『 伊周の薨去 ・ 望月の宴 ( 130 ) 』
寛弘七年( 1010 )正月二十九日、前太宰帥正二位藤原朝臣伊周薨去。御年三十七歳であられた。
この姫君や少将(長子道雅)などは、決して望みをお捨てにならなかっただけに、ただ打ちのめされて、茫然となさっている。
ひたすらに、ご自分も死に後れまいと泣き惑われているが、その甲斐があるのではあればともかく、まことにお労しいことと申し上げるのも、通り一遍に過ぎる。
実際、こうしてお亡くなりになるような御年でもないものを、このようにあっけなくお亡くなりになってしまわれたのは、長年いくら何でもこのままでは終われないと、中関白家の再興を定子皇后所生の敦康親王を頼りとしてきたものを、彰子中宮に若宮、今宮と二人の皇子が、天に輝く日月の如く誕生なさったので、まったく打つ手がなくなり、今となっては「こういう定めだったのだ」と気落ちなさったためにご病気となり、御命を縮めてしまわれたのであろうか。
帥殿の君達(キンダチ・道雅)はもとよりのこと、中納言(隆家)や、頼親の内蔵頭(伊周の異母兄らしい。)、周頼の中務大輔(伊周の異母弟らしい。)などという人たちは、帥殿のご兄弟たちで、哀れに思いお嘆きである。
一品宮(イッポンノミヤ・脩子内親王)や一の宮(敦康親王)などのご様子も、その哀れなことは推察するにも余りある。
「ああ、何と痛ましい世の中であろうか。悲運の上にこのようにお亡くなりになってしまわれるとは」などと、人々は取沙汰している。
中納言は、いっそう世の中を憂きものとお思いになるにつけても、僧都の君(隆円。伊周の同母弟。)とお話し合いになりながら、やはり世を捨ててしまいたいとばかり申されている。
この辛い世の中に、今はただ、ご自分のことのみ考えたいご心境であるのに、いざ決断するにあたっては、遠資(トオヨリ・正四位兼資のこと。従三位参議源惟正の子。)の娘との間に生れた女君たちの哀れさを思うと、すべてを捨てることが出来ないのも哀れである。
権力の頂点で君臨した伊周の父藤原道隆が亡くなると、中関白家は没落の道へと向かいました。
一条天皇の深い愛情を受けていた定子中宮(後に皇后)も、そのわずか五年ばかり後に世を去りました、享年は二十四歳という若さでした。
そして今、一時は道長と覇権を争った伊周も、望みを絶たれて三十七歳で生涯を終えました。
道隆が没して、わずか十五年後のことで、浮き世とは申せ、今生の儚さを感じさせられる出来事でございました。
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『 中関白家の人々 ・ 望月の宴 ( 129 ) 』
中納言殿(伊周の弟、隆家。)は、帥殿(中関白家嫡男の伊周。)が末期の病床で語り続ける姿を哀れに聞きながら、思案に余られて、
「どうして、そう情けないことばかりお考えになられるのですか。確かに、おっしゃることはその通りではありますが、どうして誰もが、それほどに惨めなことになりましょう」などと、激しくお泣きになると、帥殿は、「そなたをこそ、長年子供のように思ってきたが、このように私もそなたも不運のまま終ってしまうことが悲しく残念でならない。道雅(伊周の長子、松君。)のことをよく言い聞かせて導いて下さい」などと、さまざま繰り返してお泣きになる。
一品宮(イッポンノミヤ。脩子内親王)、一の宮(敦康親王。共に故定子皇后の御子で、伊周の姪・甥にあたる。)も、帥殿のご容態をどのようになるのかと思い心を痛めていらっしゃるが、いつしか正月も二十日余りになると、世間は司召(ツカサメシ・正月の地方官の除目)ということで、馬や牛車の往来が多くなり、殿方が宮中に参られるなどの噂が聞こえてくるのも、このご一族にはまことに哀れである。
大姫君は、現在十七、八歳ばかりで、御髪は細やかでたいそう美しく、背丈より四、五寸も余っている。ご容姿も優れ、お心ばえも親しみ深くいじらしげで、お肌もたいそう美しく、白い衣を重ねた上に紅梅の固文の織物をお召しになり、濃い紅の袴を着ていらっしゃるが、しみじみとしてとても愛らしい。
中姫君は、十五、六歳ばかりで、大姫君より少しばかり大柄で、とても落ち着きがあって重々しく、何とお美しいお方よとお見えになり、御髪はお身丈に三寸ばかり足らないほどで、たいそうふさやかで、ますますお見事になられることであろう。色々の御衣を柔らかに重ねられているのは、元日の御装束をそのまま着ならしたかに見える。
いずれも、たいそうしみじみとした美しいお姿であられるが、母の北の方は小柄で、おっとりとしたご様子は、まるで今二十歳余りかとお見えになる。それもまた、たいそうお美しくあられる。
蔵人少将(道雅)は、たいへん肌の色合いが美しく、顔つきも美しく、考えられる限りの美しさで、まるで絵に描いた男性さながらの様子で、香色(薄い赤に黄色みを帯びた色。)に薄物の青い裏を重ねた狩衣に、濃い紫の固文の指貫を着て、紅の打衣(ウチギヌ・狩衣の下に着る衣)を着ていらっしゃる。もともと肌色の美しいお方だが、たいそうお泣きになったので、お顔が赤らんでる。
帥殿も、その容姿といい、学問の素養も、世間の上達部に抜きんでていると噂されてきたが、中関白家の没落に伴うご心労に、太り気味でどっしりとしたお体をなさっていたのが、ここ数か月のお患いで、多少ほっそりなさっているが、お顔色などはまったくお変わりになっていないのが、周りの人々は恐ろしいことと取沙汰なさっている。
この姫君たちがいらっしゃるので、みっともないようにと、御烏帽子をしっかりと被って横になっていらっしゃる。
まだ若い女房が四、五人ばかり、薄色の褶(シビラ・地位の低い女房が着用する簡略な裳。)を申し訳程度に腰に着けている。
立派なご一族に見守られながらも、何事にもしんみりとしていて、哀れな風情である。
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『 末期の病床の帥殿 ・ 望月の宴 ( 128 ) 』
年も改まり、寛弘七年( 1010 )であるという。
万事例年通り行われ過ぎてゆくが、帥殿(ソチドノ・中関白家嫡男伊周)は今年になってからは、たいそうご病状が重くなって、ご臨終も今日か今日かとお見受けする。
回復を願う事々はこの幾月かにすべてし尽くしてしまったので、今はどうすればよいのかと思い嘆かれている。
実は、一昨年よりは、御封(ミブ・位階や官職によって与えられる封戸。)なども普通の大臣の規定によって受けられていらっしゃるが、諸国の国司も、てきぱきと滞りなく上納するのであればよいが、なかなかそうはいかないので、お気の毒である。(封戸から得られる収入は、国司が徴収して京に運ぶことになっているが、封主の力が弱いと国司が手抜きすることが多かった。)
御病状がたいそう重くなられたので、この姫君お二人と蔵人少将(嫡男の道雅)を並んで座らせ、北の方(伊周の妻、源重光の娘。)にお申し上げになる。
「私が亡くなってしまえば、そなたたちの進退はどうなるのであろう。私がこの世に生きている限りは、今は不遇であろうとも、何としてでも、女御や后のご身分にして差上げられぬこともあるまいと考えていて、大切にお育てしてきたが、命が絶えてしまうとなれば、そなたたちはどうなさるのだろうか。
今の世のこととして、高貴な帝の御娘や太政大臣の娘と言えど、みな宮仕えに出ているようだ。この姫たちを、ぜひと欲しがる人も多くなるだろう。それは他でもなく、この私にとって末代までの恥になることだと思ってな。姫を得ようとする男にしても、それが何々の宮とか、なんとかの御方からのお口添えだとか言ったりして迎え取り、それは故殿(自分のこと)が言い残したことだとか、こうした心遣いをして取り計らったのだなどと、世間でも取沙汰されるのだろう。
母君(伊周の妻を指す。)としても、この姫たちをしっかりとお世話できそうもない。どうして命のあるうちに、神や仏に『私が生きているうちに、姫たちを先立たせてくれ』と祈り請わなかったことが悔やまれてならない。と言って、尼にさせたりすれば、人からは馬鹿げたことと思われるだろうし、くだらない法師の道具にされて、妻になどされることになるのだろう。何と悲しいことか。
私が死んだ後で、笑いの種として人が笑うような行動をしたり、そのようなつもりになられたりすれば、必ずお恨みしますぞ。ゆめゆめ私が亡くなった後に不面目があってはならない。私を笑われ者にしてくれるなよ」と泣く泣く仰せられる。
大姫君も小姫君も、言い尽くせないほどの悲しみに涙を流されるあまり、茫然となさっている。
北の方も、お答えのなさりようもなく、ただ、よよとお泣きになる。
松君の少将などを、「とりわけ大切にして支援してきたが、位もこの程度なのを見捨てて死んでしまうとは。私に先立たれてどうするつもりなのか。男は才覚さえあれば世を渡ることが出来るとは思うが、それにしてもどういう風にするというのか。いやはや、世過ぎに難儀して、位階が人より劣るのを、等しくなろうと思って、世間の言うなりになったり、心にもない追従をしたり、名簿うち(ミョウブウチ・家人として従属するために権勢者に姓名などを書いた名札を提出すること。)したりなどすれば、片時たりとも世に生きていることを許さない。そのような事になるのであれば、すぐに出家して、山林に入るべきでなのだ」などと、泣きながら言い続けられるのを、松君の少将は、たいそう悲しいことだと途方に暮れていらっしゃる。
まことに無理からぬことで、悲しいなどという言葉では表すことが出来ない。
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『 二人の女御 ・ 望月の宴 ( 127 ) 』
ところで、宣耀殿女御(センヨウデンノニョウゴ・娍子)の御許には、故村上の帝が、かの昔の宣耀殿女御(藤原芳子。娍子の叔母にあたる。村上帝の寵愛を受けた。)の為にお仕立てになられた御道具としては、蒔絵の御櫛の筥一双が伝わっていて、今の宣耀殿女御の御許に伝えられているが、以前に東宮は、その中をご覧になってたいそう感銘を受けられたが、督の殿(妍子)がご持参になった御道具と比べてご覧になると、あちらの方はいかにも古風に感じられる。
実は、村上の先帝の様々な御心配りは、この世のどの帝の御心配りより優れていらっしゃったが、自らの御口で申されたり、筆で描いて示されたりして、造物所(蔵人所に属する道具類の製作所。)で制作した物を御覧になられては、作り直しを命じられたが、今度の物は格別に見事だと御覧になられるにつけても、時世に従って好みが変わり当世風の物に心が引かれるのかとお考えになられたが、やはり、この度の品々はまことに立派なので、殿(道長)の御心の並々ならぬことが察しられ、これほど立派なのだとお思いになられた。
あちらの御道具類は、数々の屏風には、ためうじ(人物未詳)や常則(飛鳥氏。宮廷に出入りしていた画家らしい。)などが絵を描き、道風(小野氏。書に優れ、三蹟の一人。)が色紙形に書き入れており、たいそう立派な物である。昔の物ではあるが、まだ新しい物のように塵ばむこともなく、きれいに使用されていたが、こちらの物は、弘高(巨勢氏。当代の代表的な画家。)が描いた数々の屏風に、侍従中納言(藤原行成。書に優れていた。)がお書きになったようである。
これらのどちらに劣り勝りがあろうかと、東宮はご自身の思案に余られては、殿や左衛門督(頼通)などが参上なさるのをお迎えして、お話しし判じられたりなさったが、お年もお召しになっているだけに、何事もよく承知されていて、用意した御道具などの良さをご理解なさっているので、恐縮して、ますます何事につけ東宮へのご配慮を格別になさっている。
督の殿付の女房たちは、まことに見事な身形や装束であって、実にすばらしい織物の唐衣を着て、豪勢な大海の摺り裳を一同が腰にまとい、扇を顔に差しかざして、そちらこちらに集まって、何事か話し合いながら笑っているのも、東宮は気恥ずかしく感じられ、こちらの御部屋にお渡りの折には、その為の御心配りをなさった。さりげない御衣の色合いや香の薫りなども、宣耀殿女御の方で立派に用意なさっておいでである。
帝や東宮と申し上げるお方は、年若くまだ子供っぽくいらっしゃるのを、格別のお方と人はお思い申し上げるのだが、この東宮はお年も召しておいでで、御有様も並々ならず、たいそう優美で物慣れなさり洗練されていらっしゃるので、こちらが気後れするようなことが多くおありだが、督の殿も他の女御方とは、ちょっとお召しになる御衣の袖口や褄の重なり具合などがたいそう美しくいらっしゃるので、殿の御前(道長)も、ますます力をお入れになって、衣装を重ねてお着せ申し上げているようである。
宣耀殿には、他人も近侍の人も、「どんな思いでいらっしゃるのだろう。安らかに御寝みになれるのだろうか」などと取沙汰申しているので、女御は、「この数年、このような事になるのが当然であったのに、そうならなかったので、東宮の御為にたいそう申し訳なく思っておりましたので、督の殿が参上なさった今は、安心してお見立て申しています」などと仰せになって、東宮のご装束を明け暮れご立派にお仕立てになり、御薫物なども常に調合なさって差し上げていらっしゃる。
東宮は、この女御をまるで母后のようにお思い申し上げておいでなのも、なるほどそうなのだとお見受けされる。
殿の上(道長の妻倫子)は、中宮(彰子)とこの女御(妍子)とを、全く手抜きなさることなく参上なさっているが、まことに申し分のない御有様である。
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『 妍子の東宮参入 ・ 望月の宴 ( 126 ) 』
さて、内裏も焼亡したので、帝は今内裏にお住まいである。東宮(居貞親王)は枇杷殿にいらっしゃる。
十二月になったので、督の殿(カミノトノ・尚侍のこと。道長の次女、妍子。)が東宮へ参入なさることになる。少し前からそのおつもりであったことなので、並々ならぬ儀式で参上なさる。
まことに驚くばかりの時世というのであろう、長年、殿(道長)にお仕えの方々の妻や娘なども皆加わって、大人四十人、童女六人、下仕え四人がお供する。督の殿の御有様をお話し続けるのも、いつもと同じようではあるが、とはいえ、少しは申し上げないわけにもいきますまい。
督の殿は、御年十六歳でいらっしゃる。このご姉妹は、皆様御髪が見事でいらっしゃるが、中でもこのお方は特に優れていらっしゃって、仰々しいほどに豊かでいらっしゃる。
東宮はとても満足なさっていて、たいそう大切にもてなし申される。宮中は、いっそう華やかさが増すことであろう。
お手回りの御道具類も、中宮(彰子)が入内なさったときには、輝く藤壺と、世間の人たちがもてはやされたが、この度の御参入の見事さも言い尽くすことが出来ない。
あれから十年ばかり経過しているので、どれくらい多くの事が変ったのか、そのほどを推し量って欲しい。
こうして、督の殿が参入なさったが、東宮はたいそうお年を召していらっしゃるので(居貞親王は、この時三十四歳。)、たいそう気恥ずかしく、もったいなくも思われて、様々なお心遣いは並大抵ではなかった。
長年、宣耀殿女御(センヨウデンノニョウゴ・藤原娍子。この時三十八歳。)を、またとないお方としてお扱いなさっていたが、驚くばかりにお若いお年なので、まるでわが姫宮(九歳と七歳。)たちを大切に可愛がられるかのようなお気持ちで接しておられるようにお見受けする。
数日お過ごしのうちに、しだいにお慣れになられるご様子も、いよいよ何ともいえず愛らしいお方だとお思いである。夜ごとの御宿直は言うまでもなく、昼の間も、今はもっぱらこの督の殿の御部屋にばかりいらっしゃる。
督の殿がお持ちになった御道具などを片端から開け広げて、御目を止めて一通り御覧になられ、これはこれはと、目を見はらせてすばらしいものと見入られていらっしゃる。
御櫛の筥の内のしつらいや、数々の小筥の中に入れてある物はもちろんのこと、殿の上(倫子)や君達(公達に同じ。妍子の男の兄弟を指している。)などが我も我もと競い合ってご用意した物なので、東宮は興味深くご覧になられる。
中宮(彰子)の入内の時の御道具も、殿(道長)はこのように御心づくしの品々を指図してご用意なさったのであろう。
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『 敦良親王の誕生 ・ 望月の宴 ( 125 ) 』
こうしているうちに、中宮(彰子)のご懐妊のご様子は、御修法(ミズホウ)や御読経、様々な御祈祷、それほどでもない事なども、前回の例にならって、御指図なさったが、十一月二十五日になって産気づかれて、たいそう苦しげそうである。
例の聞きづらいほどの御祈祷など様々な声などが部屋中に満ちている。されど、御物の怪などの何の気配もない。
そうした事は安心していらっしゃれるのも、限りなくお尽くしになった御祈祷の効験であろう。たいそう平らかに、ほどなくして御子(敦良親王)がお生まれになった。
それからも、何よりも後産の御事がどうなるかと大騒ぎなさったが、それもほどなくお済みになった。まことにめでたいことだと思われてお喜びであるが、それも前に劣らぬ男御子の御誕生なので、殿の御前(道長)をはじめとして、これほどの慶事はあまりにも信じられなく、空言かとまでお思いになるほどであった。
帝におかれてもお耳になさって、早速に御剣(ミハカシ)を賜った。
すべて何事も、もっぱら前回の例を一つとして違うことなく引き合いになさる。女房の白装束などは、この度は冬なので、浮文・固文・織物・唐綾など、すべて言いようもなく立派である。この度は袴さえも白くしたので、こうあるべきだとばかりに、白妙の鶴の毛衣のようにめでたく、新宮の千歳のご寿命も推し量られる。
御湯殿の儀の有様などは、先の若宮(敦成親王)の時で分るはずなので、書き続けることはしない。
御文博士(読書博士。漢籍のめでたい一節を読む。)も同じ人(蔵人弁藤原広業)が参上した。すべてが全くすばらしく、何とも申し上げようがないほどである。
三日、五日、七日の御産養(ウブヤイナイ)などの御作法は、むしろ前回よりも盛大のように見受けられた。
この度は、行事にも慣れて、簡略になさることもなかった。
さて、帥殿(ソチドノ・伊周)は、このところしきりに水をお飲みになり、御食事などもどうされたのかと思うほどお召し上がりにならなくなり、とても以前の人のようではなくなり、お痩せになってしまわれた。
ご気分もたいそう苦しくお悩みのようである。ずっと、御斎(トキ・身を慎んで、勤行に励む生活を送っていた時のことを指す。)にてお過ごしの時は、たいそう太っていらっしゃったのが、いまは俗人の生活をなさっているのに、このようにお痩せになられたのをどうしたことかと、心細く思わざるをえないが、松君の少将(伊周の嫡男道雅。従四位下右近衛少将、十八歳。)のことが、万事につけ誰よりもご心配なさっているが、これからどうなるものかと、哀れに胸の詰まる思いで嘆かれているのも、まことに無理ならぬ事で、昔と違ってまるで変わり果てた中関白家の没落を、やるせなくお思いになるのも、まことにそうであろうとお見受けする。
帝におかれては、若宮(敦成親王)を恋しく思われるにつけても、今宮(敦良親王)をご覧になりたいお気持ちにつけても、「やはり、早々に宮中に参られよ」とばかり、中宮(彰子)にお申し入れなさる。
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『 伊周に呪詛の疑い ・ 望月の宴 ( 124 ) 』
さて、尚侍殿(道長の次女妍子)が、東宮(居貞親王)の許に参内なさることが間近になって、お支度をお急ぎである。
このようにして、尚侍殿が参られることになるだろうことは、宣耀殿女御(センヨウデンニョウゴ・娍子。東宮女御でこの時三十八歳。)におかれては、当然こうなるべきことが今まで延びていただけなのだとお思いで、何もおっしゃらないので、「ほんとうにどうなっているのでしょうか。お気にも止めないのでしょうか」なとど、お仕えしている女房たちが噂しあっているが、宣耀殿女御は、「今はただ宮たち(すでに六人の皇子皇女がいた。)のお世話と、その隙には勤行をしようと思っていて、それでは東宮にはお気の毒なことなので、尚侍殿が参られることが良いこのなのだ」などとお思いになっていて、いかにも気にかけていないようになさっているが、やはり我慢なさっているのだが、そうした女御のお心で事態に差し障りがあるわけではないが、そうとは申せ、身分の賤しい者であっても身の程をわきまえず文句を言うものだが、この女御はなかなか無いご立派なお方と見受けられる。
こうして、中宮(彰子)の御事(懐妊)がこのようでいらっしゃるので、殿の御前(道長)は気が気でなくいらっしゃるうちに、いつしか秋になった。
二月以来ご懐妊であられたので、十一月にはご出産と思われていたので、たいそうもの騒がしく、尚侍の御参りは冬になってしまいそうだとお考えである。
こうしている間に、帥殿(ソチドノ・伊周)のあたりから、若宮(敦成親王)を悪し様に申し思っているといったことが最近出来(シュッタイ)して、たいそう聞きにくいことがたくさんあるようだ。まさか本当ではあるまいが、それにしても不都合な事が出てきて、帥殿はますます世の中がおもしろくなくなったとお嘆きである。
「明順(アキノブ・高階氏。伊周の母方の叔父で、伊周と親密であった。)が関わっていることだ」ということになり、大殿(道長)が明順を呼び寄せて、「このような不届きな心を持ってはならんぞ。若宮はこのように幼くていらっしゃるが、然るべき宿命を持ってお生まれになったのだから、四天王がお守り申し上げているだろう。凡人の我らごときであっても、人の憎しみを受けたとしても、そうそう死ぬなどあり得ないことだ。いわんや、並みの果報であれば人がどう言うか、どう思うかによって左右もされようが、格別の宿命をお持ちの若宮であるぞ、お前たちがこのような事をすれば天罰を受けよう。この我がとやかく言うことではないが」とだけ仰せになられたが、たいそう怖ろしく畏れ多いことと恐縮して、弁明申し上げることも出来ずに退出したのである。
その後、明順はそのまま気分が悪くなって、五、六日して死んでしまった。
こうした事もあって、帥殿はますます世間を憚るお気持ちが強くなられる。
同じ死だと言っても、明順が折の悪い時に亡くなってしまったことを、世間の人は、穏やかならぬ事を噂しており、帥殿はどれほどか世の中を生き抜きにくく、情けないものと心を乱しておいでのためか、御心地がふつうでないと思われて、食事などもふつうは進まないはずだが、返って常よりも頻繁にお召し上がりになるので、このただならぬ御有様を、北の方も帥殿ご本人も恐ろしいことだと思ってお嘆きである。
帥殿は、ここ数年の間お出歩きになることもなくなっていらっしゃるが、その間に、古今集・後撰集・拾遺集などをすべて書写本になさった。
このように、やはり並みの人より勝っていて、特に学才が限りなくおありだったからなのであろう。
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『 頼通の結婚 ・ 望月の宴 ( 123 ) 』
かの花山院に寵愛されていた四の御方(太政大臣故藤原為光の四女。)は、院がお亡くなりになったので、鷹司殿(四の御方のもともとの居所らしい?)に移られていたが、それを殿(道長)がお耳になさって、お側に召したいと思われていたが、四の御方が心を決めかねているうちに、殿の上(倫子)が家の女房にとお便りをなさったが、どういうわけからか、ご決心がつかないようである。
こうしているうちに、殿の左衛門督(道長の嫡男頼通)を、然るべき家柄の人々で、婿に迎えたいと意向を示す方々もあるが、まだどうともお決めにならないでいたところ、六条の中務宮(具平親王)と申されるのは、故村上の先帝の御七の宮で、生母は麗景殿女御(醍醐天皇の孫の荘子女王)である。その御方と、村上天皇の四の宮の式部卿為平親王と故源帥の大臣(ゲンノソチノオトド・源高明)の御娘との間に生れた中姫君との間にお生まれになった御子に、女宮が三人、男宮が二人いらっしゃいます。
その姫君(隆姫)は、それはそれは大切にお育てになられていて、まったく不足のないお家柄であり、中務宮のご気性なども、世間並みといったものではなく、たいそう学問に優れているあまりに、陰陽道も医術の方にも、万事驚くほどに極めていらっしゃる。さらに、作文(サクモン・漢詩を作ること)や和歌などの方面にも優れていらっしゃって、まことに奥ゆかしくご立派でいらっしゃる。
その中務宮が、この左衛門督殿を婿にと御心を寄せられていらっしゃるのを、大殿(道長)がお聞きになって、「まことに畏れ多いことである」と恐縮なさって、左衛門督に、「男の値打ちは妻次第なのだ。たいそう高貴な家に婿入りするべきなのであろう」と仰せになっているうちにも、内々に準備を進めていたので、縁組みも今日明日に迫った。
実は、中務宮は、姫君を入内させることを望んでいらっしゃったのだが、御宿世というものであろうか、心を決められて左衛門督を婿にお迎えになったのである。
その御有様は、まことに当世風であった。
女房二十人、童女、下仕え四人ずつで、万事においてたいそう奥深く心憎いまでの有様である。今風の普通に見られる香ではなく、まさにこれが古(イニシエ)の薫衣香(クノエコウ・衣服にたきしめる香。)などといって、実にすばらしいと言われているのは、この薫りなのだと、重ね重ね珍しいものだと思われる。
姫君(隆姫)の御年は十五、六歳ぐらいで、御髪(ミグシ)などは尚侍殿(ナイシノカミドノ・道長の次女妍子。後の三条天皇中宮で、髪が美しいことで知られていた。)の御有様にとてもよく似た風情であられ、とてもすばらしいご容姿と推察なさっていらっしゃるのだろう。
中務宮は、たいそうご満足でいらっしゃるとお見受けされる。
こうして数日が過ぎて、御露顕(トコロアラワシ・当時の結婚の披露。)となったので、お供として参上すべき人々を、殿の御前(道長)がみな選択しお決めになった。
その夜の有様は、いささかも不足するものとてなくご立派に行われた。
男君の御愛情のほどは、宮家の有様や御身分などのほどによって左右されるものではあるまいが、それにしてもお二人の御仲はまことにすばらしい。
中務宮は、まことに婿取りした甲斐があったと思って見守られている。婿君が六条の御邸に朝夕お通いになるにつけても、その途中で、百鬼夜行(鬼や妖怪が列をなして歩くことで、当時、出会うことを恐れていた。)の夜などにもたまたま遭うかもしれないと、たいそう心配なことだとお思いになって、上京の辺りに然るべきお住まいを計画なさっている。
中務宮は、今は何の心配もなくなったので、この機会に何とか出家の本意を遂げたいものとお思いである。
事に触れて、格別尊い御有様であられるので、然るべき折々に、また、めずらしい節会などにおいては、ぜひお会いしたいと帝は望んでおいでだが(一条帝は十六歳年長の具平親王を敬愛していたらしい。)、この度のことだけではないが、そのような事は中務宮は念頭においていない。まったく残念なことである。
☆ ☆ ☆
『 中宮彰子再び懐妊 ・ 望月の宴 ( 122 ) 』
こうしているうちに年が改まり、寛弘六年( 1009 )になった。
世間の様子に変わりはない。
若宮(敦成)はたいそう美しくお育ちになられるのを、帝(一条天皇)と中宮(彰子)の御なかに連れて遊ばせ奉っていらっしゃると、帝が仰せになられるには、「やはり、考えてみると、昔は宮中には幼い子を住まわせることはなく、宮たちがこのように可愛らしいのに、五つか七つになって初めて対面するとて大騒ぎしてきたが、今日では、あらゆる事の中で大変堪え難い事であろう。このように、見ても見ても飽かないものを、思いやりながらも遠く離れていることは何と辛いことだ。あの一の宮(定子所生の敦康親王)にずいぶん久しく会っていなかったが、その有様を人づてに聞いて、我ながら常軌を逸しているほど会いたくて仕方がなかった」などと、お気持ちを打ち明けられていらっしゃるのも、まことにご立派であられる。
こうして、正月も過ぎていった。
中宮は、お産のあと、そのまま幾月かあの障りがおありでなかったが、十二月の二十日の頃にほんのしるしばかり御覧になったままで、今年になってもこのように今までそのままなので、やはりお産のあとの名残だろうと思っていらっしゃったが、去年の今頃と同じご気分になられたので、どうしたことかと思われているうちに、おそばに仕えている女房たちも、「またご懐妊なさったに違いない」と、ひそひそお噂申し上げるので、別の女房たちは、「幾らも経たないのに、いつの間にそのような事がおありになろうか」と言う者もあり、またある者は、「そうしたものですよ。また続いて、同じように皇子がお生まれになることは、ええ、そうなりますとも、それはそれは、どんなにすばらしいことでしょう」などと申したり思ったりしている。
殿(道長)も上(倫子)もみなお聞きになって、朗報に気色立っていらっしゃる。
そうこう言い合っているうちに三月にもなると、あきらかにご懐妊のご様子におなりである。殿の御有様は言い表せないほどのお喜びようである。
そのうちにこの事は、自然と世間の噂となる。
長年お仕えしている女御たちは、この噂を聞いて何とも面目ないことだと自覚なさっているに違いない。右大臣(女御元子の父顕光。)や内大臣(女御義子の父公季。)は、「このような事があってよいのか。われらも同じ血筋(藤原北家で、師輔の公季は子、顕光と道長は孫。)ではないか。このような思いのほかのことが起こるのは恥ずべき宿世ゆえなのだ」と思わずにはいられないだろう。
三月の末には、里邸に退出なさろうとなさったが、帝がとんでもないとお止めになられたので、しばらくは宮中で過ごされることになった。
こうしているうちに、殿の三位殿(道長の嫡男頼通。正しくは従二位に叙されていた。)が左衛門督(カミ・長官)におなりになった。
中宮(彰子)の安産の御祈祷は、やはり里邸で行うとて御支度を急がれて、四月十日過ぎに宮中を退出なさった。
帝(一条天皇)におかれてはたいそう心配なさって、この度は若宮(敦成親王)への御恋しさも加わって、お気が休まらず心を乱されていらっしゃる。
さて、中宮は京極殿(キョウゴクドノ・道長の土御門邸の別称。)にご退出なさったので、尚侍の殿(ナイシノカミノトノ・彰子の妹の妍子。この時十六歳。)は、若宮を今か今かと待ちかねていらっしゃって、早速にご対面なさる。その後、御乳母たちはただお乳を差し上げる間だけで、ひたすら尚侍の殿がお抱きになり可愛がられているので、御乳母たちもたいそう嬉しいことと思っていられる。
中宮の安産御祈祷は、前と同様である。すべてにわたってし残されるということはなかった。何一つ不足な点がなかった前回の御有様であったので、前に奉仕した僧たちも、前回と同じように御祈祷するように定められたので、そのままに違うことなく数々のご奉仕申し上げる。
この度は、皇子皇女のいずれであっても、前回ほどの強い希望はないようだが、やはり皇子お二人がお並びになる心強さは格別なので、同じく皇子の御誕生を願われるのであろう。
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『 中関白家の悲哀 ・ 望月の宴 ( 121 ) 』
彰子中宮に若宮(敦成親王)が誕生なさったことは、道長殿にとっては、まことに待望の慶事でございました。ご出産にあたっての様々な御祈りや、御誕生後の御行事のどれもこれも、先例を見ないほどの豪華にして御心を尽くされたのも当然のことと申されましょう。
しかも、この慶事は、道長殿にとりまして、また彰子中宮にとりましても、さらなる御繁栄への始まりでもありました。
さて、若宮(敦成親王)のまことに際立った美しさは、山の端からさし昇った望月などのようでいらっしゃるのを、帥殿(ソチドノ・故道隆の子、伊周。故定子皇后の兄。)の一門の人々は、胸がつぶれんばかりに大変な事だとお思いになって、人知れず長年御心の内で描いていた事どもも、すっかり当てが外れてしまったように思われ、
「やはり、この世においては、世間から物笑いにされて終る身であったようだ。まことに情けないことだ。思いがけなくすばらしい夢など見て(定子が敦康親王を儲けたこと)からは、これから先は望みをかけたが、『異なることなき人の例の果て見て(格別な事のない人でも、最後まで見て初めて平凡であったかどうか分る・・当時の諺か?)』などと世間では言っているのだから、いくらなんでもと、そのまま精進や斎戒で過ごし、ひたすら仏神をお頼みしてきたが、今となってはこれまでの定めであるらしい」と、御心の内で嘆かれるお気持ちになられ、「あてにもならない事に頼みをかけて世を過ごすのは、たいそう見苦しいことなど出てきて、いよいよ生きがいのない有様に追込まれるに違いない。どうしたものか」などと、御叔父の明順、道順(アキノブ、ミチノブ・高階氏。伊周の母方の叔父。)らに相談なさる。
「たしかに世の有様は、おっしゃる通りです。そうだといって、ほかにどうすることが出来ましょうか。ただ御命だけご無事であるようにと、その事だけをお頼みしていくしかありません」などと、しみじみとしたあれこれを涙ながらに申し上げるので、帥殿も、「こうして、何することなく罪業を積み重ねていくというのも、全くつまらないことであろう。物の因果の道理を知らない身でもないのだから、何事を期待しているのかと思うと、たいそう虚しいことだ。やはり、今となっては出家して、しばらく修行して、せめて後世の安楽を願うことにしようと思うにつけても、一途に発起した道心でもないので、山林に住んで経を読み修行をしても、俗世の事などを忘れてしまえそうもない。そのように様々な俗縁にまつわれながら、念誦や読経を行っても何の甲斐があるのだろうかと思うと、まだ、とても決心がつかないのだ」などと言い続けられる。たいそういたわしいことである。
中納言(伊周の弟、隆家。)、僧都の君(同じく、隆円)なども、世の中に対しては同じ思いではあるが、それほど深くお考えにならず、気軽そうに見受けられる。
この殿(伊周)だけは、万事において世の流れに絶えず心を痛められているご不運なので、いっそうおいたわしいことである。
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