判断するひとつの目安として、
エンドロールの長さに注目しているとこちらに書いたことがあります。
エンドロールまで至らずとも、
低予算映画の醸し出す雰囲気というのはそこここに漂っているものですが、
そんな「のどかな苦節みたいな雰囲気」とは別に、
こりゃ低予算だとガクッと来る瞬間があります。
字幕なんですけど。
低予算映画に限って、「借」と「貸」の誤用が出現するんです。
普通に変換したら、「貸してね」とか「借りるよ」になるんだから、
「借してね」や「貸りるよ」なんて、あり得ん。
漢字と平仮名をわざわざ別に入れないと、
こんな字幕は作れんやろと思うのですが、なんで?
さらに、低予算がゆえに誰もチェックしないから
そのまま世に送り出されてしまうっちゅうことなんでしょか。
もうひとつは「ら抜き」。
これも、低予算映画でないとお目にかかりません。
日本語の乱れがどうとかなんて言う気は全然ないですし、
そんなこと言えるような日本語も使ってません。
ほれ、実際、私の文章は「使ってません」なんて「い抜き」だらけ。
「い抜き」はどちらかと言えば好きなんですけど、
「ら抜き」だけはどうも気色悪い。
映画の話から外れますが、
テレビ番組でインタビューを受けた側が「ら抜き」で話しているとき、
テロップではちゃんと「ら」が入っているとホッとします。
大好きな歌でも、「ら抜き」の歌詞があると、
カラオケでその部分を歌うときにちょっと抵抗があったりして。
今井美樹の『PIECE OF MY WISH』の「どうしてもっと自分に素直に生きれないの」、
河島英五の『生きてりゃいいさ』の「人を信じれず眠れない夜にも」。
お願い、ら~入れて~。
食事するときや買い物をするときも、
「食べれます」とか「見れます」という表記を見ると、
この店、大丈夫かいなと一抹の不安を抱きます。
と言いつつ、「来る」だけは、
「来られる?」が落ち着かなくて、
「来れる?」と言ってしまうのでした。
勝手です、ホント。
あ、話がズレ過ぎ。
「ら抜き」は世の中の流れとして
いずれはごく普通のことになってしまうのかもしれないけれど、
「借す」と「貸りる」は勘弁して。
映画を観る子どもたちが間違って覚えないように、
正しく使った字幕を作ってほしいなぁ。
ま、低予算の子ども向け映画なんて、あんまり存在しませんわね。