雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

敦成親王立太子へ ・ 望月の宴 ( 134 )

2025-01-30 07:59:43 | 望月の宴 ④

     『 敦成親王立太子へ ・ 望月の宴 ( 134 ) 』


東宮(居貞親王)の行啓がある。
十一日にお越しになられたが、大変立派な有様である。
一条院(内裏焼亡後は、一条院に内裏が置かれていた。)では、帝がいったいどうなるのだろうかと、その事ばかりに心を痛めているが、東宮方の殿上人などは、何の憂いもなさそうなのが、それが世間の常のことではあるが、世の悲哀は束の間に変るものではある。
そして、東宮がお越しになると、帝は御簾を隔ててご対面なさり、当面の事などをお申し上げになる。

世間では帝のご容態を実に大袈裟に噂しているが、たいそう清々しいご様子で様々なことをお申し上げになられるので、世間の噂は作り事ではなかったのかと、東宮はお思いになったことであろう。
「天皇の位もお譲り申すことになったからには、次の東宮には若宮(敦成親王)をお立てしようと思っています。道理に従えば帥宮(ソチノミヤ・第一皇子の敦康親王。帥宮に就いていた。)であるべきだとは思いますが、しっかりとした後見などありません。その他の政(マツリゴト)なども、長い間身近で仕えている者たちにご相談なさるよう、ご配慮なさるのがよろしいでしょう。自分は、たとえこの病気がよくなろうとも、出家の望みを遂げたいと思っています。また、そうしなくても、そう長くはないと思うのです」などと、あれこれとしんみりとお話申される。
東宮も御目を拭われたことであろう。
このようなお話があって、東宮はお帰りになった。

中宮(彰子)は、若宮(彰子出生の敦成親王)が東宮にお立ちになることが決まったことを、ふつうの人であれば手放しで喜ぶはずだが、この御方は、「帝は道理に従って東宮をお決めになりたいと思っておいでであり、あの帥宮(定子出生)も、いろいろあってもご自分が東宮に立つものと思っていたであろうに、このような世評に押されて、帝は自らのお考えをお変えになって、このようにお取り決めになられたのであろう。帥宮も、あれこれの事情があるとしても、この事を心の内でお嘆きであろうに、まことにお気の毒なことよ」などとお思いである。
若宮はまだたいそう幼く(この時四歳)ていらっしゃるので、みずからの御宿世に任せていらっしゃればよいものを、などとお思いになって、殿の御前(道長)にも、「やはり、この度の事は、何としてもこのような決定にはならないで欲しいと思います。あの帥宮のお心の内には、長年そのおつもりでいた事と違うことが、本当にお気の毒で仕方がありません」と、泣かんばかりに訴えられた。

殿の御前は、「まことに、たいそうお優しいお心遣いですねぇ。また、仰せになることが道理だと思いますが、帝がおいでになられて、当面のことについて細々と仰せになられるのを、『いけません。仰せになる事は間違っております。順序通りになさいませ』などと、お言葉を返すようなことは出来ません。世の中はまことに儚いものですから、このように、私が世にあるうちに若宮の立太子を拝見することが出来れば、この世に思い残すことはなくなり、後の世も憂いなく安心して向かえると思うのです」と申されたので、御娘である中宮としても、それも道理の事なので、それ以上反論なさることはなかった。

       ☆   ☆   ☆

 

 

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一条天皇退位へ ・ 望月の宴 ( 133 )

2025-01-21 08:03:38 | 望月の宴 ④

     『 一条天皇退位へ ・ 望月の宴 ( 133 ) 』


まことに驚き入ったことに、帥宮(敦道親王。和泉式部と恋愛関係にある人物。)が思いがけなく、ほとんど患うこともなくお亡くなりになってしまわれたことは、なんとも哀れで悲しいことである。

今上(一条天皇)の一の宮(敦康親王。生母は定子。十二歳。)が元服なさったので、式部卿にとお思いであったが、それには東宮の一の宮(敦明親王)がすでに就いておられる。中務卿も東宮の二の宮(敦儀親王)がいらっしゃるので、ただ今のところ空席であるので、今上の一の宮を帥宮と申し上げることになった。
一の宮は、ご学才も深く、思慮も深くていらっしゃるにつけても、帝はたいそうお可愛がりになり、人知れず秘蔵っ子と思いになっていて、一品(イッポン・皇族の最高位)におさせになられた。それも、本来ならば、一の宮が跡を継ぐべきものを、しっかりとした御後見がない有様では、それは叶わぬ事と断念なさったことが、かえすがえすも残念な御宿命であることよと、悲しくお思いになられたのである。
中宮(彰子)は、帝のご様子を見奉って、何としても帝の御在位中に、ぜひともこの宮の御事を御意通りに実現させたいとのみ、お気にかけられていらっしゃった。

しかし、近頃では、帝は「何とか早く譲位したい」とお望みになり、仰せになられるので、中宮はたいそう心細いお気持ちである。
ところが、愛らしいお姿の宮たちが引き続いていらっしゃる有様を、行く末頼もしくめでたいことだと、世間の人々は取沙汰しているのだった。

こうして、帝は何とかして退位なさりたいとばかり仰せであるが、殿の御前(道長)はお聞き入れにならないうちに、いつもと違ってお苦しそうにしていらっしゃるので、どうしたことかと用心なさって、御物忌をなさった。
中宮も心穏やかならずお嘆きになられていたが、帝はいよいよお苦しさがひどくなられるようなので、これ以上重くおなりになってはと、万事御判断が出来るうちに、ぜひともご退位のことをとお思いである。
御物の怪なども、さまざまに現れるご様子である。この頃は、一条院(内裏が焼亡し仮御所に移られていた。)にお住まいであった。夏のことなので、元気な者でも楽でない季節なので、帝がたいそうお苦しそうになさっているのを、見奉る人々も気持ちが重く嘆かれている。
六月の七、八、九日頃のことである。

「今は、こうして退位しようと思うので、然るべき対応を執り行うように」と仰せになられるので、殿(道長)が御意を承って、東宮にご対面なさるのが先例になっているとして、そのつもりであられたが、次の東宮には帝は一の宮(敦康親王)をお立てになりたいとお考えであろうと、中宮のお心の中でもそのようにお決めになっていらっしゃったが、帝がお越しになって、東宮との対面のご準備をなさる。
世間の人々は、「いかなる結果になるのか」と、早く知りたいと取沙汰しているが、一の宮に近い方々は、「若宮(敦成親王)があのように頼もしく、たいそう立派な御仲から光り輝くようにお生まれになったからには、とても無視出来るものではなく、きっと若宮がお立ちになるだろう」との思いを述べ、またある者は、「いやいや、そうではあるまい。一の宮こそがお立ちになる」などと、推量し合っている。

       ☆   ☆   ☆

 

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中関白家の姫たち ・ 望月の宴 ( 132 )

2025-01-12 08:17:36 | 望月の宴 ④

     『 中関白家の姫たち ・ 望月の宴 ( 132 ) 』


ところで、東宮(居貞親王)の一の宮を式部卿宮(敦明親王)と申されるが、広幡の中納言(藤原顕光)は現在では右大臣であるが、承香殿女御(ショウキョウデンニョウゴ・一条天皇女御元子)の御妹の中姫君(顕光の二女延子)に、この式部卿宮を婿にお迎えになった。
なんとまあ、古風な婚儀だと式部卿宮はお思いであったが、決してそれほどではなく、ごく無難な御有様であった。右大臣殿も若い頃からこれというほど目立つことはおありでなかったが、立派な方と評判の高かった閑院の大将(顕光の異母弟の朝光。兄を越えて昇進したが、45歳で正二位大納言で死去した。)は、大納言でお亡くなりになってしまったが、この殿は、このように長生きなさったので(この時67歳)、大臣にまでおなりになったのであるから、それも立派なことである。

式部卿宮は、この結婚にそれほど期待を寄せていらっしゃらなかったようだが、まったく思っていなかったほどに女君は美しく、ご気性も申し分なく、万事につけ不満もなく、夫婦の間の愛情は睦まじい様子なので、現在は、姉の承香殿女御をこの上ないお方として大切になさっていた父の大臣も、式部卿宮の北の方となった妹を大切なお方とお思いである。
式部卿宮も、もともとはたいそう浮気なお方でいらっしゃるが、この女君を、目下のところは心からお気に入られているので、まことに思いがけないことだと人々は取沙汰している。

かの帥殿(伊周)の大姫君のもとには、現在の大殿(道長)の高松殿(明子)がお生みになった三位の中将(頼宗)がお通いになっているとか、世間で噂されている。別に悪いことではないが、殿(伊周)がお考えの戒めには添わないことではある。
中将はたいそう好色なお方で、お見受けした女性をそのまま見過ごすことがないといった具合で、あちらこちらの御方々に仕える女房などにも声をかけたり、子さえお生ませなったりされているが、この大姫君のもとにお通いになり始めてからは、これまでとはまるで違うお心持ちのようだが、やはり、折々に他の女性との密会が止まないのは、どうも好感が持てないことである。
それでも、真剣にこの大姫君を愛していらっしゃって、一心にお尽くしになられたので、お仕えしている女房方は感激して涙し、姫君自身も手厚い心遣いに気後れなさるほどであった。
母北の方は、もともと中の君の方を可愛がっていらっしゃったので、何事につけ大姫君の婿殿には関心が薄いようにお見受けされた。

中の君には、中宮(彰子)から度々の出仕へのお誘いがあったが、亡き父帥殿(伊周)のご遺言が次々と破られていくことが悲しく、ただ今はとてもその気になれないご様子だが、見苦しくない程度の宮仕えならば応じてもよいかとお思いになっており、お労しいこととお見受けされる。
哀れなるこの世の中は、寝ている間に見る夢にも劣らぬ有様である。

       ☆   ☆   ☆

 

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若宮たちの成長 ・ 望月の宴 ( 131 )

2025-01-03 07:59:16 | 望月の宴 ④

     『 若宮たちの成長 ・ 望月の宴 ( 131 ) 』


さて、小一条大将(藤原済時)の中の君と申し上げるお方は、宣耀殿女御(センヨウデンノニョゥゴ・娍子)の御妹君で、父の殿も母の北の方も、この女君の御身の振り方を、どうともなさらないうちにお亡くなりになったので、なんとか姉の女御殿に劣らぬような御身の上になりたいとお考えになって、ご自身の意志で、東宮の御弟の帥宮(ソチノミヤ・冷泉天皇の第四皇子敦道親王)に意中をお伝え申し上げ、やがて、帥宮はこの女君を南院にお迎えになられたが、年月を経るにつれてお気持ちが冷めていき、和泉守道貞の妻(和泉式部のことで、その熱愛ぶりは『和泉式部日記』に記録されている。)に夢中になり、この女君を振り向きもしないというお扱いになり、居づらくなったため小一条の祖母北の方(祖父の妻、藤原定方の娘。)の御許にお帰りになってしまった。

ところが、東宮も宣耀殿女御も、「この二人のことを、こちらが口をきいて仲立ちしていれば、どれほど聞きづらい事だったか。知らぬ事なので、気持ちが楽だ」とお思いになり口にもなさった。
御幸いのほどは、同じご姉妹とは見えないほどである。
和泉式部のことは、故弾正宮(敦道親王の兄の為尊親王)もたいそう熱愛なさっていらっしゃったので、帥宮も故兄宮の後を受け継いでいらっしゃるのだろう。
故関白殿(道隆)の三の君である帥宮の北の方も、一条辺りで納得出来ない有様でお過ごしである。また、小一条の中の君も、どうなることかと世間で噂されているようである。

こうしているうちに、六条の宮(具平親王。村上天皇の第七皇子。長女が頼通の室。)がお亡くなりになったので、左衛門督殿(頼通)がすべてお世話申し上げるのもお心通りであり、感に堪えない御事であった。

ところで、花山院が崩御なさったので、一条殿の四の君(為光の四女。花山院の妾だった。)は、鷹司殿に移り住んでいらっしゃったが、殿の上(道長の室・倫子)が何度もお便りなさって、御邸にお迎えして、姫君のお相手役にお付け申されたが、殿(道長)が万事につけお世話申し上げていらっしゃったが、そのうちに情愛をお寄せになるようになっていった。
そして、家司などもみなお定めになって(正式な妻の一人として、世話をする担当者を定めた。)、正当な立場としてお扱いなされたので、然るべき有様で、何不自由なくお過ごしになったので、花山院の御時には、出家の御身で女性の許に通うのを不愉快に思われて、四の君のご兄弟たちも関知しない態度をなさっていたが、この度のことは良い事と大切に接せられている。

中宮(彰子)の若宮(敦成親王)は、たいそう可愛らしくなられて、あちこちと走り回られている。今年三歳におなりである。
四月には、殿(道長)が一条に設けられた御桟敷で、若宮に賀茂祭の行列をお見せになられた。
たいそうふっくらとして色白で愛らしく美しいので、斎院(選子内親王。村上天皇皇女。)が前をお通りになるとき、大殿(道長)は、ご覧になられますか、と若宮をお抱きになって、桟敷の御簾をかかげていらっしゃると、斎院の御輿の帷(カタビラ)の間から、御扇を差し出されなさったのは、若宮をご覧になられたのであろう。

やがて日が暮れたので、翌日に斎院から、
『 光いづる あふひのかげを 見てしかば 年経にけるも うれしかりける 』
とあり、御返しとして殿の御前は、
『 もろかづら 双葉ながらも 君にかく あふひや神の しるしなるらん 』
とお申し上げになった。

若宮と今宮(敦良親王)が、続いて走り回っていらっしゃるのを、並々ならぬ功徳を積まれた御身とお見えになる。その母である中宮を、殿はたいそう貴いお方とお思いであるが、当然のことと思われる。

     ☆   ☆   ☆  

 

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伊周の薨去 ・ 望月の宴 ( 130 )

2024-12-25 07:59:57 | 望月の宴 ④

     『 伊周の薨去 ・ 望月の宴 ( 130 ) 』


寛弘七年( 1010 )正月二十九日、前太宰帥正二位藤原朝臣伊周薨去。御年三十七歳であられた。
この姫君や少将(長子道雅)などは、決して望みをお捨てにならなかっただけに、ただ打ちのめされて、茫然となさっている。
ひたすらに、ご自分も死に後れまいと泣き惑われているが、その甲斐があるのではあればともかく、まことにお労しいことと申し上げるのも、通り一遍に過ぎる。
実際、こうしてお亡くなりになるような御年でもないものを、このようにあっけなくお亡くなりになってしまわれたのは、長年いくら何でもこのままでは終われないと、中関白家の再興を定子皇后所生の敦康親王を頼りとしてきたものを、彰子中宮に若宮、今宮と二人の皇子が、天に輝く日月の如く誕生なさったので、まったく打つ手がなくなり、今となっては「こういう定めだったのだ」と気落ちなさったためにご病気となり、御命を縮めてしまわれたのであろうか。

帥殿の君達(キンダチ・道雅)はもとよりのこと、中納言(隆家)や、頼親の内蔵頭(伊周の異母兄らしい。)、周頼の中務大輔(伊周の異母弟らしい。)などという人たちは、帥殿のご兄弟たちで、哀れに思いお嘆きである。
一品宮(イッポンノミヤ・脩子内親王)や一の宮(敦康親王)などのご様子も、その哀れなことは推察するにも余りある。
「ああ、何と痛ましい世の中であろうか。悲運の上にこのようにお亡くなりになってしまわれるとは」などと、人々は取沙汰している。

中納言は、いっそう世の中を憂きものとお思いになるにつけても、僧都の君(隆円。伊周の同母弟。)とお話し合いになりながら、やはり世を捨ててしまいたいとばかり申されている。
この辛い世の中に、今はただ、ご自分のことのみ考えたいご心境であるのに、いざ決断するにあたっては、遠資(トオヨリ・正四位兼資のこと。従三位参議源惟正の子。)の娘との間に生れた女君たちの哀れさを思うと、すべてを捨てることが出来ないのも哀れである。


権力の頂点で君臨した伊周の父藤原道隆が亡くなると、中関白家は没落の道へと向かいました。
一条天皇の深い愛情を受けていた定子中宮(後に皇后)も、そのわずか五年ばかり後に世を去りました、享年は二十四歳という若さでした。
そして今、一時は道長と覇権を争った伊周も、望みを絶たれて三十七歳で生涯を終えました。
道隆が没して、わずか十五年後のことで、浮き世とは申せ、今生の儚さを感じさせられる出来事でございました。

       ☆   ☆   ☆

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中関白家の人々 ・ 望月の宴 ( 129 )

2024-12-16 07:58:52 | 望月の宴 ④

     『 中関白家の人々 ・ 望月の宴 ( 129 ) 』


中納言殿(伊周の弟、隆家。)は、帥殿(中関白家嫡男の伊周。)が末期の病床で語り続ける姿を哀れに聞きながら、思案に余られて、
「どうして、そう情けないことばかりお考えになられるのですか。確かに、おっしゃることはその通りではありますが、どうして誰もが、それほどに惨めなことになりましょう」などと、激しくお泣きになると、帥殿は、「そなたをこそ、長年子供のように思ってきたが、このように私もそなたも不運のまま終ってしまうことが悲しく残念でならない。道雅(伊周の長子、松君。)のことをよく言い聞かせて導いて下さい」などと、さまざま繰り返してお泣きになる。

一品宮(イッポンノミヤ。脩子内親王)、一の宮(敦康親王。共に故定子皇后の御子で、伊周の姪・甥にあたる。)も、帥殿のご容態をどのようになるのかと思い心を痛めていらっしゃるが、いつしか正月も二十日余りになると、世間は司召(ツカサメシ・正月の地方官の除目)ということで、馬や牛車の往来が多くなり、殿方が宮中に参られるなどの噂が聞こえてくるのも、このご一族にはまことに哀れである。

大姫君は、現在十七、八歳ばかりで、御髪は細やかでたいそう美しく、背丈より四、五寸も余っている。ご容姿も優れ、お心ばえも親しみ深くいじらしげで、お肌もたいそう美しく、白い衣を重ねた上に紅梅の固文の織物をお召しになり、濃い紅の袴を着ていらっしゃるが、しみじみとしてとても愛らしい。
中姫君は、十五、六歳ばかりで、大姫君より少しばかり大柄で、とても落ち着きがあって重々しく、何とお美しいお方よとお見えになり、御髪はお身丈に三寸ばかり足らないほどで、たいそうふさやかで、ますますお見事になられることであろう。色々の御衣を柔らかに重ねられているのは、元日の御装束をそのまま着ならしたかに見える。
いずれも、たいそうしみじみとした美しいお姿であられるが、母の北の方は小柄で、おっとりとしたご様子は、まるで今二十歳余りかとお見えになる。それもまた、たいそうお美しくあられる。

蔵人少将(道雅)は、たいへん肌の色合いが美しく、顔つきも美しく、考えられる限りの美しさで、まるで絵に描いた男性さながらの様子で、香色(薄い赤に黄色みを帯びた色。)に薄物の青い裏を重ねた狩衣に、濃い紫の固文の指貫を着て、紅の打衣(ウチギヌ・狩衣の下に着る衣)を着ていらっしゃる。もともと肌色の美しいお方だが、たいそうお泣きになったので、お顔が赤らんでる。

帥殿も、その容姿といい、学問の素養も、世間の上達部に抜きんでていると噂されてきたが、中関白家の没落に伴うご心労に、太り気味でどっしりとしたお体をなさっていたのが、ここ数か月のお患いで、多少ほっそりなさっているが、お顔色などはまったくお変わりになっていないのが、周りの人々は恐ろしいことと取沙汰なさっている。
この姫君たちがいらっしゃるので、みっともないようにと、御烏帽子をしっかりと被って横になっていらっしゃる。
まだ若い女房が四、五人ばかり、薄色の褶(シビラ・地位の低い女房が着用する簡略な裳。)を申し訳程度に腰に着けている。
立派なご一族に見守られながらも、何事にもしんみりとしていて、哀れな風情である。

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末期の病床の帥殿 ・ 望月の宴 ( 128 )

2024-12-07 08:01:19 | 望月の宴 ④

     『 末期の病床の帥殿 ・ 望月の宴 ( 128 ) 』


年も改まり、寛弘七年( 1010 )であるという。
万事例年通り行われ過ぎてゆくが、帥殿(ソチドノ・中関白家嫡男伊周)は今年になってからは、たいそうご病状が重くなって、ご臨終も今日か今日かとお見受けする。
回復を願う事々はこの幾月かにすべてし尽くしてしまったので、今はどうすればよいのかと思い嘆かれている。
実は、一昨年よりは、御封(ミブ・位階や官職によって与えられる封戸。)なども普通の大臣の規定によって受けられていらっしゃるが、諸国の国司も、てきぱきと滞りなく上納するのであればよいが、なかなかそうはいかないので、お気の毒である。(封戸から得られる収入は、国司が徴収して京に運ぶことになっているが、封主の力が弱いと国司が手抜きすることが多かった。)

御病状がたいそう重くなられたので、この姫君お二人と蔵人少将(嫡男の道雅)を並んで座らせ、北の方(伊周の妻、源重光の娘。)にお申し上げになる。
「私が亡くなってしまえば、そなたたちの進退はどうなるのであろう。私がこの世に生きている限りは、今は不遇であろうとも、何としてでも、女御や后のご身分にして差上げられぬこともあるまいと考えていて、大切にお育てしてきたが、命が絶えてしまうとなれば、そなたたちはどうなさるのだろうか。
今の世のこととして、高貴な帝の御娘や太政大臣の娘と言えど、みな宮仕えに出ているようだ。この姫たちを、ぜひと欲しがる人も多くなるだろう。それは他でもなく、この私にとって末代までの恥になることだと思ってな。姫を得ようとする男にしても、それが何々の宮とか、なんとかの御方からのお口添えだとか言ったりして迎え取り、それは故殿(自分のこと)が言い残したことだとか、こうした心遣いをして取り計らったのだなどと、世間でも取沙汰されるのだろう。
母君(伊周の妻を指す。)としても、この姫たちをしっかりとお世話できそうもない。どうして命のあるうちに、神や仏に『私が生きているうちに、姫たちを先立たせてくれ』と祈り請わなかったことが悔やまれてならない。と言って、尼にさせたりすれば、人からは馬鹿げたことと思われるだろうし、くだらない法師の道具にされて、妻になどされることになるのだろう。何と悲しいことか。
私が死んだ後で、笑いの種として人が笑うような行動をしたり、そのようなつもりになられたりすれば、必ずお恨みしますぞ。ゆめゆめ私が亡くなった後に不面目があってはならない。私を笑われ者にしてくれるなよ」と泣く泣く仰せられる。

大姫君も小姫君も、言い尽くせないほどの悲しみに涙を流されるあまり、茫然となさっている。
北の方も、お答えのなさりようもなく、ただ、よよとお泣きになる。
松君の少将などを、「とりわけ大切にして支援してきたが、位もこの程度なのを見捨てて死んでしまうとは。私に先立たれてどうするつもりなのか。男は才覚さえあれば世を渡ることが出来るとは思うが、それにしてもどういう風にするというのか。いやはや、世過ぎに難儀して、位階が人より劣るのを、等しくなろうと思って、世間の言うなりになったり、心にもない追従をしたり、名簿うち(ミョウブウチ・家人として従属するために権勢者に姓名などを書いた名札を提出すること。)したりなどすれば、片時たりとも世に生きていることを許さない。そのような事になるのであれば、すぐに出家して、山林に入るべきでなのだ」などと、泣きながら言い続けられるのを、松君の少将は、たいそう悲しいことだと途方に暮れていらっしゃる。
まことに無理からぬことで、悲しいなどという言葉では表すことが出来ない。

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二人の女御 ・ 望月の宴 ( 127 )

2024-11-28 08:00:39 | 望月の宴 ④

     『 二人の女御 ・ 望月の宴 ( 127 ) 』


ところで、宣耀殿女御(センヨウデンノニョウゴ・娍子)の御許には、故村上の帝が、かの昔の宣耀殿女御(藤原芳子。娍子の叔母にあたる。村上帝の寵愛を受けた。)の為にお仕立てになられた御道具としては、蒔絵の御櫛の筥一双が伝わっていて、今の宣耀殿女御の御許に伝えられているが、以前に東宮は、その中をご覧になってたいそう感銘を受けられたが、督の殿(妍子)がご持参になった御道具と比べてご覧になると、あちらの方はいかにも古風に感じられる。
実は、村上の先帝の様々な御心配りは、この世のどの帝の御心配りより優れていらっしゃったが、自らの御口で申されたり、筆で描いて示されたりして、造物所(蔵人所に属する道具類の製作所。)で制作した物を御覧になられては、作り直しを命じられたが、今度の物は格別に見事だと御覧になられるにつけても、時世に従って好みが変わり当世風の物に心が引かれるのかとお考えになられたが、やはり、この度の品々はまことに立派なので、殿(道長)の御心の並々ならぬことが察しられ、これほど立派なのだとお思いになられた。

あちらの御道具類は、数々の屏風には、ためうじ(人物未詳)や常則(飛鳥氏。宮廷に出入りしていた画家らしい。)などが絵を描き、道風(小野氏。書に優れ、三蹟の一人。)が色紙形に書き入れており、たいそう立派な物である。昔の物ではあるが、まだ新しい物のように塵ばむこともなく、きれいに使用されていたが、こちらの物は、弘高(巨勢氏。当代の代表的な画家。)が描いた数々の屏風に、侍従中納言(藤原行成。書に優れていた。)がお書きになったようである。
これらのどちらに劣り勝りがあろうかと、東宮はご自身の思案に余られては、殿や左衛門督(頼通)などが参上なさるのをお迎えして、お話しし判じられたりなさったが、お年もお召しになっているだけに、何事もよく承知されていて、用意した御道具などの良さをご理解なさっているので、恐縮して、ますます何事につけ東宮へのご配慮を格別になさっている。

督の殿付の女房たちは、まことに見事な身形や装束であって、実にすばらしい織物の唐衣を着て、豪勢な大海の摺り裳を一同が腰にまとい、扇を顔に差しかざして、そちらこちらに集まって、何事か話し合いながら笑っているのも、東宮は気恥ずかしく感じられ、こちらの御部屋にお渡りの折には、その為の御心配りをなさった。さりげない御衣の色合いや香の薫りなども、宣耀殿女御の方で立派に用意なさっておいでである。
帝や東宮と申し上げるお方は、年若くまだ子供っぽくいらっしゃるのを、格別のお方と人はお思い申し上げるのだが、この東宮はお年も召しておいでで、御有様も並々ならず、たいそう優美で物慣れなさり洗練されていらっしゃるので、こちらが気後れするようなことが多くおありだが、督の殿も他の女御方とは、ちょっとお召しになる御衣の袖口や褄の重なり具合などがたいそう美しくいらっしゃるので、殿の御前(道長)も、ますます力をお入れになって、衣装を重ねてお着せ申し上げているようである。

宣耀殿には、他人も近侍の人も、「どんな思いでいらっしゃるのだろう。安らかに御寝みになれるのだろうか」などと取沙汰申しているので、女御は、「この数年、このような事になるのが当然であったのに、そうならなかったので、東宮の御為にたいそう申し訳なく思っておりましたので、督の殿が参上なさった今は、安心してお見立て申しています」などと仰せになって、東宮のご装束を明け暮れご立派にお仕立てになり、御薫物なども常に調合なさって差し上げていらっしゃる。
東宮は、この女御をまるで母后のようにお思い申し上げておいでなのも、なるほどそうなのだとお見受けされる。
殿の上(道長の妻倫子)は、中宮(彰子)とこの女御(妍子)とを、全く手抜きなさることなく参上なさっているが、まことに申し分のない御有様である。

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妍子の東宮参入 ・ 望月の宴 ( 126 )

2024-11-19 08:22:00 | 望月の宴 ④

     『 妍子の東宮参入 ・ 望月の宴 ( 126 ) 』


さて、内裏も焼亡したので、帝は今内裏にお住まいである。東宮(居貞親王)は枇杷殿にいらっしゃる。
十二月になったので、督の殿(カミノトノ・尚侍のこと。道長の次女、妍子。)が東宮へ参入なさることになる。少し前からそのおつもりであったことなので、並々ならぬ儀式で参上なさる。
まことに驚くばかりの時世というのであろう、長年、殿(道長)にお仕えの方々の妻や娘なども皆加わって、大人四十人、童女六人、下仕え四人がお供する。督の殿の御有様をお話し続けるのも、いつもと同じようではあるが、とはいえ、少しは申し上げないわけにもいきますまい。

督の殿は、御年十六歳でいらっしゃる。このご姉妹は、皆様御髪が見事でいらっしゃるが、中でもこのお方は特に優れていらっしゃって、仰々しいほどに豊かでいらっしゃる。
東宮はとても満足なさっていて、たいそう大切にもてなし申される。宮中は、いっそう華やかさが増すことであろう。
お手回りの御道具類も、中宮(彰子)が入内なさったときには、輝く藤壺と、世間の人たちがもてはやされたが、この度の御参入の見事さも言い尽くすことが出来ない。
あれから十年ばかり経過しているので、どれくらい多くの事が変ったのか、そのほどを推し量って欲しい。

こうして、督の殿が参入なさったが、東宮はたいそうお年を召していらっしゃるので(居貞親王は、この時三十四歳。)、たいそう気恥ずかしく、もったいなくも思われて、様々なお心遣いは並大抵ではなかった。
長年、宣耀殿女御(センヨウデンノニョウゴ・藤原娍子。この時三十八歳。)を、またとないお方としてお扱いなさっていたが、驚くばかりにお若いお年なので、まるでわが姫宮(九歳と七歳。)たちを大切に可愛がられるかのようなお気持ちで接しておられるようにお見受けする。
数日お過ごしのうちに、しだいにお慣れになられるご様子も、いよいよ何ともいえず愛らしいお方だとお思いである。夜ごとの御宿直は言うまでもなく、昼の間も、今はもっぱらこの督の殿の御部屋にばかりいらっしゃる。

督の殿がお持ちになった御道具などを片端から開け広げて、御目を止めて一通り御覧になられ、これはこれはと、目を見はらせてすばらしいものと見入られていらっしゃる。
御櫛の筥の内のしつらいや、数々の小筥の中に入れてある物はもちろんのこと、殿の上(倫子)や君達(公達に同じ。妍子の男の兄弟を指している。)などが我も我もと競い合ってご用意した物なので、東宮は興味深くご覧になられる。
中宮(彰子)の入内の時の御道具も、殿(道長)はこのように御心づくしの品々を指図してご用意なさったのであろう。

     ☆   ☆   ☆

 

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敦良親王の誕生 ・ 望月の宴 ( 125 )

2024-11-16 08:07:24 | 望月の宴 ④

     『 敦良親王の誕生 ・ 望月の宴 ( 125 ) 』


こうしているうちに、中宮(彰子)のご懐妊のご様子は、御修法(ミズホウ)や御読経、様々な御祈祷、それほどでもない事なども、前回の例にならって、御指図なさったが、十一月二十五日になって産気づかれて、たいそう苦しげそうである。
例の聞きづらいほどの御祈祷など様々な声などが部屋中に満ちている。されど、御物の怪などの何の気配もない。
そうした事は安心していらっしゃれるのも、限りなくお尽くしになった御祈祷の効験であろう。たいそう平らかに、ほどなくして御子(敦良親王)がお生まれになった。

それからも、何よりも後産の御事がどうなるかと大騒ぎなさったが、それもほどなくお済みになった。まことにめでたいことだと思われてお喜びであるが、それも前に劣らぬ男御子の御誕生なので、殿の御前(道長)をはじめとして、これほどの慶事はあまりにも信じられなく、空言かとまでお思いになるほどであった。
帝におかれてもお耳になさって、早速に御剣(ミハカシ)を賜った。
すべて何事も、もっぱら前回の例を一つとして違うことなく引き合いになさる。女房の白装束などは、この度は冬なので、浮文・固文・織物・唐綾など、すべて言いようもなく立派である。この度は袴さえも白くしたので、こうあるべきだとばかりに、白妙の鶴の毛衣のようにめでたく、新宮の千歳のご寿命も推し量られる。

御湯殿の儀の有様などは、先の若宮(敦成親王)の時で分るはずなので、書き続けることはしない。
御文博士(読書博士。漢籍のめでたい一節を読む。)も同じ人(蔵人弁藤原広業)が参上した。すべてが全くすばらしく、何とも申し上げようがないほどである。
三日、五日、七日の御産養(ウブヤイナイ)などの御作法は、むしろ前回よりも盛大のように見受けられた。
この度は、行事にも慣れて、簡略になさることもなかった。

さて、帥殿(ソチドノ・伊周)は、このところしきりに水をお飲みになり、御食事などもどうされたのかと思うほどお召し上がりにならなくなり、とても以前の人のようではなくなり、お痩せになってしまわれた。
ご気分もたいそう苦しくお悩みのようである。ずっと、御斎(トキ・身を慎んで、勤行に励む生活を送っていた時のことを指す。)にてお過ごしの時は、たいそう太っていらっしゃったのが、いまは俗人の生活をなさっているのに、このようにお痩せになられたのをどうしたことかと、心細く思わざるをえないが、松君の少将(伊周の嫡男道雅。従四位下右近衛少将、十八歳。)のことが、万事につけ誰よりもご心配なさっているが、これからどうなるものかと、哀れに胸の詰まる思いで嘆かれているのも、まことに無理ならぬ事で、昔と違ってまるで変わり果てた中関白家の没落を、やるせなくお思いになるのも、まことにそうであろうとお見受けする。

帝におかれては、若宮(敦成親王)を恋しく思われるにつけても、今宮(敦良親王)をご覧になりたいお気持ちにつけても、「やはり、早々に宮中に参られよ」とばかり、中宮(彰子)にお申し入れなさる。

     ☆   ☆   ☆

 

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