪失感、虚無感は想像を絶する。

今日は朝から寒い雨。
食欲がないのと同様に、書きたくなる気力というものも、わたしの心身健康のバロメーターのようだ。
どんな状況であれ、生きていかなければならない。
また時間が変われば気も晴れる。気が変わる。

暗いブログ記事はアップしない方針の人もいる。
元気な時の自分しか表に出さないようだ。
読む人に与えるものを想像する、忖度。
マイナスの自分は出さない。
ゴミを散らかしては迷惑。
それもまたその人のスタンス。
人の数だけ考え方、感じ方がある。

ある人に「ズルい(逃げている)」と言われた。
わたしが結論を出さずに、のらりくらりしているからだ。
努力から逃げる。
やりたくないこと、向かい合わなければならないこと、対峙から逃げる。
暖簾に腕押し、2階から目薬、糠に釘。
一向に成果が上がらない。積み重ねようにもザルから溢れ落ちる。
確かにその通り。
わたしは、優柔不断そのもの。
何も好きでそうしているわけではない。
このわたしの性格、短所は大きな悩みの一つ。
潰れず持ち堪えられるか。
寒い雨の日は、古傷が痛むかのように、どんよりこころが沈んでいる。

女たちの暮らし

2024-03-10 | 思い出
わたしは、夫と別れようと思ったことは一度もない。
(母が勧める)別の人と結婚していたらよかったと後悔することはあるが、まだ学校を出たばかりの当時のわたしは地に足が着いていなくて、真剣に結婚に取り組んでいなかったため、ご縁を逃した。
やがて、本腰を入れて結婚に向かい合い、夫と結婚することを決めたのは自分だ。
なので、自分がしたことは自分で責任を取らなければならないと思っている。
そして、祖母や母の言うことは、女性の生き方の先輩だけあって、ずしりと重い真実のアドバイスになっていることがある。
祖母や母も、そんなに気負って重大発言のようには思っていなかっただろうけれど。
自分の体験が生み出す声がぽろりと漏れたのだと思う。

自分自身の器には、適した大きさの器がある。
自分より素晴らしいものを棚ぼた式で望んでも、無理やりその場はどうにかなっても、やがて綻びが生じる。
覚悟して死に物狂いで頑張って努力したら、器は大きくなっていたかも知れない。
が、たいした努力もせず、周りの皆さんの厚意や好意、愛情に包まれ、今日まで来てしまった。
今日の安泰は、たまたまだったかも知れない。
ではあるが、明日のことはわからない。

母は、わたしが若いある日、こうも言った。
「望み過ぎるな」と。
わたしが現状に対する不満を母に述べた時の返答だった。
祖母は、わたしが学生のある日、こうも言った。
「選び過ぎるな」と。
祖母は当時のわたしのことをさほど知らないはずなのに、重い一言だ。
直感で感じるものがあったのだろうか。

祖母には仕事で多忙な母に代わって、幼い頃、衣食住のお世話になった。
母は、わたしが生まれた頃に、父の仕事の手伝いをするようになり、両親共働きのような日常だった。
代わりに祖母が孫たち(わたしたち、きょうだい)の日々の面倒を見てくれた。
そう書くだけで涙が出てくる。
感謝の日々だ。
田園風景が広がる田舎での幼い日は、家族からの愛情に囲まれていたと想像する。
祖母は当たり前の家事の日常に、そんな自覚はなかったかも知れないが。

今日もまた自分のぽたぽた溢れ出る天然涙で、セルフ セラピー、ヒーリング タイムとなった。


嫁がいない

2024-03-09 | 
息子の嫁、、、いない。不在。未婚。
娘たちは結婚し、子供もいる。
いわゆる、昔で言うところの外孫ばかり。
この発想そのものが、家父長制を引きずり、古いのではあるが。

わたしが息子を産んだ時、周りは大喜びした。
特に舅の喜びようは一際だった。
わたしは、息子を産んだ段階で、もうわたしの役割を果たしたと感じた。
跡継ぎ製造機、お役目完了。
終了。ごくろうさま。

それはそうと、、、
今、孫は5人いるので、全員外孫であろうがなんであろうが、わたしはもういつあの世に旅立ってもよいと思っている。
(そういう人に限ってジタバタする)
無事、次々世代が存在するのを見届けた。
ただし、あの世に行く前に、家の中のぐちゃぐちゃ不要品の、最低、半分は処分しなければならない。
理想は不要品全部だが、理想が高すぎて挫折するのが見えている。

ちなみに、、、話を戻そう。
わたしが行く次の世界は、、、あの世の住まいなのだが、ものすごい大家族。
もう、嫁に来た時から完全予約制で、予約完了済み。
わたしは、あの世では最も新人になるので、先輩たちにイビられるか、イジられるか、大所帯の中で小さくなって永遠にいるのだろうか。
あの世に行けば、あの世が永遠だとすると、区切りがなくて困る。
あ、ここ、嫌、鞍替えしたい、引っ越したい、移住したい、と思ってもそれがあの世なら、次の場所が思い浮かばない。
生き返るわけにはいかない。
だから、どの宗教もあの世は最高であるよう、日々、信心せよという流れなのだろう。
信じるものは救われる。

あの世、予約席がぎゅうぎゅう詰めの大家族、大世帯である訳は、、、
たくさんのご先祖様を抱えていて所狭しと皆んな肩寄せ固まってお墓に寄り集まっている。
人口密度が高い。
お盆の時は先祖の皆さんは実家に里帰り。
わいわいガヤガヤ。修学旅行のよう。
仏壇の扉は開けているものの、わたしはあの世は見えない聴こえない人になって、この世で暮らす。

しかしこれは、宗教的な観点。
イエの意義、家父長制と重なる。
時代や国によっては、天皇陛下のために命を捧げたり、聖戦をしたり、宗教はものすごい力を持つ。
女性を家に縛り付ける政策や課税方法と同じ。

話は戻る。
この、わたしの嫁ぎ先のご先祖さまは、全員実家の墓に入れるわけではない。
直系血族のみ。
傍系は入れない。
これ、すごくない?
(そういう宗派の考え方、ルールらしい)
傍系が結婚すると、独立して墓リザーブ席からも出て行く。
跡継ぎ以外は、墓に入っている人々は、成人する前や若い頃、亡くなった人ばかり。
未婚のまま独身の成人の人は見当たらなかったが、なんらかの流れで出て行ったのだろう。
あるいは、傍系は全員結婚して出て行った?
血が繋がっていなくても、跡継ぎ養子や嫁は墓に入っている。
不思議。

まあそういう「この世」と「あの世」を繋ぐものが墓なのか?
過去と現在を繋ぐもの?
宗派によっては形式は全く違うだろうけれど、世界中を見ると、亡くなった人には冥福を祈り、祈りを捧げる。
細かい形は、それぞれだろう。

しかし人を生かすも殺すも宗教。
扱いを間違えると悲劇が起こる。

嫁、墓、宗教。
昔は一直線に切っても切れなかったが、今は隔世の感。
結婚しない。
結婚の意味を問われる。

新興宗教もあるし、いつの世も、人のこころは浮遊し彷徨うようだ。







年上の友人たち

2024-03-08 | 老い
知り合いの方々。
友人?のカテゴリーに入るかも知れない。
わたしは、親友認定の基準がへんに厳しいため、親友はいない。
自分を開示しない主義なので。
腹黒をさらけ出す勇気がない。

友人となると、まあまあいる。
皆さん、わたしより年上。(同世代もいる)
なので、人生経験はほぼフルコースでされている。
就職、結婚、子育て、リタイア、介護、看取り、、、。
あとは、ご本人(と配偶者)の病気、看取られが残るのみ。
フレイルの方はいない。
が、今のままのライフスタイルだと、あと数年でフレイル突入だろうと予測出来る人はいる。
車を使って歩かない人。
自分に無理をしないのはストレスが溜まらないため、意外にフレイルにならないかも知れないが。
やはり、最低限、日常、歩くのは必要だと感じる。
身体がしんどくなると、そんな理想も吹き飛ぶのかも知れない。
何もトラブルが起きていない事前に予防するのは、ハードルが高い。

気力があるうちに、老人ホームに入居するのは、一つの良策だ。
配偶者の病気が急に進んで、二人でゆっくり施設を吟味する時間がなかった、と、ある人は後悔されている。
自立出来なくなる前に、夫婦でじっくり検討すべきだったと。
わたしの母は、認知症が少し出た段階で老人ホームに入所したが、意識や頭脳がはっきり正確に明確な時も混在し、理性ではわかっていながら、かなり抵抗した。
が、認知症がとことん進む前で良かった。
ギリギリのところだった。

ある程度の高齢になると、自立出来なくなる自分を想定して、出来る限り周りに世話にならず、一人で生活していきたい、と、あれこれプランを練る。
フレイルぐらいになると、かなり選定決定までの時間は限られ短くなる。
まだフレイルが訪れていない場合は、いずれその時期が来ることを予想して、考えておく。
じわじわ来るのは、ある意味幸せか。
あるいは、突然来るほうが幸せか。
神のみぞしる。
今日を大切に生きるしかない。

とかなんとか、わたしはやるべきことが山のようにあり、うんざりしている。

ちなみに、ブログ村エッセイのブーツさん。
幅広い教養には脱帽。
美術と世相を、独自の切り口で展開。
ピリピリキリキリ心地良く脳が喜ぶ。
リアル体験ゾーンにいる裕さんとはまた違う、脳内博識解説。


高齢ドライバー

2024-03-07 | 老い
高齢の人は、自分より若い人と交流を持つと、それはそれで刺激になる。
ただし、程よい歳の開きが望ましい。
あまり離れ過ぎると相手の気持ちや感覚が理解できない。
少し前は自分はそうだった、とか、少し経つとこうなるのか、とか、参考になったり、自覚する助けになる。
さらに、高齢の人は、その人が若い頃、お近づきになりたくてもなれないほど、格段に差があっても、老化によって少し能力が低下して、以前より差が縮まり身近に感じる。
ではあるものの、プライドばかり高い、能力の低下を認めない高齢の人は、老害予備軍になる恐れがある。
そこそこ素直な、能力が低下しても、わたしよりまだまだ、うんと上だったりするため、プライドは保たれる。
しかも、惜しみなく知識や見解を示してくれる。
ただ、考えが偏っていたり、間違いを平気で押し通したりする人は、やはり老害予備軍となる。

しかしながら、正しくバランス良く老化するのは、実に難しい。
客観的に判断する力が衰えると思われる。
誰しも自分を正当化したい。

(自分とは歳の開きがある)お年寄りの人とは、脳内で自由に交流する。
そのほうが、お互いにウィンウィン。
一緒に行動するにはやはり壁がある。
体力の個人差がある。
自分の心身が無理のないように動きたいため、人に合わせるのは苦痛になる。
それに、人によって苦手な行動がマチマチ。
トイレ不安のある人や、長く歩くのが辛い人、色々。
なので、脳内で交流すると自由。
一緒に実際に同じ空間、時間で行動しなければ、感動を共有できないわけではない。

だが、体を動かさず、家から一歩も出ず、脳内だけで活動すると、リアルな瞬間的なライブ反応が得られない。
ネットの向こうで生動画で繋がるのもありだが、やはり、実物の息遣いは直接感じられず、脳内の感覚に近くなる。
コロナ真っ最中はそれしかないが。
在宅勤務ならそれでよいが。

同じウォーキングをしても、室内でランニングマシーンで歩くのと、屋外で歩くのでは目に映るものが違う。
天候、季節、空気、景色、人々、、、その時だけの状況を肌で楽しむ。
脳内だけでは、実際に直接、直に感じるものとは当然違って来る。
そのリアルな反応が嫌で、刺激が強すぎたり、不快に感じたりすると、外に出ない人もいるが。
自分をどのへんまで出すか。
プロテクターの強度はどんな程度のものか。

ある高齢の方。
車で運転して好きなところに出かけておられる。
ご自身の心身が自立出来なくなって運転出来なくなったら、落胆して、活力をなくして、どうしようかと嘆くだろうと仰る。
だが、、、わたしは実は(例え近所のランチ店でも)車で一緒に出かけるお誘いを受けても尻込みする。
高齢ドライバーの事故が多いからだ。
本人は自覚がなくても。

トラブルが起きてから免許返上するのではなく、車でなくても行動できる方法を先に考えたほうが良いと思う。
(地域によっては、車がないと生活出来ない状況がある。
が、都会で引き起こされる交通事故とはまた違う)

わたしが暮らしている生活圏においては、車がなくても、公共交通機関を使えばどうにかなる。
どうしても車でしか行けないところは、工夫するか、やめるか、である。
緊急ののっぴきならない場合はタクシー利用もあり得る。
援助の手がない、経済的にも苦しい人は、行政機関に相談し、尚、改善出来ない場合は、どうすればよい?
いざという時の身内が近くにいる人は、それでもそろそろ車の運転は見合わせたほうが良い。
高齢になり車の運転があやしくなった母の場合、姉が母の車を売り払ったので、強制的に運転出来なくなった。
身内でもないと、そんなことは出来ない。
が、どんなに車の運転が上手な人であっても、高齢ドライバーの場合、わたしは助手席に座るのは遠慮したい。
知人の高齢の方は、歩くのが嫌いで、前は近所のスーパーに歩いて行っていたが今は車で行くそうだ。
それは、逆にしたほうがよいと思う。
車をやめて、歩いて行く。
必要であれば、嫌でも歩く。
だが、身内でもない人にそんな忠告はお節介だろうと思い、何もわたしは口に出さない。
身内も忠告しているのかも知れないし。

足、腰が悪い、痛い、だから、歩くのは避けて車を使う。
これは悪循環だが、仕方ないのか。
車を使わず、歩くのも嫌、となると、家から出ない。
そうやって、徐々に老いのソフトランディングか。

わたしの周りの人たちを見ていると、そういう流れが多い。
わたしも、いずれそうなる。

車で出かけたい、外の世界を楽しみたい高齢ドライバーさんとは、しかしながら、今後は、わたしとしては、ドライブ同行は控えたい。
つまり、距離を置きたい。
ということは、やはり自分の年齢や心身能力に合った人と交流することが、しっくりいく。


地獄の入り口か、天国の入り口か

2024-03-06 | 趣味
新しく、顔を知らない友達が1人加わった。Bさん。
顔を見たことがないというのは、インターネット上の繋がりだから。
悪い道に導かれ、悪事に手を染める、地獄の入り口か??

今のところは、SNSやメールのやり取りしかしていない。
その人のホームページや図解や、いろんなことを紹介してくれる。
麻薬の売人ではなさそう。
闇金融の人でもなさそう。
趣味ではダンスの解説、職業的専門は数字を扱う技術者。
昨日アップした蝶ブログ記事の焼肉ランチの人(Aさん)と、たまたま似通ったスペックの人とお近づきになったものだ。
趣味繋がり。
難しい社交ダンスをマスターするには、根気と努力と理解力が必須。
長い歳月を必要とする。
なので、ダンス通の人物像は、似通って来る。

それにしても、共通点がありすぎる。
良く似た背景の人が世の中にはいるものだ。
たまたまではなく、わたしが興味を示す分野に応じているのだろう。
ビットコインや仮想通貨、株、ファンドなどは、全く興味ない。
お金儲けをしようとする匂いには惹かれない。
犯罪はお金にまつわることが多い。
旅は嫌いではないが、毎日、どこへ行こうかプランを練ったりなどは全くせず、積極的ではない。
今、わたしのブームではない。
個人情報に関することにも興味がない。
もうリタイアした身、ビジネスに活かすわけでもなし、影響がない。
メリットもデメリットもない。
が、悪質な人生を歩んでいそうな人は避けたい。
とすると、共通点は趣味。
一つの趣味が共通の軸となるが、一人につき一つの趣味というわけではなく、他にも趣味を持っていることが多い。
他の趣味に触れることで世界が広がる。
面白い。

あまり外の世界には実際にリアルに繋がることがないリタイア後の生活、暇つぶしには、ピッタリ。
なぜ暇つぶしかというと、発展を求めていないからである。
知り合った人たちは、わたしよりはるかに歳上のため、先細りである。
自分より若い人とお付き合いした方が良いのだが、今のところは、若い面々は家族だけで十分。

だが、歳上の人たちとのお付き合いは、(この世から)一人減り二人減り、で、喧嘩したり絶交したりではないところが、私情を挟む余地がなく選択肢がない。

しかし、高齢の方はずっしり重い知識と経験がある。
長く積み重ねられたものは、それぞれのオリジナルを醸成し、貴重だ。
ただ、問題はある。
脳の衰えを感じた時には、躊躇する。
壊れた頭脳とは交信できない。

人情や友情を育てていたとしても、お互い、認知症がぼちぼち顔を出すと、よほど身近な人物でもない限り、お付き合いは徐々にカットされる。
自分から出ていかなくなるから、集まり先に顔を出さない人は自然消滅となる。
(TVで紹介されていたが、認知症の人が活動出来る場もあるようだけれど)
心身ともに、そして頭脳が動いている間に、活気ある行動をしたい。
心身だけでなく、頭脳も無尽蔵ではない、限りある資源だ。

心身や脳が弱ればまた、それに応じた過ごし方がある。
次のフェイズを迎える。
好きな音楽を聴き、好きなものに触れ、刺激だとかそういうものには無縁の、まったり穏やかな日々でソフトランディングする。

アホとカシコ

2024-03-05 | お付き合い
いつも同じことを書いている。
進歩がない、進展もない。
このままずっと行くのだろう。
それはそれで、結構なこと。

ある人、Aさんと、焼肉ランチに行った。
会話の最中に、話の流れで不意にAさんの実年齢がわかった。
え??うそ??そんな年齢でした?
わたしの中では17年前から時が止まっていた。
逆算して、当時のAさんの年齢を割り出した。
今のわたしの年齢だ。
それぐらいの年齢の開きがあったのかと、今頃になってやっと気づいた。

そういえば、前に偶然、バッタリ道で出会した時、なんだか老けてみえるなあ、、、と思った。
浦島太郎的。
だが、Aさんは元々あまり若々しいタイプではないので違和感はなかった。
(これって、ひょっとして失礼な感想?)

何しろ、自分と同世代だと思っていた人が17歳も年上だったことに、浦島太郎はわたし?と我が身を案じた。

出会った時にはすでに17歳年上だったAさんと、年齢ギャップもなく冗談を言って笑いあったり、普通に接していた。
年齢を超えた、何かなんだろう。

あ、わかった。
ポイントは、Aさんの頭の良さ。
これが実に気持ちよかった。
どんな話題に及んでも、行ったり来たりラリーの応酬になっても、話題に必ず付いてきてくれた。
私の知っていることぐらいは全て知っておられた。
Aさん>わたし
知識と経験。
教養があり、柔軟性に富み、そして、リタイア後は楽器演奏をしておられた。
書くことも。
専門は物理専攻の技術者ではあるものの、鉄板みたいにカチンコチンではない柔らかさが内在しているのだろう。
やはり、ユーモアや芸術はまろやかな薬味になる。
絶妙な味を際立たせる。

ただし、低俗なことや流行にはあまり通じておられないものの、それはそれで良い。
その分、わたしが俗世間にまみれている人間だから、低俗部分は自分で補える。
アホとカシコは正反対なので、衝突しない。



今、日常こそが大切

2024-03-03 | 日々のこと
ホームに設置された暖かい待合室。
電車が来るまで、ぬくぬく待とう、、、と思っていたら、、、待合室の中に、脳に特徴を抱えた人が大声で叫んでいる。
待合室から一人抜け、二人抜け、、、席を立った。
しかし、抜けて外で待ったら、今日は真冬の寒さが戻っている。
しかも10分ぐらい待ち時間がある。
寒さを我慢か、恐怖に耐えるか、、、
寒がりで怖がりのわたしには、哀しい選択だ。

さて。
大谷翔平、ご結婚、おめでとうございます。
と言いつつ、第一報を聞いた時、わたしはなぜかガッカリした。
独身でいて欲しかった。
世の中の素敵な独身男性が1人減ると思うと、肩を落とす。
1番上男子孫(小5)にそう言ったら、「ばあちゃんは、結婚してるやん」と。
確かにそうだけど。

なぜなんだろう? 
スイーツが大好き!!と、似たような感覚か。

大谷翔平の奥さん、羨ましいな。
と、一瞬思ったが、次の瞬間にはそんな感情はなくなっていた。
大谷翔平、リタイア後に1000億円。
羨ましいな、と瞬間的に思ったが、瞬時にその感情は消えた。
なぜなら、、、
あれだけの大物になると、どこに行っても何をしても注目を浴びる。
何かしても、逆に何も行動しなくても、なんやかんや言われる。
「みなさんが、うるさい」
一時も放って置かれることがない。
プライバシーは1000億円で買われた。
まあ1000万円ではないので、まあいいか。
超人のことを凡人のわたしが想像しようにも出来るはずがない。

実力、名声、お金、、、わたしには縁のないものだが、ないモノねだりはしない。
(お金はあっても邪魔にならないし、欲しいけれど、人生が狂うほどの大金は要らない)
と書くと、紛れもなく「取らぬ狸の皮算用」である。
いや、それどころか、たんなる妄想家。

それはそうと。
なぜ、わたしはこんなに承認欲求がないのだろう。
自分が楽しければご機嫌。
ではあるものの、災害で苦しんでいる人を見るのは辛い。
他人事とは思えない。
この歳になって、やっと他人を思い遣る気持ちが芽生えた。
実に遅い。
石川県の人々の郷土愛は凄い。
試練に負けない芯の強さ。
ニュースを見る度に、その強い姿勢に感動する。
美しい輪島塗、伝統の火を絶やさないでいただきたい。
こころから応援している。

話は元に戻る。
わたしは、一般人である。
この一般人は、世間並みという意味が含まれている。
だが、捉えようによってはかなりの開きがる。
かつて、「一億総中流」なるワードが流行った。
流行りに「下流老人」なども追加。
日本人は他国に比べると統計的に幸福だと感じる人は少ないらしく、経済も世界第4位に脱落し低迷が続く。
その対策としてかどうか知らないが、人と比べるのではない考えも浸透しつつある。
辛抱しろということか。
だが、普通の営み、いつもの暮らし、日常が、いかに大切か。
当たり前であると思っている日常に、喜びを感じ、感謝し、ささやかな幸せを大切にしたい。


※今回のトップ写真は、3月3日に、ぜひ使おうと思っていた。
お雛様が飾られているのは、江戸時代吹田村の旧庄屋屋敷。
今は吹田歴史文化まちづくりセンターとして再生されている。



衰えにも色々あるけれど、、、

2024-03-02 | 老い
蝶ブログを私物化し(当たり前。わたし専用のブログ。毎月、使用料、払ってます)、好き放題に書く。
何を?
もう何度も何度も書いているのに、しつこく同じことを書く。
これはわたしをはじめ、高齢者の特徴でもあるが、ひとつ、老化現象ではないところもある。
それは、、、自覚していることだ。
(買い物も、家に既に買い置きしていることを自覚しながら、また買う)

書く前から、あるいは、書きながら、
あ、これ、2回目だ、、。
3回目?5回目?
さすがに10回は書かないが、事実は一つではあるものの、手を変え品を変え、当時の心境が時を経ると少し変わる。
(それが高じると、意図せず事実まで変わることがある)
1日1日、時は動いているので、同じ時間、時刻は2度とない。
だから、同じ事を書いても、毎日、日々、更新される(はず)。
だが、マイナーチェンジのため、書いた本人にしか違いがわからない。
なので、読む人は、ああまたか、うんざり、、、これ、何回目???となる。
過去の出来事で印象に残る、こだわっている経験なのだろう。
何度も何度も書いているうちに、自分の想いが精製される。


それはそうと、、、
趣味仲間の男性。高齢のお方、Aさん。
絶対に自分が高齢であることを認めない。
身体本体も身体能力も運動技能も頭脳も、衰えている自覚が全くない。
なので、この人の言う通りに従っていたら、わたしの身体が壊れる。
なので、ほんの少しでも具合が悪い予兆があると、わたしはストップする。 
自分の身体は自分で守らなければ、誰も責任を取ってくれない。
ましてや、わたしが具合が悪くなったとしても、付きっきりで看病してくれるわけでもなし、ヘルパーさんを雇ってくれるわけでもなし、最期まで看取ってくれるわけでなし。
せいぜい救急車を呼んで救急病院まで救急車に同乗してくれるぐらいだ。
わたしの家族が到着するのが仮に夜遅くになるとすると、病院の医療従事者の方々にあとは任せて、とっとと自宅に帰って行くだろう。
まだ病院に搬送されるまで付き合ってくれたとしたら「御の字(→死語)」。
そういう図が見えるため、自分の身体は自分で守る。
オリンピックの強化選手でもあるまいし、年寄りのお遊びに、身体を張る気は、全くない。
いつでも、「はい、さようなら」と荷物をまとめて帰る、退路を確保した、こころの準備はしている。
運命共同体でもない、お遊び(趣味)の関わりは、所詮、お遊びで、いつでも抜けられるニュートラルな場所にいる。
わたしにとって、趣味なんてそんな程度。
「生きがいだ」なんて真剣に思っていたとしても、本当の生きがいは、楽しい浮ついたことばかりではなく、生きるか死ぬかの、ギリギリを死守するための努力、みたいなものか。

話を戻す。
このAさんは、人の話を聞かない。
というか、聞きたい話しか聞こえない。
かつての晩年の姑と同じ。
脳がカチコチに固まって縮んでいるのだと推測するが、本人には自覚がない。
なので、そんな人と、あまりまともに話をしないほうが身のためである。
どうせ聞いてないだろうと、それをいいことに、わたしも好き勝手をしゃべる。
耳の聞こえない人同士の会話のようだ。

たとえば、二人一緒に同時に、別の趣味仲間と話していたとする。
話題は、かなり狭い共通の趣味分野。
広い範囲の会話ではない。
にもかかわらず、Aさんは話の内容をちゃんと聞いていないで、自分が好きな傾向の話だけが脳に残る。 
この脳のメカニズムは、自分を傷つけない。
プライドは保てる。
が、現状を把握していないだけである。
そういうことが、段々わかってきた今日この頃、まともに深刻に向き合わないことにしたほうが良さげだ。
その方向で舵切りしようと決めた。

歳を取ると心身共に衰えが現れるが、それを自覚出来ないところが、最も大きな衰えだと、人のフリ見て痛感する。