雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

順繰り ・ 小さな小さな物語 ( 1089 )

2018-11-19 15:15:43 | 小さな小さな物語 第十九部
国会では、働き方改革について論争が続いています。
どの程度熱心かについては、与党側と野党側とでは相当の温度差があるようです。野党にすれば、他に論争を挑みたい問題があることや、どうせ最終的な決着の形が見えてしまっているためかもしれません。
それはともかく、労働者という言葉が現在も通用しているのかどうか知らないのですが、雇われている身分の者が、何かと制約を受け抑圧されることが多いことは、この数十年において、大きな変化はないような気がします。

かつて、といってもつい最近までですが、わが国の労働市場の主体は、終身雇用制であったとされています。それが、自由化の進展などと共に、能率給、成果主義、実力重視などといった言葉のもとで、労使関係には大きな変化が起こり、折から、バブル崩壊とともに労働市場は急激な縮小がおこり、働く者にとっては厳しい時代が続いてきました。
雇用者の福祉や人権さえも無視するような経営者が、利益さえ生み出せば大手を振って歩ける時代が生まれてしまったのです。もちろん、この期間に、長い歴史と重厚な経営基盤を有していると見られていた大会社が没落していった数も少なくありません。利益追求至上主義を非難することは簡単ですが、会社を潰してしまっては、社員の幸福も何も論ずることなど出来ないことになります。

わが国の、ごく一部の特権階級といえるような人は別にして、一般的な市民の生活の基盤には、「順繰り」あるいは持ち回り的な思想があったように思われます。
会社勤めの場合でも、年功序列といったものが給与ベースとしてあり、それは現在においてもなおある程度の比重を占めているように思われます。日常生活の中でも、例えば、町内会の役員やグループの世話役などは、現在でも「順繰り」とか持ち回りといった思想は根強く定着しています。
時代の変化とともに、最近でいえば、第二次世界大戦の惨敗後の社会においては、わが国の社会全体、あるいは日常生活が大きく変化してきました。
しかし、本当にそうかといえば、案外変わっていないような気もします。終身雇用だとか年功序列だといっても、そうそう絵に描いたように行われていたわけではなく、中途解雇や有能な人物の登用などは数多く行われていたようです。ごく日常的な業務分担などでは、「順繰り」が大きな地位を占めていたと思われますが、そうした中でも必要に応じてリーダーを誕生させたりしていたようです。
つまり、わが国のここ百年の社会は大きな変化をしていることは確かですが、「順繰り」という知恵は、長い時間をかけて生み出されたもので、そうそう簡単には消え去らない知恵だと思うのです。

当ブログでは、今昔物語を読み進める記事を掲載させていただいております。この膨大な作品の中心は仏教思想なので、抵抗を感じられお方もいらっしゃるかもしれません。筆者としましては、宗教的な観点ではなく、作品の面白さを追求することに重点を置いておりますので、ぜひご覧いただきたくお願い申し上げます。
とんだところでPRになってしまいましたが、実は今回のテーマを選んだのには、「順繰り」という知恵の根幹には、「輪廻転生(リンネテンセイ/リンネテンショウ)」という思想があるのではないかと、ふと思ったからです。
「輪廻転生」の輪廻は車輪のように回転することであり、転生は生まれ変わることです。古代仏教の教えによれば、「私たちは、『地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上』の六道を生まれ変わり死に変わり永久に煩悩から抜け出すことが出来ない」とされています。この中にある「天上」は、楽しみ多い世界ですが寿命があり、「極楽浄土」とは別のものです。私たちは功徳を積んで、六道の輪廻から抜け出して極楽浄土に生まれ変わらねばならない、というのが仏教の教えのようです。
「輪廻転生」といえば仏教の専売のように思いがちですが、他の多くの宗教にも同様の思想があり、もっと根幹的な、人間の本能の中にも埋め込まれているような気さえするのです。
最近、「順繰り」とか持ち回りといった考え方が、軽視されたり無視される例が散見されるようです。「順繰り」を受け入れることは、時には負担を伴います。しかし、輪廻転生という壮大な順繰りのことを思えば、少々の負担は甘んじて受けて、この長い経験から生み出された智恵を大切にしたいと思うのです。

( 2018.06.07 )
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区画割り ・ 小さな小さな物語 ( 1090 )

2018-11-19 15:14:16 | 小さな小さな物語 第十九部
今年も予想通りトマトが苦しそうです。
毎年のことなのですが、トマトの苗を植え付ける時に、わが家の菜園の畝では3本が適正だと知っているのですが、小さな苗を植える時には4本でもいいのかと思ってしまい、誘惑に勝てずに今年も4本植えてしまったのです。当然のことながら、元気に育ってくれているかわりに、早くも葉が重なり合い始めています。
植木鉢も一緒で、「もう絶対に植木鉢は増やさない」と固く決心したのは何年も前のことにのですが、やはり、少しずつ増え続けています。

トマトが狭苦しそうなのも植木鉢が増え続けているのも困ったことですが、まあ、それはそれで楽しみの一つです。
野菜苗を植える時には、たった6畝の菜園の中で、「少しでも連作障害を減らしたい」「もう1本ぐらいいいだろう」などと一生懸命知恵を働かせ、増え過ぎた植木鉢を端境期に思い切って片付けても、よほど汚れている物以外は捨てることが出来ず、球根類を植える時などに復活させてしまいます。
野菜の種を蒔いたり苗を植える時には、それなりに「区画割り」を考えます。草花を植え付ける時も同様です。花壇は花木や多年草や球根類の場所が大半を占め、新たな草花を植えることができる場所は限られています。それだけに「区画割り」に悩みます。
それに、わが家の庭の一大勢力といえば、ノースポールとニチニチソウです。どちらも通路を中心に昨年の花がまき散らした種から勝手に芽を出してくれるものですが、花壇部分にも入り込んでいるので、一部は通路の隅に移すことになります。秋から初夏までの間はノースポールが、今の季節から秋にかけてはニチニチソウが雑草と戦いながら頑張ってくれます。

「区画割り」といえば、おそらく「土地」の分割のことを指すと思われます。
しかし、私たちの日常においても、同様のことは常に直面することだと思われます。たとえば、住居内の部屋割りはもちろんですが、部屋の中での位置取りも、家族内でもほぼ固定されているのは、いつの間にか「区画割り」が行われているからといえましょう。さらにいえば、押し入れ内の配置、タンスや机などの引き出しの利用方法も、「区画割り」の一種ではないでしょうか。 
私たちは、縄張り争いばかりでなく、便利さのためにも、「区画割り」に知恵を絞っているように思われます。

そして、究極の「区画割り」とは、時間の配分ではないでしょうか。
一日をどう使うのか。そのほとんどは習慣として、あるいは半強制的な形で無意識のうちに流れているのでしょうが、残されている部分の利用方法は、知恵の出し所といえます。長期休暇などではその比率が増えますし、対象期間を一週間、あるいはひと月、あるいは一年となれば、その時間配分、つまり「区画割り」は人生を左右するほどの意味を持ってきます。
その対象期間を、人生すべてとすることは出来ませんが、残された期間とすれば、実現性の可否はともかく、相当しっかりとした「区画割り」を描くことが出来ますし、知恵の出し所も散在しているように思われます。
ただ、問題といえば、これから先、つまり余命となれば、終わる時間が予測困難なのが難といえば難です。しかし、考えようによっては、それだからこそ良いのではないでしょうか。
ある年齢になれば、残された時間について、壮大で味のある「区画割り」を描いてみるというのは如何でしょうか。

( 2018.06.10 )
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合意文書に署名 ・ 小さな小さな物語 ( 1091 )

2018-11-19 14:51:06 | 小さな小さな物語 第十九部
注目の米朝首脳会談は、合意文書に署名するまでに至りました。
トランプ米大統領によれば、誰も予想出来なかったような成果だと自賛されていました。金北朝鮮委員長も成果を認める発言をしていました。
より具体的なこと、より詳細なことについては、これからさらに検討され実現に向かって難航するのでしょうが、少なくとも、文書に署名が実現した時点では、会談は大成功であったと思われます。

朝鮮半島をめぐる交渉は、この辺りまでは、これまでも実現した歴史がありますが、その後の経緯は互いの不信感を高める結果となり、状況は悪化の一途を辿ってきました。
今回の結果についても、実現への道のりの困難さを訴え、そもそもどこまで信用できるのか、といった懐疑的な意見もあります。
しかし、少なくとも、今回の会談が、互いに騙し合おうと考えてのものではなかったとは思うのです。米国や、特にわが国が考えているような形が実現するにはまだまだ道が遠いかもしれませんが、ここは、まずは素直に歓迎すべきではないでしょうか。

さて、取り残されたという声さえあるわが国ですが、今後どのように行動すればいいのでしょうか。
わが国は米国頼り、北朝鮮は日本は米国の言いままだと考えている、といった意見もありますが、必ずしもそういうことではないような気がしています。
合意文書の具体的な内容が伝えられていない状態でこのコラムを書いていますが、どのような内容であれ、米朝両首脳が信頼関係を深める足掛かりを得たことは、わが国にとっても悪い事ではないはずです。
わが国には、拉致の問題があり、戦後賠償の問題もあります。取り残されたなどという心配は無用で、五分五分の交渉を行う準備を固めるべきだと思うのです。

わが国と北朝鮮との関係修復は、米国抜きでは解決できないでしょうし、韓国や中国などと無関係に進展させることも出来ないはずです。しかし、それだからこそ、わが国が確固たる立場を確立しておく必要があるのではないでしょうか。
拉致問題は絶対に許せない犯罪です。しかし、わが国にも、戦後賠償という弱みがあります。交渉事は相手のある話です。負けてはならないけれど、一方的に勝つこともないということは承知しておく必要がありそうです。

( 2018.06.13 )
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へその在り処 ・ 小さな小さな物語 ( 1092 )

2018-11-19 14:49:43 | 小さな小さな物語 第十九部
兵庫県西脇市の「日本へそ公園」に行きました。
私が住んでいる所とは、同じ県内であり、これまで何度も通っている所ですが一度も行ったことがなかったのですが、素敵なレストランがあると聞いていたので食事目的で立ち寄ったものです。
いわゆる自然公園といったものでしょうが、広い駐車場があり、美術館なども備えられています。

しかし、この公園の一番の目玉は、西脇市が挙げてPRしている「へそ」が所在していることでしょう。
全国に、「へそ」を売りにしたり主張している市町村は幾つもあるようです。それぞれに主張の根拠を備えていますが、西脇市の場合は、東経135度線と北緯35度線が交わっていることから「日本のへそはここ」というわけのようです。
この公園には、1919年(大正8年)に測量された交差点を示す礎石が今も残されています。公園に添って走っているJRの「日本へそ公園駅」のすぐ近くに整備されていますが、必ずしも十分とはいえず、訪れる人も少なそうなのが少々残念です。
もっとも、この交差地点は、最近の調査では若干の相違があるようで、1994年(平成六年)にGPSで測定された地点が別に設置されているので、先人の努力の跡は、影が薄くなっているのかもしれません。

ところで、この「へそ」という存在は何とも不思議な気がします。
身体の中心であるとか、お腹の中心であるとかと表現されることがありますし、「へそ出しルック」という、その存在を強調するおしゃれもあるようですが、普段は、あまり存在を気にすることはありません。私たちの身体にとって、いじればお腹が痛くなるくらいで、特別な働きを持っているという認識はありません。本当はどうなのかは知らないのですが。
ただ、「へそ」を用いた言い回しなどは結構あります。
「へそで茶を沸かす」「へそを曲げる」「ほぞ(へそに同じ)を固める」「ほぞを噛む」など数多くあり、石ウスや重ねタンスを重なり合わせる小さな突起を「へそ」と呼びますし、物の中心にあるものを指す場合もあります。これらの使い方はみると、「へそ」はへこんでいるものもでべそも平等に扱われているみたいです。
「へそくり」という言葉もあり、「臍繰り」と書かれることが多いようですが、実は、「苧環繰り」というのが正しいというのが有力らしく、「苧環」というのはオダマキのことで、糸巻きに使われるものです。「へそくり」にこの字を当てているのは、「女房が内職で糸を繰って僅かな賃金を貯めた」ということに由来しているらしく、「臍繰り」の字を当てるのは、胴巻きにお金を隠すのと同じような意味から来ているようです。もっとも、この語源には諸説あるようで、そもそも「へそくり」の在り処は、はっきりしないのが良いのでしょうね。

とんだ「へそ」談議になってしまいましたが、「へそ」は何とも不思議な存在のような気がします。
第一、「臍」という漢字からして難しすぎると思いませんか。私たちが日常接する機会が多いのであれば、長い歴史の間にもう少し書きやすい文字に変わっていたような気もするのです。お腹の真ん中にありながら、私たちはあまり重視していないようです。
しかし、私たちが、母の胎内で命を得て生まれいずるまでは、か細い命の糸を繋ぐ重要器官だったはずです。それが、母の胎内を離れた後は、お腹の真ん中にある単なる印となり、せいぜい背中とお腹を見分ける程度の働きしかないように考えているような気さえします。
もしかすると私たちは、他にも「へそ」のような存在をいくつか持っているのかもしれません。自分の命を繋いでくれたほどの大切な物や人や環境などを、いつの間にか忘れてしまっているのかもしれません。
下手にいじるとお腹が痛くなるかもしれませんが、時にはかつての大切なものに思いを馳せるべきだと思うのです。

( 2018.06.16 )
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またも地震の悲劇が ・ 小さな小さな物語 ( 1093 )

2018-11-19 14:47:38 | 小さな小さな物語 第十九部
本日朝、大阪府北部を震源とする大地震が発生しました。
朝の通勤時間にあたったため、大阪市を中心に交通機関は大変な混雑となりました。
震源地周辺を中心に、人的な被害、建物や道路、電気・ガス・水道といった施設も少なからぬ被害が発生しています。

私の住居のある辺りは、相当の揺れを感じましたが(おそらく震度4ぐらい?)、幸い直接的な被害は発生していないようです。
今回の震源地辺りも、多くの断層が集まっている所だそうで、長い目で見れば必ず地震が発生する場所だそうです。とはいえ、大阪府内で、震度6を観測したのは、観測史上初めてということですから、今回のものは大変激しい地震であったと言えます。
被害の大きかった地域にお住まいの方にとっては、インフラが完全に復旧するまでにはかなりの時間を要しますし、無傷と思っている住居なども、厳密にいえば、かなりのダメージを受けていることでしょうから、目に見えない部分の被害は報道されている部分の何倍にも達することになります。

ただ、現在報道されている時点(6月18日夕方)でいえば、通学途上の小学生が亡くなったという報道には、胸が張り裂けるような気がします。確かに、地震によるまことに不幸な事故といえばそれまでですが、この事故、すべてを地震のせいにしていいのでしょうか。公共施設の塀の設置方法に問題はなかったのでしょうか。
関西でいえば、南海トラフ大地震などが声高に語られ、もし発生すれば、気が遠くなるような損失が出るのでその対策を急げ、などという意見も根強いのですが、その前に、私たちの日常生活の中の危険な場所、少なくとも公共施設に関して、もっと注意し、予算を投入すべきではないのでしょうか。

私たちは、地震列島とさえ呼ばれることがある国土に生きています。地震を避けることは出来ませんし、いくら対策をとっても被害を皆無にすることなど出来ません。
しかし、今回のような、幼い子供をむざむざ危険にさらしてしまうようなことを避けることは出来るのではないでしょうか。少なくとも、格段に減らすことは可能のような気がするのです。
震源地に近い方々にとっては、しばらくは余震(あるいは本震並み)の発生が心配されます。今後の対策など早すぎることかもしれませんが、率直な意見を書かせていただきました。
被害を受けられた方々に、お見舞い、お悔やみ申し上げますとともに、ここ数日は、くれぐれもご自愛ご注意下さいませ。

( 2018.06.19 )
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ライフラインを考える ・ 小さな小さな物語 ( 1094 )

2018-11-19 14:46:25 | 小さな小さな物語 第十九部
大阪府北部を震源とした地震は、最大震度6弱という激しいものでしたが、マグニチュードでいえば6.1ということですから、決して巨大地震とはいえないでしょう。
しかし、今回のように都市の直下で発生しますと、直接的な被害は比較的限られた範囲になりますが、それでも、人的被害が発生し、家屋などにも少なからぬ被害が発生しています。報道などでは、亡くなった方や負傷された方の人数などのほか、家屋の損傷状況なども伝えられていますが、激しい揺れに襲われた地域に住んでいる人にとっては、食器などの被害や、すぐには影響を受けない程度の住居の被害などは、仕方がないと言えばそれまでですが、予期せぬ負担が発生しています。
また、いわゆるライフラインも大混乱しました。大分回復したようですが、一部の道路やガスなどはなお回復に時間を要するようです。

「ライフライン」という言葉は、英語から来ているとすれば、「命綱」ということなのでしょうが、現在の私たちが普通に使う場合は、日常生活において欠かせないものを指します。つまり、電気・ガス・水道や交通手段や通信手段などがそれにあたりますが、大規模かつ長期化すれば、食糧の確保などさらにその範囲は広がることになります。
今回の地震においても、電気・ガス・水道・電話などの通信手段が混乱しましたが、現代のわが国の実力では、この程度の混乱はどうにもならないのでしょうか。
そうしたライフラインの中でも、今回の地震が大阪近郊であったこともあって、通勤・通学の人などのご苦労は大変なものでした。それにもまして、児童が、定められている通学路において、倒壊してきたブロック塀で圧死するという事件は、痛恨の限りといえます。

住宅地や小学校の近くなどでは、道路の端にグリーンに塗られたゾーンをよく見かけます。全部がそういうわけではないのでしょうが、学校から通学路として勧められている道も少なくないはずです。
小学校が、児童たちに通学路として推奨する場合、あるいは、道路管理者がグリーンの塗装を行う場合、何らかの基準があるのでしょうか。当然のことながら、通学路として推奨するためにグリーンが塗装される場合には、それなりの配慮がなされているのでしょうか。道路の端にグリーンの塗装をするだけで、一応の責任は果たしているような気持になっているのではないでしょうか。
何十万人、何百万人の被災者が出る可能性がある✖✖地震が発生する可能性が、何年以内に何%だといった立派な予想も結構ですが、震度6の地震で児童の通学路さえ安全でないという現実を、私たちはもっと謙虚に考える必要があるのではないでしょうか。

さらに言えば、今回の地震で交通機関が受けたダメージはそれほど大きなものではなかったはずです。しかし、復旧には時間を要しました。やむを得ない損傷もあったのでしょうが、ほとんどは、事後の安全点検に時間がかかったことのように思われます。かかり過ぎだと指摘する声もあります。
しかし、何か事が起きた場合、まるで鬼の首を取ったように「公共交通機関の安全対策」が叫ばれることが多い現状を考えれば、運営管理者としては、地震という大義名分のある事後点検には、十分すぎるほどの念を押したくなる気持ちが分かるような気がします。今回がそうであったというわけではありませんが、この辺りのことについても検討を進めない限り、地震に限らず、災害時の帰宅難民の問題は改善されないような気がするのです。

( 2018.06.22 )
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輝ける我が国土 ・ 小さな小さな物語 ( 1095 )

2018-11-19 14:45:11 | 小さな小さな物語 第十九部
先日、沖縄の梅雨明けが宣言されました。梅雨前線が北上したからとか報じられていましたが、そうなると九州から本州辺りはいよいよ梅雨本番ということになります。
その一方で、北海道で季節外れの雪が降ったというニュースを見た記憶がありますが、それほど前のことではないように思います。つくづく日本は広いなあ、と思いました。
かつて、それもそれほど昔のことではなく、我が国の国土は小さい、と思っている日本人は少なくなかったと思われます。今日でも、そう認識している人は少なくないのかもしれません。確かに、世界地図を見てみますと、大陸側にはロシアや中国といった広大な国土を有している国があり、太平洋の彼方にはアメリカ、カナダ、南方にはオーストラリアとわが国の何倍何十倍の国土を有している国が存在しています。
しかし、東西南北への広がり、そして領海というものを考慮しますと、なんのなんの、我が国土は世界でもトップクラスといっていいほど魅力に溢れているようにも思えるのです。

わが国の東端は南鳥島で、西端は与那国島ですが、この間は3100km余りに及びます。北端は択捉島で、南端は沖ノ鳥島で、この間も2700km以上あります。東西・南北への広がりは、実に広大なものなのです。
もっとも、東端の南鳥島は周囲6kmほどの平坦な島で、気象観測に携わる人や自衛隊関係者が駐在しているようですが、住民はおらず一般人の立ち入りは出来ません。西端の与那国島は人口1600人ほどの島です。北端の択捉島は現在ロシアに実効支配されています。南端の沖ノ鳥島は、東京都に属しているとはいえ、1700kmも離れた絶海の孤島で、周囲11kmほどのサンゴ礁の島ですが満潮時には幅も高さも数メートルの島が二つ残るだけだそうです。浸食や風化、海面上昇などによる水没が懸念されているのです。
東西南北の四地点のうち、実際に日本人が生活しているのは一ヶ所だけです。他の三地点の実際に日本人が生活している所となりますと、東端は北海道の納沙布岬、北端も北海道の宗谷岬、南端は沖縄県の波照間島になります。
何だか、スケールが小さくなった感もしないわけではありません。

しかし、我が国の国土、あるいは領土には、土地だけではなく、空にも海にも主権が及びます。
このうち、領空については、国土と領海の上空とされていますが、その高さの限界については諸説あり確定された条約もありません。ただ、宇宙空間は国家の主権は及ばないという条約があるようですが、この宇宙空間というのも判定が難しそうです。
現在、最も注目を浴びているのは、領海の存在です。領海は、海岸線から12海里(約22km)、その次の12海里は接続水域とされ、そして、海岸線から200海里(約370km)は排他的経済水域とされ、この地域の水産資源や海底資源などの優先権が認められているのです。もちろん、他国との重複や津軽海峡のような外国船の通過を優先させるようにされている海峡など、単純に線引きできるわけではないようですが、実は、この排他的経済水域が我が国は広大なのです。
我が国の陸地部分は約37万8千平方キロで世界で60番目位ですが、排他的経済水域の面積は、447万平方キロとされ、世界で6番目に躍り出るのです。

海域が広いからと言って喜んでいるだけでは仕方がありませんが、水産資源もさることながら、海底資源は膨大なものが期待されるというのです。しかも、わが国の領域には有望な地域が多いといわれているのです。
つい最近、南鳥島周辺には膨大なレアアースが存在されていると伝えられています。原油価格の低下で静かになっているようですが、メタンハイドレードは有望資源ですし、深海にはマンガン団塊が存在しており、熱水鉱床からは希少金属の採取が期待されます。
これからの百年、わが国の経済面の大きな鍵は、海洋資源の開発のような気がするのです。もしかすると、わが国の国家債務を解消させることが出来るのは、この資源の活用なのではないでしょうか。
ただ、魅力ある物は常に奪われる危険にさらされるものです。現に、水産資源も奪われていますし、排他的経済水域も浸食され、国土そのものさえ危険にさらされている所が多数あります。
輝ける我が国土、その魅力が増せば増すほど、私たちは、自らの領土を守る決意と備えを固める必要があると思うのです。

( 2018.06.25 )
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重い荷 軽い荷 ・ 小さな小さな物語 ( 1096 )

2018-11-19 14:43:57 | 小さな小さな物語 第十九部
最近、よく似た光景を三か所で見ました。
目的は、バードウォッチングなのか写真に撮ることなのかは知らないのですが、立派なカメラを持った人たちが、しきりに「トリ」を狙っている姿です。ほとんどの人が三脚を備えているので、思わず覗き込んでしまいます。

その一ヶ所は、ある有料の公園の池の周りで、その公園は、バラが有名な公園なのですが、その池は、バラ園からは離れていて普通は人影の少ない辺りなのです。その小さな池の一画に、立派な三脚が列をなしていたので聞いてみますと、「カワセミ」がやって来るのを狙っているらしいのです。よく姿を見せるらしいのですが、空振りの日もあるそうです。
もう一ヶ所は、やはり公園ですが、こちらは無料の大規模公園で城跡を中核としてスポーツ施設の多い公園です。ここでも、やはり人があまり行かないような木々が茂っている場所や内堀跡辺りに幾つもの三脚が見られます。この公園には、季節にもよるのでしょうが、かなり多くの種類の小鳥が見られるそうで、写真愛好家などには知られた場所だそうです。私が話した人は、「フクロウ」を狙っているといっていましたが、昼間は寝ているのではないでしょうかねぇ。
もう一ヶ所は、今年から見られる光景なのですが、わが家のすぐ近くの池に、「ヨシゴイ」とやらが飛来するようになり、いつやって来るか分からないトリを求めて、多くの人が三脚を並べています。
いずれも、趣味で楽しんでいる人たちだと思うのですが、実に粘り強い姿に感心してしまいます。

そう言えば、こちらは趣味ではありませんが、東京湾に鯨が姿を見せているということで、テレビ局は船を出して探し求め、ヘリコプターを飛ばすところも出てきています。一部の放送局は生映像が撮れたとはいえ、そうそう簡単ではないようです。むしろこちらは、狭い湾に迷い込んでしまった鯨がかわいそうな気がしないでもありません。
趣味であれ仕事であれ、何ごとにより忍耐力が大切なようです。

忍耐といえば、「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し」という徳川家康の言葉が連想されます。
この言葉は、比較的よく知られている言葉だと思われますが、家康という大人物が残したという背景があってこそ意味を持つ言葉で、安易に引用して使うと、少々軽くなってしまう恐れがある言葉といえます。
それに、重荷といっても、家康が背負っていた重荷と、私などが感じる重荷とは雲泥の差があるわけで、およそ格言といわれるような言葉には、背負っている荷物の軽重、歩いてきた道程等々により、その意味合いさえ変わってしまう可能性を持っています。名言であればあるほど、安易な引用には注意が必要なようです。
それはともあれ、背負っている荷が重い物であれ、軽い物であれ、趣味として一枚の写真を撮るのでさえ相当の忍耐が必要だとすれば、凡々たる時間を送っている私なども、自分の背負っている荷物の中身を確認してみる必要がありそうです。
そうそう、家康の言葉には、「急ぐべからず」が続いているのです。念の為。

( 2018.06.28 )
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究極の決断 ・ 小さな小さな物語 ( 1097 )

2018-11-19 14:42:14 | 小さな小さな物語 第十九部
サッカーワールドカップ、わが日本チームは見事に予選リーグを突破しました。
FIFAランキングでいえば、61位にある日本としては、予選リーグ突破は悲願であり、下馬評では決勝進出は相当難しいと予想されていたようです。
FIFAランキング1位のドイツが予選敗退するという番狂わせがありましたが、決勝トーナメントに進出したチームを見ますと、2位のブラジル以下3位ベルギー、4位ポルトガル、5位アルゼンチン、6位スイス、7位フランスと続き、ベスト16には16位以下の国が12入っていることを考えれば、61位の日本、70位のロシアの決勝進出は見事の一言に尽きます。

ところで、わが国の予選最終戦について、その戦いぶりについて様々な意見が出ているようです。
テレビを見ていて、私なども「どうしたんだ?」と一瞬戸惑いを感じました。しかし、最後の交代選手に長谷部選手を投入する段階では、西野監督は「究極の決断」を下していたのでしょう。あの段階で日本チームはさらに失点しそうな予感は私などでも感じましたし、セネガルとコロンビアの試合の状況については、単に点数だけではなくその後の優劣まで推し量って決断したものと推察されます。
この試合結果について、他国の報道や日本国内からも様々な意見が出ているようです。好意的なものより批判的なものが多いような気がします。たとえば、「我々はきれいに負けたが、日本は醜く勝った」と言ったようなものさえあります。サッカーワールドカップは全世界の膨大なフアンが注目しています。エンターテインメントであることは否定できませんので、世間受けする技も大切でしょうが、泥だらけになりながらも必死に勝利に向かう戦いこそ本道ではないでしょうか。
第三者の立場に立って、あれこれ意見を述べるのは自由ですが、残り時間がまだ10分あるあの段階で、予想される非難を一身に受け止める覚悟で、あれだけの決断ができる監督は他に何人いるのでしょうか。

昨今、スポーツに絡む不愉快な事件が多発しています。
それらの中には、選手間のいじめや暴力沙汰もありますが、組織なりチームなりの指導力に問題がある問題も他見されます。
スポーツの試合に限れば、今回のサッカーにおける監督ほど厳しい決断を迫られることは少ないかもしれませんが、監督たるもの、試合の中では、常に何らかの決断が迫られているはずです。最善の選択が出来ることはむしろ少なく、試行錯誤の連続に苦しんでいるのではないでしょうか。
そうした指導者のほとんどは、能力の優劣はともかくとして、チームの勝利に懸命なはずです。ところが、経験を積んだはずのベテラン指導者の中には、組織の上位に行けば行くほど、判断力がさび付いて見えることが少なくないのはどういうことなのでしょうか。

ひるがえって、私たちの日常においては、「究極の決断」を迫られることはそうそうないかもしれません。それでも、何らかの決断は常にしているものです。「特上にするか上にするか、いやいや並みで辛抱しよう」というのも決断を必要としていますし、「お風呂にしますか、食事にしますか」というのも、決断を迫られているといえばその通りなのかもしれません。いかにも他愛もない話かもしれませんが、日常生活においては、出来ることなら瞬時に判断しなくてはならないような「究極の決断」など勘弁願いたいものです。
やはり、そのような厳しい決断は、スポーツで観戦する方に回りたいものです。
さあ、次はベルギー戦です。決勝トーナメントに進出したチームだけが体験することが出来るすばらしい試合を、私たちは感謝の気持ちで応援しましょう。

( 2018.07.01 )
 
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木も森も大切 ・ 小さな小さな物語 ( 1098 )

2018-11-19 14:40:57 | 小さな小さな物語 第十九部
「木を見て森を見ず」という諺があります。比較的よく目にする言葉ですが、この言葉、本当はどういう意味を持っているのでしょうか。
というのは、これまで、何度もこの言葉に出あっていると思うのですが、今まで一度も、感動したり、納得した経験がなく、いわんや、誰かにこの言葉によって説得された事などないのです。

この言葉の意味についても、辞書などによって微妙に違うような気がするのです。
例えば、手元の辞書には、「細かい点に注意しすぎて、大きく全体をつかまない」とあり、別の物には、「小さい事に心を奪われて、全体を見通さないことのたとえ」とあり、「物事の一部分や細部に気を取られて、全体を見失うこと」というのもあります。
たとえばこの三つの説明、いずれも正しいのでしょうし、三つとも大体同じようにも思われます。しかし、言葉尻を捉えるわけではありませんが、この三つの説明は、その重点が少しずつ相違しているように思ってしまうのです。

さらにこの言葉を素直に受け入れられない理由は、何かの例えに用いた場合、その立場立場によって、「木」と「森」の位置付けが逆転してしまうことが少なくないという事にあります。
例えば、国会の論戦などを見ていますと、ある問題を繰り返し繰り返し応答が繰り返されることがよくありますが、その場合、一方は、ある問題(木)にとらわれ過ぎて天下国家(森)を論議しようとしないと主張するでしょうし、他方は、ある問題こそが森ではないか、と主張するでしょう。
また、野球チームに例えた場合、全体の戦略・戦術を練るのが「森」で、個々の選手の働きを「木」に当たると考えた場合、監督は、個人プレーを優先しすぎることを戒めるのにこの言葉を使うかもしれませんが、四番打者は、何で俺が送りバンドをするのか、と「木」こそが戦力だと主張するかもしれません。

この言葉の意味を考えるうえで、スポーツを例にするのは適当ではなかった気もしますが、やはり、「木を見て森を見ず」という言葉は、言葉としては面白い面もありますが、実生活に当てはめるのはなかなか難しいようです。
立派な森には立派な木が必要ですし、立派な木が育つためには森という環境が必要な気がします。社会全体あるいは将来の設計も必要ですが、目の前の生活が成り立たないことには社会も将来もあったものではありません。かと言って、その日だけを見つめて生きていくことも不幸なことです。
やはり私たちには、木も森も必要なのであって、木を見て森を見ないことは、悪い事でも稚拙な事てもなく、要は、そのバランスのあり方ではないでしょうか。

( 2018.07.04 )
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