雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

悲しみの日々 ・ 望月の宴 ( 138 )

2025-03-07 08:01:47 | 望月の宴 ④

     『 悲しみの日々 ・ 望月の宴 ( 138 ) 』


さて、この数日間というものは、そのままにされていた故一条院の御座所の儀式や有様は、これというほどでもない御調度をはじめ、変らぬようそのままにされていたので、在世中と同様であったが、今日からは、御座所をお念仏のための御仏のおわします所にして、僧などが出入りする姿も畏れ多く、何かにつけ悲しいことである。
念仏の声が、日が暮れる頃や、後夜(ゴヤ・一日を六分した最後で、夜半から朝までの間。)などは一段と胸にしみて聞こえ、あれこれと悲しいことばかり多くお過ごしのうちに、お庭先の撫子を人が折り取ってお持ちしたのを、宮の御前(彰子)の御硯瓶(硯に注ぐための水を入れる器。)に挿しておかれたところ、東宮(敦成親王、この時四歳。)がそれを取り散らされたので、宮の御前は、
『 見るままに 露ぞこぼるる おくれにし 心も知らぬ 撫子の花 』
 ( 見るにつけ 涙がこぼれます 亡き院に先立たれた この私の心も知らない 撫子の花のように無心の若宮を見ていると )
と、お詠みになった。
また、月がたいそう明るく照って、故院の御座所であった所がはっきりと見えるので、宮の御前は、
『 影だにも とまらざりける 雲の上を 玉の台(ウテナ)と 誰かいひけん 』
 ( 亡き院の面影さえも とどめていない 雲の上(宮中と天上界を指している)を 玉の台(宝玉で飾られた楼閣)などと  誰が言ったのだろう )
と、お詠みになった。

いつしか御忌みも過ぎて、四十九日の御法事が一条院において行われた。その折の有様などは、今さらと思われるので省かせていただく。
宮がたのご様子はまことにおかわいそうである。
四十九日が終って、中宮(彰子)は枇杷殿(ビワドノ)にお移りになる。その折、藤式部(紫式部)は、
『 ありし世は 夢に見なして 涙さへ とまらぬ宿ぞ 悲しかりける 』
 ( 一条院のご在世中の世は 今となっては儚い夢であったと思うにつけ 涙が止まらないばかりか 御殿までお移りになることが 悲しい限りです )
と、詠んだ。

一品宮(イッポンノミヤ・定子出生の脩子内親王)は三条院にお移りになった。一の宮(定子出生の敦康親王)は別納(ベツノウ・一条院の東部分にある邸。)にお住まいである。
九月の頃に、弁の資業(スケナリ・従五位下右小弁兼東宮学士。一条院の入棺に奉仕した。)が一品宮に参上して、「山寺に先日出掛けましたが、岩陰の故院がいらっしゃいました所を拝見しましたが、感慨深く思いました」と言って、
『 岩陰の 煙を霧に 分きかねて その夕ぐれの 心地せしかな 』
 ( 一条院の葬送の地である岩陰に 立ち上る煙と霧との 見分けがつかず あの日の夕暮れのような 悲しい心地が致しました )
と、詠んだ。

一条院の御念仏、御読経は、一周忌が終るまで続けられるのであろう。
四十九日までの間は、同じように御忌に籠もっていらっしゃった故関白殿(道隆)の御子である僧都の君(隆円。伊周や定子らの末弟。)は退出なさって、飯室(イイムロ・権律師尋円)は引き続きそのまま残られたので、僧都の君のもとに歌を詠み送られた。
『 くりかえし 悲しきものは 君まさぬ 宿の宿守(モ)る 身にこそありけれ 』
 ( 重ね重ね 悲しいことは わが君のいらっしゃらない 宿の宿守りをしている この身であります )
僧都の君の御返しは、
『 君まさぬ 宿に住むらん 人よりも よその袂(タモト)は 乾くよもなし 』
 ( わが君がおいでにならない 宿に住んでいる 人よりも 遠くの他所からお偲びしている私の袂は 涙で乾く間もありません )

東宮(敦成親王)は、今は宮中にいらっしゃるので、中宮(彰子)はあれやこれやとお心を煩わせておいでの上に、東宮の御有様を案じる心配まで加わって、お気持ちの晴れることのない日をお過ごしである。

        ☆   ☆   ☆

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一条院の葬送 ・ 望月の宴 ( 137 )

2025-02-26 08:02:09 | 望月の宴 ④

     『 一条院の葬送 ・ 望月の宴 ( 137 ) 』


こうして、数日間は御読経の声がしみじみと哀れに胸にしみて過ごしているうちに、御葬送は七月八日と定められた。
たいそう暑い時期に、意外に日時が過ぎたことを中宮(彰子)はたいそうご心配なさっている。このように御亡骸のままでいらっしゃることはうれしいことではあるが、おのずから限りのあることなので、哀れに思われることばかりである。
七月七日、明日はいよいよ御葬送であるからとて、按察大納言(アゼチノダイナゴン・藤原実資か?)から、
『 七夕を 過ぎにし君と 思ひせば 今日はうれしき 秋にぞあらまし 』
 ( 七夕の彦星を 故院だと 思うことができれば 今宵はお逢いできるうれしい 秋であるのに 悲しいことだ ) 
これに対して、右京命婦(一条院の女房らしい)の御返し、
『 侘(ワ)びつつも ありつるものを 七夕の ただ思ひやれ 明日いかにせん 』
 ( 悲しいながらも今日までは 御亡骸のお側にお仕えすることが出来ていましたが 七夕の星の気持ちになって お察し下さい 明日からの虚しい日々を )

こうして、八日の夕べ、岩陰(左大文字山の東麓。葬送の地。)という所にお移りになる。
葬送の儀式の有様は、例を見ないほどに厳めしく、それではこれが最後の行幸の御有様なのだと、人々は目を引き寄せられた。
殿の御前(道長)をはじめとして、すべての上達部、殿上人が後に残ることなくお供申し上げる。お着きになってからは、ご立派な葬送の御有様と申しても、はかなき雲霧とおなりになってしまわれては、何とも悲しい限りである。
秋の長い夜とはいえ、たちまちに明けたので、夜明け頃に御遺骨などを、帥宮(一の宮、敦康親王)や殿(道長)などがお拾いになって、それが終ると、大蔵卿正光朝臣(藤原兼通の子。道長とは従兄弟の関係。)が背負い申し上げてお帰りになる様子など、まことに悲しい。
お帰りになる途中も、人々の心は虚ろである。皆そろって一条院に夜深く(実際は午前十時頃であったらしい。)お入りになった。
高松の中将(頼宗。父は道長、母は高松殿明子)は、
『 いづこにか 君をば置きて かへりけん そこはかとだに 思ほえぬかな 』
 ( いったい何処に わが君を置いて 帰ってきたのだろう そこが何処だということさえ はっきり分らない 「そこはか=そこ墓」の掛詞になっている )
公信の内蔵頭(藤原為光の子。道長とは従兄弟の関係。)は、
『 かへりても 同じ山路を 尋ねつつ 似たる煙や 立つとこそ見め 』
 ( 帰ってくるにつけても 同じ山路を 尋ね尋ねして わが君の荼毘の煙のような煙が 立っていないか それを見たいものだ )
ああ何とも、悲しみの尽きない御事ばかりである。

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一条院崩御 ・ 望月の宴 ( 136 )

2025-02-17 08:02:04 | 望月の宴 ④

     『 一条院崩御 ・望月の宴 ( 136 ) 』


それにしても、上皇という高貴な御身に背いて出家なさったからには、さすがに効験があるだろうと誰もが期待していたが、四歳にして東宮にお立ちになり、七歳にして帝の位にお就きになられて以来、二十五年にもおなりになられたので、近代の帝でこれほど平安な世を保たれた例はないのである。
かの村上帝の御治世は、世にもめでたい例として二十一年間在位なさっていた。円融院の帝も、世にもめでたい御心の持ち主として、類いのない聖帝と申し上げていたが、その在位は十五年であったのにくらべ、このように長い間帝の位に就いていらっしゃったのだから、とてもすばらしいことだと世間の人々は取沙汰しているが、御病状はいよいよ重くなられ、寛弘八年( 1011 )六月二十二日の昼頃、遂に崩御なさったのである。

伺候されている殿上人、上達部、殿方たち、宮の御前(中宮彰子)、一の宮(敦康親王)、一品宮(イッポンノミヤ・脩子内親王)などのお悲しみの様子をすべて申し上げることなど出来ない。
殿の御前(道長)も、えもいわれぬ深い悲しみにおなりなどとと、とても言葉で表せるものではない。
たくさんの御修法の壇を壊し、僧たちが物を運び出して大声をあげている様子は実に騒々しく、さまざまに悲しみは深まるばかりである。

帝(三条天皇)の周辺では、わが世の訪れを日がさし昇るかのようにお思いであろうが、この一条院においては、すべてがかき曇り悲しみに閉じ込められているような有様であるが、東宮(彰子出生の敦成親王)のたいそう若く前途洋々なることだけがめでたきことと言える。
東宮は今年は四歳におなりであり、三の宮(東宮の弟、敦良親王)は三歳でいらっしゃる。父院崩御という悲しみも、特にどうということもないように、他のことに気を取られているご様子もまことにいたわしいことである。

一条院と中宮の御仲は、それは睦まじいものと噂されるほどであるが、既に住む世界を異になさったからには、しばしの間は御亡骸に付き添っていらっしゃったが、いつまでもというわけにもいかず、中宮もご自分のお部屋にお移りになった。
院の御部屋の飾り付けなどは、ふだんとすっかり様子を変えて、御殿油(オントナブラ)を御亡骸の近くにおつけして(悪霊を避けるため)、然るべき縁故の方々は遠く離れてお通夜の奉仕をなさっている有様は、世に比べるものとてない不吉なことである。

中宮は、人の世の哀れをこれまでにいつ経験なさったのであろうか、この度の院とのお別れによって初めてお知りになるのであろう。
入内なさった頃は、たいそうお若くていらっしゃったが、それから後、十二、三年にもなられるうちに、他に並ぶ者とてない御寵愛を受け、明け暮れ何事につけ帝のおそばでお慕い申し上げていらっしゃったのに、突然の崩御という大事を、どうして冷静に受け止めることなどできるはずもなく、その御悲嘆は無理からぬ事とお見受けされる。

一品宮は、十四、五歳ぐらいでいらっしゃるので、すべてを今はご承知なさっていて、たいそうお悲しみである。帥宮(ソチノミヤ・一の宮、敦康親王のこと。)は、まだお若くて(この時十三歳)いらっしゃるが、ご気性は穏やかで、こちらが気が引けるほどご立派なお方であられるが、すべて事態をご承知なさっているご様子で、たいそう悲嘆にくれていらっしゃるのも道理と言える。
そして、そのお悲しみばかりでなく、東宮の位を異母弟の二の宮(敦成親王)に越えられてしまったことに落胆なさっていないはずがなく、あれやこれやとまことにおいたわしいことである。

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一条院の出家 ・ 望月の宴 ( 135 )

2025-02-08 08:02:01 | 望月の宴 ④

     『 一条院の出家 ・ 望月の宴 ( 135 ) 』


帝(一条天皇)は、御気分が悪く堪え難くていらっしゃるにつけても、宮の御前(彰子)をお側からお離しになさろうとしないので、中宮は片時も離れることなく付き添われている。帝は、まことにお苦しそうである。
御譲位は六月十三日である。
十四日からご容態が重くなられる。
若宮(彰子出生の敦成親王)が東宮にお立ちになった。世間の人は驚くこともなく、当然そうなるものと思っていたのだが、帝のご病気の間中、一の宮(定子出生の敦康親王。この時帥宮。)がお側を離れることなく付きっきりで御介抱申し上げていたので、その心中が推察され、おいたわしく、中宮(彰子)も合せる顔がないといったお気持ちでお顔を赤らめていらっしゃる。

一品宮(イッポンノミヤ・脩子内親王。敦康親王の姉。一品は皇族の最高位で、一条天皇の配慮が窺える。)もいろいろとお心を痛められているが、なかでも一の宮の御身がこのようになったことをひとしおお嘆きになっているに違いない。
東宮(敦成親王)の御事などは、中宮は帝のご容態や一の宮の胸中に思いが向かわれていて、まるで念頭にない様子なので、ひたすら殿(道長)があれこれとお忙しく、帝(三条天皇)、東宮、院(一条上皇)のもとに参上して手はずをお決めになられているが、まったく一手に仕切られている様は、信じられないほどのご幸運だと、めでたくお見受けする。

こうしているうちに、院のご容態はいよいよ重くなり、御髪(ミグシ)をお下ろしになられるとて、法性寺座主の院源僧都をお召しになって、出家にあたっての戒律や加護についての御誓言は、とても悲しいなどといった言葉で表すことは出来ない。
中宮は正体を失ったかのように涙にくれていらっしゃる。一の宮、一品宮なども悲痛なお気持ちでいらっしゃる。
こうして、御髪は六月十九日の辰の刻にすべて終えられて、すっかり変ったお姿におなりである。中宮は御涙を堰き止めることが出来ないでいらっしゃるが、その心中は察することが出来よう。

たとえ御法体になられても、御平癒なさるのであればたいそうめでたい御有様で、すばらしい第一の院であられるものを、すでに御存命さえおぼつかなくお見えになるのは悲しい限りである。
「この修法(ズホウ・病気平癒の加持祈祷。)などは、もう止めさせて下され。念仏などを聞かせて欲しい」と仰せになられたが、今はまだ、同じように平癒を願う御祈祷ばかりをお続けになる。

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敦成親王立太子へ ・ 望月の宴 ( 134 )

2025-01-30 07:59:43 | 望月の宴 ④

     『 敦成親王立太子へ ・ 望月の宴 ( 134 ) 』


東宮(居貞親王)の行啓がある。
十一日にお越しになられたが、大変立派な有様である。
一条院(内裏焼亡後は、一条院に内裏が置かれていた。)では、帝がいったいどうなるのだろうかと、その事ばかりに心を痛めているが、東宮方の殿上人などは、何の憂いもなさそうなのが、それが世間の常のことではあるが、世の悲哀は束の間に変るものではある。
そして、東宮がお越しになると、帝は御簾を隔ててご対面なさり、当面の事などをお申し上げになる。

世間では帝のご容態を実に大袈裟に噂しているが、たいそう清々しいご様子で様々なことをお申し上げになられるので、世間の噂は作り事ではなかったのかと、東宮はお思いになったことであろう。
「天皇の位もお譲り申すことになったからには、次の東宮には若宮(敦成親王)をお立てしようと思っています。道理に従えば帥宮(ソチノミヤ・第一皇子の敦康親王。帥宮に就いていた。)であるべきだとは思いますが、しっかりとした後見などありません。その他の政(マツリゴト)なども、長い間身近で仕えている者たちにご相談なさるよう、ご配慮なさるのがよろしいでしょう。自分は、たとえこの病気がよくなろうとも、出家の望みを遂げたいと思っています。また、そうしなくても、そう長くはないと思うのです」などと、あれこれとしんみりとお話申される。
東宮も御目を拭われたことであろう。
このようなお話があって、東宮はお帰りになった。

中宮(彰子)は、若宮(彰子出生の敦成親王)が東宮にお立ちになることが決まったことを、ふつうの人であれば手放しで喜ぶはずだが、この御方は、「帝は道理に従って東宮をお決めになりたいと思っておいでであり、あの帥宮(定子出生)も、いろいろあってもご自分が東宮に立つものと思っていたであろうに、このような世評に押されて、帝は自らのお考えをお変えになって、このようにお取り決めになられたのであろう。帥宮も、あれこれの事情があるとしても、この事を心の内でお嘆きであろうに、まことにお気の毒なことよ」などとお思いである。
若宮はまだたいそう幼く(この時四歳)ていらっしゃるので、みずからの御宿世に任せていらっしゃればよいものを、などとお思いになって、殿の御前(道長)にも、「やはり、この度の事は、何としてもこのような決定にはならないで欲しいと思います。あの帥宮のお心の内には、長年そのおつもりでいた事と違うことが、本当にお気の毒で仕方がありません」と、泣かんばかりに訴えられた。

殿の御前は、「まことに、たいそうお優しいお心遣いですねぇ。また、仰せになることが道理だと思いますが、帝がおいでになられて、当面のことについて細々と仰せになられるのを、『いけません。仰せになる事は間違っております。順序通りになさいませ』などと、お言葉を返すようなことは出来ません。世の中はまことに儚いものですから、このように、私が世にあるうちに若宮の立太子を拝見することが出来れば、この世に思い残すことはなくなり、後の世も憂いなく安心して向かえると思うのです」と申されたので、御娘である中宮としても、それも道理の事なので、それ以上反論なさることはなかった。

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一条天皇退位へ ・ 望月の宴 ( 133 )

2025-01-21 08:03:38 | 望月の宴 ④

     『 一条天皇退位へ ・ 望月の宴 ( 133 ) 』


まことに驚き入ったことに、帥宮(敦道親王。和泉式部と恋愛関係にある人物。)が思いがけなく、ほとんど患うこともなくお亡くなりになってしまわれたことは、なんとも哀れで悲しいことである。

今上(一条天皇)の一の宮(敦康親王。生母は定子。十二歳。)が元服なさったので、式部卿にとお思いであったが、それには東宮の一の宮(敦明親王)がすでに就いておられる。中務卿も東宮の二の宮(敦儀親王)がいらっしゃるので、ただ今のところ空席であるので、今上の一の宮を帥宮と申し上げることになった。
一の宮は、ご学才も深く、思慮も深くていらっしゃるにつけても、帝はたいそうお可愛がりになり、人知れず秘蔵っ子と思いになっていて、一品(イッポン・皇族の最高位)におさせになられた。それも、本来ならば、一の宮が跡を継ぐべきものを、しっかりとした御後見がない有様では、それは叶わぬ事と断念なさったことが、かえすがえすも残念な御宿命であることよと、悲しくお思いになられたのである。
中宮(彰子)は、帝のご様子を見奉って、何としても帝の御在位中に、ぜひともこの宮の御事を御意通りに実現させたいとのみ、お気にかけられていらっしゃった。

しかし、近頃では、帝は「何とか早く譲位したい」とお望みになり、仰せになられるので、中宮はたいそう心細いお気持ちである。
ところが、愛らしいお姿の宮たちが引き続いていらっしゃる有様を、行く末頼もしくめでたいことだと、世間の人々は取沙汰しているのだった。

こうして、帝は何とかして退位なさりたいとばかり仰せであるが、殿の御前(道長)はお聞き入れにならないうちに、いつもと違ってお苦しそうにしていらっしゃるので、どうしたことかと用心なさって、御物忌をなさった。
中宮も心穏やかならずお嘆きになられていたが、帝はいよいよお苦しさがひどくなられるようなので、これ以上重くおなりになってはと、万事御判断が出来るうちに、ぜひともご退位のことをとお思いである。
御物の怪なども、さまざまに現れるご様子である。この頃は、一条院(内裏が焼亡し仮御所に移られていた。)にお住まいであった。夏のことなので、元気な者でも楽でない季節なので、帝がたいそうお苦しそうになさっているのを、見奉る人々も気持ちが重く嘆かれている。
六月の七、八、九日頃のことである。

「今は、こうして退位しようと思うので、然るべき対応を執り行うように」と仰せになられるので、殿(道長)が御意を承って、東宮にご対面なさるのが先例になっているとして、そのつもりであられたが、次の東宮には帝は一の宮(敦康親王)をお立てになりたいとお考えであろうと、中宮のお心の中でもそのようにお決めになっていらっしゃったが、帝がお越しになって、東宮との対面のご準備をなさる。
世間の人々は、「いかなる結果になるのか」と、早く知りたいと取沙汰しているが、一の宮に近い方々は、「若宮(敦成親王)があのように頼もしく、たいそう立派な御仲から光り輝くようにお生まれになったからには、とても無視出来るものではなく、きっと若宮がお立ちになるだろう」との思いを述べ、またある者は、「いやいや、そうではあるまい。一の宮こそがお立ちになる」などと、推量し合っている。

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中関白家の姫たち ・ 望月の宴 ( 132 )

2025-01-12 08:17:36 | 望月の宴 ④

     『 中関白家の姫たち ・ 望月の宴 ( 132 ) 』


ところで、東宮(居貞親王)の一の宮を式部卿宮(敦明親王)と申されるが、広幡の中納言(藤原顕光)は現在では右大臣であるが、承香殿女御(ショウキョウデンニョウゴ・一条天皇女御元子)の御妹の中姫君(顕光の二女延子)に、この式部卿宮を婿にお迎えになった。
なんとまあ、古風な婚儀だと式部卿宮はお思いであったが、決してそれほどではなく、ごく無難な御有様であった。右大臣殿も若い頃からこれというほど目立つことはおありでなかったが、立派な方と評判の高かった閑院の大将(顕光の異母弟の朝光。兄を越えて昇進したが、45歳で正二位大納言で死去した。)は、大納言でお亡くなりになってしまったが、この殿は、このように長生きなさったので(この時67歳)、大臣にまでおなりになったのであるから、それも立派なことである。

式部卿宮は、この結婚にそれほど期待を寄せていらっしゃらなかったようだが、まったく思っていなかったほどに女君は美しく、ご気性も申し分なく、万事につけ不満もなく、夫婦の間の愛情は睦まじい様子なので、現在は、姉の承香殿女御をこの上ないお方として大切になさっていた父の大臣も、式部卿宮の北の方となった妹を大切なお方とお思いである。
式部卿宮も、もともとはたいそう浮気なお方でいらっしゃるが、この女君を、目下のところは心からお気に入られているので、まことに思いがけないことだと人々は取沙汰している。

かの帥殿(伊周)の大姫君のもとには、現在の大殿(道長)の高松殿(明子)がお生みになった三位の中将(頼宗)がお通いになっているとか、世間で噂されている。別に悪いことではないが、殿(伊周)がお考えの戒めには添わないことではある。
中将はたいそう好色なお方で、お見受けした女性をそのまま見過ごすことがないといった具合で、あちらこちらの御方々に仕える女房などにも声をかけたり、子さえお生ませなったりされているが、この大姫君のもとにお通いになり始めてからは、これまでとはまるで違うお心持ちのようだが、やはり、折々に他の女性との密会が止まないのは、どうも好感が持てないことである。
それでも、真剣にこの大姫君を愛していらっしゃって、一心にお尽くしになられたので、お仕えしている女房方は感激して涙し、姫君自身も手厚い心遣いに気後れなさるほどであった。
母北の方は、もともと中の君の方を可愛がっていらっしゃったので、何事につけ大姫君の婿殿には関心が薄いようにお見受けされた。

中の君には、中宮(彰子)から度々の出仕へのお誘いがあったが、亡き父帥殿(伊周)のご遺言が次々と破られていくことが悲しく、ただ今はとてもその気になれないご様子だが、見苦しくない程度の宮仕えならば応じてもよいかとお思いになっており、お労しいこととお見受けされる。
哀れなるこの世の中は、寝ている間に見る夢にも劣らぬ有様である。

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若宮たちの成長 ・ 望月の宴 ( 131 )

2025-01-03 07:59:16 | 望月の宴 ④

     『 若宮たちの成長 ・ 望月の宴 ( 131 ) 』


さて、小一条大将(藤原済時)の中の君と申し上げるお方は、宣耀殿女御(センヨウデンノニョゥゴ・娍子)の御妹君で、父の殿も母の北の方も、この女君の御身の振り方を、どうともなさらないうちにお亡くなりになったので、なんとか姉の女御殿に劣らぬような御身の上になりたいとお考えになって、ご自身の意志で、東宮の御弟の帥宮(ソチノミヤ・冷泉天皇の第四皇子敦道親王)に意中をお伝え申し上げ、やがて、帥宮はこの女君を南院にお迎えになられたが、年月を経るにつれてお気持ちが冷めていき、和泉守道貞の妻(和泉式部のことで、その熱愛ぶりは『和泉式部日記』に記録されている。)に夢中になり、この女君を振り向きもしないというお扱いになり、居づらくなったため小一条の祖母北の方(祖父の妻、藤原定方の娘。)の御許にお帰りになってしまった。

ところが、東宮も宣耀殿女御も、「この二人のことを、こちらが口をきいて仲立ちしていれば、どれほど聞きづらい事だったか。知らぬ事なので、気持ちが楽だ」とお思いになり口にもなさった。
御幸いのほどは、同じご姉妹とは見えないほどである。
和泉式部のことは、故弾正宮(敦道親王の兄の為尊親王)もたいそう熱愛なさっていらっしゃったので、帥宮も故兄宮の後を受け継いでいらっしゃるのだろう。
故関白殿(道隆)の三の君である帥宮の北の方も、一条辺りで納得出来ない有様でお過ごしである。また、小一条の中の君も、どうなることかと世間で噂されているようである。

こうしているうちに、六条の宮(具平親王。村上天皇の第七皇子。長女が頼通の室。)がお亡くなりになったので、左衛門督殿(頼通)がすべてお世話申し上げるのもお心通りであり、感に堪えない御事であった。

ところで、花山院が崩御なさったので、一条殿の四の君(為光の四女。花山院の妾だった。)は、鷹司殿に移り住んでいらっしゃったが、殿の上(道長の室・倫子)が何度もお便りなさって、御邸にお迎えして、姫君のお相手役にお付け申されたが、殿(道長)が万事につけお世話申し上げていらっしゃったが、そのうちに情愛をお寄せになるようになっていった。
そして、家司などもみなお定めになって(正式な妻の一人として、世話をする担当者を定めた。)、正当な立場としてお扱いなされたので、然るべき有様で、何不自由なくお過ごしになったので、花山院の御時には、出家の御身で女性の許に通うのを不愉快に思われて、四の君のご兄弟たちも関知しない態度をなさっていたが、この度のことは良い事と大切に接せられている。

中宮(彰子)の若宮(敦成親王)は、たいそう可愛らしくなられて、あちこちと走り回られている。今年三歳におなりである。
四月には、殿(道長)が一条に設けられた御桟敷で、若宮に賀茂祭の行列をお見せになられた。
たいそうふっくらとして色白で愛らしく美しいので、斎院(選子内親王。村上天皇皇女。)が前をお通りになるとき、大殿(道長)は、ご覧になられますか、と若宮をお抱きになって、桟敷の御簾をかかげていらっしゃると、斎院の御輿の帷(カタビラ)の間から、御扇を差し出されなさったのは、若宮をご覧になられたのであろう。

やがて日が暮れたので、翌日に斎院から、
『 光いづる あふひのかげを 見てしかば 年経にけるも うれしかりける 』
とあり、御返しとして殿の御前は、
『 もろかづら 双葉ながらも 君にかく あふひや神の しるしなるらん 』
とお申し上げになった。

若宮と今宮(敦良親王)が、続いて走り回っていらっしゃるのを、並々ならぬ功徳を積まれた御身とお見えになる。その母である中宮を、殿はたいそう貴いお方とお思いであるが、当然のことと思われる。

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伊周の薨去 ・ 望月の宴 ( 130 )

2024-12-25 07:59:57 | 望月の宴 ④

     『 伊周の薨去 ・ 望月の宴 ( 130 ) 』


寛弘七年( 1010 )正月二十九日、前太宰帥正二位藤原朝臣伊周薨去。御年三十七歳であられた。
この姫君や少将(長子道雅)などは、決して望みをお捨てにならなかっただけに、ただ打ちのめされて、茫然となさっている。
ひたすらに、ご自分も死に後れまいと泣き惑われているが、その甲斐があるのではあればともかく、まことにお労しいことと申し上げるのも、通り一遍に過ぎる。
実際、こうしてお亡くなりになるような御年でもないものを、このようにあっけなくお亡くなりになってしまわれたのは、長年いくら何でもこのままでは終われないと、中関白家の再興を定子皇后所生の敦康親王を頼りとしてきたものを、彰子中宮に若宮、今宮と二人の皇子が、天に輝く日月の如く誕生なさったので、まったく打つ手がなくなり、今となっては「こういう定めだったのだ」と気落ちなさったためにご病気となり、御命を縮めてしまわれたのであろうか。

帥殿の君達(キンダチ・道雅)はもとよりのこと、中納言(隆家)や、頼親の内蔵頭(伊周の異母兄らしい。)、周頼の中務大輔(伊周の異母弟らしい。)などという人たちは、帥殿のご兄弟たちで、哀れに思いお嘆きである。
一品宮(イッポンノミヤ・脩子内親王)や一の宮(敦康親王)などのご様子も、その哀れなことは推察するにも余りある。
「ああ、何と痛ましい世の中であろうか。悲運の上にこのようにお亡くなりになってしまわれるとは」などと、人々は取沙汰している。

中納言は、いっそう世の中を憂きものとお思いになるにつけても、僧都の君(隆円。伊周の同母弟。)とお話し合いになりながら、やはり世を捨ててしまいたいとばかり申されている。
この辛い世の中に、今はただ、ご自分のことのみ考えたいご心境であるのに、いざ決断するにあたっては、遠資(トオヨリ・正四位兼資のこと。従三位参議源惟正の子。)の娘との間に生れた女君たちの哀れさを思うと、すべてを捨てることが出来ないのも哀れである。


権力の頂点で君臨した伊周の父藤原道隆が亡くなると、中関白家は没落の道へと向かいました。
一条天皇の深い愛情を受けていた定子中宮(後に皇后)も、そのわずか五年ばかり後に世を去りました、享年は二十四歳という若さでした。
そして今、一時は道長と覇権を争った伊周も、望みを絶たれて三十七歳で生涯を終えました。
道隆が没して、わずか十五年後のことで、浮き世とは申せ、今生の儚さを感じさせられる出来事でございました。

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中関白家の人々 ・ 望月の宴 ( 129 )

2024-12-16 07:58:52 | 望月の宴 ④

     『 中関白家の人々 ・ 望月の宴 ( 129 ) 』


中納言殿(伊周の弟、隆家。)は、帥殿(中関白家嫡男の伊周。)が末期の病床で語り続ける姿を哀れに聞きながら、思案に余られて、
「どうして、そう情けないことばかりお考えになられるのですか。確かに、おっしゃることはその通りではありますが、どうして誰もが、それほどに惨めなことになりましょう」などと、激しくお泣きになると、帥殿は、「そなたをこそ、長年子供のように思ってきたが、このように私もそなたも不運のまま終ってしまうことが悲しく残念でならない。道雅(伊周の長子、松君。)のことをよく言い聞かせて導いて下さい」などと、さまざま繰り返してお泣きになる。

一品宮(イッポンノミヤ。脩子内親王)、一の宮(敦康親王。共に故定子皇后の御子で、伊周の姪・甥にあたる。)も、帥殿のご容態をどのようになるのかと思い心を痛めていらっしゃるが、いつしか正月も二十日余りになると、世間は司召(ツカサメシ・正月の地方官の除目)ということで、馬や牛車の往来が多くなり、殿方が宮中に参られるなどの噂が聞こえてくるのも、このご一族にはまことに哀れである。

大姫君は、現在十七、八歳ばかりで、御髪は細やかでたいそう美しく、背丈より四、五寸も余っている。ご容姿も優れ、お心ばえも親しみ深くいじらしげで、お肌もたいそう美しく、白い衣を重ねた上に紅梅の固文の織物をお召しになり、濃い紅の袴を着ていらっしゃるが、しみじみとしてとても愛らしい。
中姫君は、十五、六歳ばかりで、大姫君より少しばかり大柄で、とても落ち着きがあって重々しく、何とお美しいお方よとお見えになり、御髪はお身丈に三寸ばかり足らないほどで、たいそうふさやかで、ますますお見事になられることであろう。色々の御衣を柔らかに重ねられているのは、元日の御装束をそのまま着ならしたかに見える。
いずれも、たいそうしみじみとした美しいお姿であられるが、母の北の方は小柄で、おっとりとしたご様子は、まるで今二十歳余りかとお見えになる。それもまた、たいそうお美しくあられる。

蔵人少将(道雅)は、たいへん肌の色合いが美しく、顔つきも美しく、考えられる限りの美しさで、まるで絵に描いた男性さながらの様子で、香色(薄い赤に黄色みを帯びた色。)に薄物の青い裏を重ねた狩衣に、濃い紫の固文の指貫を着て、紅の打衣(ウチギヌ・狩衣の下に着る衣)を着ていらっしゃる。もともと肌色の美しいお方だが、たいそうお泣きになったので、お顔が赤らんでる。

帥殿も、その容姿といい、学問の素養も、世間の上達部に抜きんでていると噂されてきたが、中関白家の没落に伴うご心労に、太り気味でどっしりとしたお体をなさっていたのが、ここ数か月のお患いで、多少ほっそりなさっているが、お顔色などはまったくお変わりになっていないのが、周りの人々は恐ろしいことと取沙汰なさっている。
この姫君たちがいらっしゃるので、みっともないようにと、御烏帽子をしっかりと被って横になっていらっしゃる。
まだ若い女房が四、五人ばかり、薄色の褶(シビラ・地位の低い女房が着用する簡略な裳。)を申し訳程度に腰に着けている。
立派なご一族に見守られながらも、何事にもしんみりとしていて、哀れな風情である。

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