蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

プライド②

2024-03-27 | 無題
ブログ村エッセイカテゴリーの何人かのブロガーさんのブログ記事を読んだ。
一つは、自慢たれのご近所の女性の話。
もう一つは、仕事関係のお客さん(利用者さん)。

人は皆んな、プライドで生きていると思う。
プライドがなくなったら生きる屍。
と思ったが、わたしは少数派なのか?

多かれ少なかれ、どんな人にもプライドはあるはず。
それを内に秘めるか、外に出すか、出るか、だ。
行動に現れる場合もある。
無意識に外にダダ漏れの人もいるし、きつくニオウこともある。
プライドは、自慢になったりすると、嫌わられる。
出すつもりはなくても出てしまうため、必要以上に出ることを抑えて、実像とは違う、素ではない様子になっている人もいる。
自慢しないプライドは、どんなもの?
謙虚なプライドって?

プライドを昇華できれば素晴らしい。
が、困難。
プライドだけで生きている人もいる。
立派なのか、頭が下がるのか、はたまた好感を持たれないのか、賛同されないのか。
人との関わりの中で、プライドが顔を出す。
人と関わらないことも、プライドの一種だったりする。
自分を生きにくくすることもある。
特に歳を取ると、老化により、益々、意識と現実にギャップが生まれ、努力では埋まらない。
プライドの塊りのようなお年寄りをあちこちで見かける。
プライドは自分が生きて来た証、芯のようなものだから、今更、取り除けない。
現実に向き合い、柔軟に対応すると生きやすくなるが、それがまた難しい。

思うに、、、同じ価値観、同じ感性、目線の人に素直な気持ちを自然体で吐露できるのが理想。
カチンと来られたり、自慢と受け取れたりする人には、当たり障りのない会話を選ぶ。
受け取り手も、(部分的に)カチンと来ても、さらっとかわす。
だが、深く一歩進んだからといって、分かり合えるわけではない。
どんな人とも自分と同一は不可能。あり得ない。
やはり距離感は必要だ。



プライベートな会話

2024-03-27 | 人々の風景
ちょっとだけ都会の、大阪市内にある大型総合ビル、テナント内の、とあるお好み焼き屋さん。
4人の女性たちが、ぎゅーっと1つのテーブルに集まって昼食。
わたしは、その前のテーブル席。
横を向くと、2人の背中が見えるが、4人とも姿形はわからない。
彼女たちの、よく通る声が否応なく聞こえる。
顔は見えないので、話の内容から、てっきり70代真ん中から後半ぐらいの、仕事はしていない女性たちだろうと想像していた。

4人のうち、主に1人が喋りまくる。
もう1人が次に喋る。
あとの人の声は聞こえなかった。

なぜ、わたしが70代だと感じたかというと、、、。
自分の家庭のこと、家族のこと、家庭背景、そういう超プライベートな話だったからだ。
あんな話はおそらく、ある程度の年齢になったらする話題だろうと、わたしは勝手に偏見で思っていた。
連子だった夫は、継父にうとんじられ、、、子供によって、おかずの皿が多い少ない差別を受け、、、いじけて育った夫は、、、のような昭和の匂い。
すごく遠い時代のように感じた。

が、彼女たちが席を立って帰る姿を見ると、、、
あらら、、、わたしと同じぐらいの年齢?
ひょっとすると、わたしより少し若いかも?
しかも、きちんとビジネススーツやジャケットを着ておられる。
生命保険の外交員さんだろうか?と、想像した。

しかしまあ職場の同僚に、超プライベートな家庭の話を延々とするって、なんだか不思議な気がした。
暇な、お年寄りの集団かと思いきや、ビジネスウーマンの集まりだったことは、大変、意外だった。
ビジネスウーマンでも、キャリア系ではないと、なんとなく思った。
わたしの持つ、職種に対するステレオタイプの勝手な思い込みだろうけれど。

わたしは、家族のことは人には話さない。
話す相手は姉だけ。
あとは、亡くなった姑や、娘たち。 
というか、自分たち家族のことを家族内で話しているだけ。
なので、外の人には話さない。
人それぞれ、いろいろだろう。
わたしには彼女たちは不思議な人たちとして映ったが、向こうの皆さんから見ると、わたしが不思議な人に映るのだろう。
しかしながら、彼女たちのお喋りは現実的で興味深い会話だったので、ブログネタとして、おいしい。