雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

運命紀行  この命ある限り

2012-04-13 08:00:43 | 運命紀行
       運命紀行  

            この命ある限り


妙印尼は馬上の人となった。
夫を見送り、落飾してすでに六年の年月が過ぎていた。ここ桐生城で隠遁の生活に入っていた妙印尼に息子たちの危機が伝えられたのは、天正十二年のことである。
妙印尼は既に七十歳を過ぎていたが、何の迷いもなく行動に移った。嫡男が城主を務める由良氏の拠点金山城に向かって出立した。下野桐生城から上野金山城まではおよそ三里(12km)、僅かな供を従えて墨染の衣を翻して馬を飛ばした。

妙印尼の夫由良成繁から家督を引き継いだ嫡男国繁は、金山、桐生両城の城主として君臨しており、長尾家の養子となった次男顕長も、館林城、足利城を領有するなど勢力を強めていた。しかし、上野・下野を中心とした地は巨大勢力による争いが絶えない地域であった。
由良氏も同様であり、北条からの同盟の誘いを無視することは出来なかった。由良国繁・長尾顕長の兄弟が、北条氏からの厩橋での茶会の招待に応じると、そこで拘束され、幽閉されてしまったのである。

金山城に入った妙印尼は、息子二人が揃って出掛けていった無防備さを嘆きながらも、自ら軍議を取り仕切り、北条方と毅然とした態度で接することで家臣たちの意思統一を図った。そして、この難局を自分が先頭に立って指揮することを宣言した。
妙印尼は夫成繁から「金山城は山上に池があり飲み水に渇くことがなく、林が多く薪に困ることがない。東北に渡良瀬川、南に利根川を有する要害の城である。いかなる大軍を迎えても、武略に優れ、兵糧矢玉が尽きなければ、十年二十年の籠城にも耐える」と教えられていた。

果たして、北条方からは、国繁、顕長の身柄と引き換えに由良・長尾の諸城すべての明け渡しを求めて来た。
これに対して妙印尼は、わが子への情愛を抑え由良氏の存続をかけた戦いを決意する。
具足に身を固め、その上に白練り衣を羽織った妙印尼は、朱柄の長刀を膝に置き、三男の重勝や末娘を側に控えさせ、三千余の家臣を指揮して防備を固めた。
北条氏照が率いる大軍は、利根川を渡り金山城を取り囲んだ。
妙印尼は、広大な山城である金山城内を馬で駆け巡り、将兵たちに指示を与え、激励して回った。
北条方は、磔木を先頭に立て、「城を開けねば、国繁・顕長を磔にする」と叫んだが、妙印尼は屈することなく、「あの下知している者を大筒にて撃て」と命令した。
大筒を一時に三発放つと、砲弾は見事命中、下知をしていた武者や周りの者も吹き飛ばされた。城内からはすかさず兵が攻めかかり局地戦で勝利することになった。

由良成繁が言い残したように、金山城は堅固であり、城内の士気は衰えることがなかった。
北条方もついに力攻めをあきらめて、和睦を持ち出してきた。妙印尼にしても、いくら堅固な城と忠節を守る将兵がいるとしても、北条氏を相手にいつまでも持ちこたえられるものでもなかった。
人質となっている二人の息子の命と引き換えに、由良氏が金山城を明け渡して桐生城に移ることと、長尾氏も館林城を明け渡して足利城に引くことで和睦は成立した。
両家にとってこの犠牲は大きなものであったが、妙印尼の働きにより由良氏は上州において強い力を保持することが出来たのである。


     * * *

妙印尼は、俗名を輝子といい館林城主赤井重秀の娘と伝えられている。生年は永正十一年(1514)の頃とされる。
長じて由良成繁に嫁いだ。成繁は、もとは南北朝悲運の武将新田義貞の末裔である横瀬氏であるが、岩松氏を降し金山城主となり、その後由良氏を名乗っている。年齢は妙印尼より八歳ほど上であったらしい。
成繁は上杉管領に属していたが、上杉憲政が越後の長尾景虎(謙信)に管領職を譲ると、これを嫌って古河公方に移り、謙信軍と二度戦いこれを退却させるなどの武勇を通じて勢力を強めていった。

妙印尼は成繁との間に三男二女を儲けた。この女の子の一人が忍城に嫁ぎ甲斐姫という女傑を生んでいる。甲斐姫は東海一の美女と伝えられているので、おそらく妙院尼も美貌の持ち主と想像できるし、才知、武勇ともに優れた武将の妻であったが、同時に五人の子供を立派に育てた良妻でもあった。
夫の成繁は天正二年(1574)に家督を嫡男国繁に譲り、桐生城で隠居生活に入り、妙印尼も静かな生活を送っていたことであろう。そして、その四年後に成繁が七十三歳で死去、輝子が仏門に入り妙印尼と名乗るのはこの時からである。

その後は、夫の菩提を弔いながらの穏やかな日を過ごしていたが、戦乱の世は才知、武勇共に優れた妙印尼を再び歴史の舞台へと誘うのである。
夫が亡くなってから六年程経った時に、冒頭の大事が出来したのである。この時の危機は、多大な損失を出しながらも御家の安泰が図ることができて、妙印尼は静かな生活戻っていたが、さらに六年後に御家消滅の危機に直面するのである。

天正十八年、豊臣秀吉は天下掌握の最後の障害である北条氏討伐のために大軍勢を関東に出陣させた。
迎え撃つ北条方は難攻不落を誇る小田原城を頼りとして籠城戦に出る。
北条氏の配下に属していた国繁・顕長の二人の息子は、三百騎を率いて小田原城に入った。
しかし、既に七十七歳になっていた妙印尼は、冷静に天下の動向を分析していた。日の出の勢いの秀吉を侮っている北条氏政・氏直父子に勝機はないと読んでいた。息子たちが北条の陣営に加わることは避けられないとしても、亡き夫が築き上げた由良の家を滅亡させるわけにはいかない。老いたりとはいえ、この命ある限り座視することなど出来なかった。

秀吉軍に属する、前田利家、上杉景勝の大軍が碓氷峠を越えて上州に入ったとの報が届くと、妙印尼は秀吉陣営に飛び込んでいく決意を固めた。
十歳になる嫡孫の貞繁を大将として、後見人としての妙印尼は轡(クツワ)を並べ、五百の兵を率いて桐生城を出た。そして、秀吉軍の先手衆として松井田城攻めに加わり、戦功を上げた。
前田利家は、妙印尼の年齢を感じさせない見事な采配ぶりに感動し、その働きぶりを秀吉に伝えた。秀吉も感激して妙印尼に直接対面し、その武功を称えたといわれている。

やがて小田原城は開城され、北条氏は滅亡する。
この戦いの後、関東の地が徳川家康に与えられたため、桐生城も足利城も召し上げとなってしまったが、妙印尼の働きにより二人の息子は助命され、妙印尼に対して常陸国牛久に五千石の領地が与えられた。これにより由良氏は存続できたのである。

妙印尼は、文禄三年(1594)秋、世を去った。享年八十一歳。おそらく、戦国一の女傑だったのではないだろうか。

                                         ( 完 )



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