雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

大谷翔平選手 羽ばたく

2021-07-14 18:19:52 | 日々これ好日

      『 大谷翔平選手 羽ばたく 』

    大谷翔平選手が メジャーリーグの球宴で
    大きく 羽ばたいた
    成績はともかく その存在感は 圧倒的で
    何のつながりもない私までが 誇らしい気持ちを頂いた
    特に 前日のホームラン競争は 実にドラマチックで
    あの結果こそが 最良のように思えてならない
    後半戦も 楽しませていただきます

                     ☆☆☆

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今昔物語集 巻第六  表題

2021-07-14 15:34:43 | 今昔物語拾い読み ・ その2

          今昔物語集 巻第六  表題

  この巻から舞台は天竺(印度)から震旦(中国)に移ります。
   時は、秦の始皇帝の御代。
   天竺から伝えられた仏法が、厳しい弾圧を受けながらも中国全土に定着していく様子を中心にした物語が集められています。
   難解なものも多いが、仏教の伝播という観点からも、興味深い物語も多く含まれています。

 

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始皇帝に阻まれる ・ 今昔物語 ( 6 - 1 )

2021-07-14 15:34:02 | 今昔物語拾い読み ・ その2

          始皇帝に阻まれる ・ 今昔物語 ( 6 - 1 ) 


今は昔、
震旦(シンダン・中国)の秦の始皇帝の御代、天竺(テンジク・印度)より僧がやって来た。名を釈の利房(シャクノリボウ・伝不祥)という。
十八人の賢者(ケンジャ・尊者も同意。優れた修行者でまだ悟りを得ていない者。)を引率していた。また、法文・聖教(ホウモン・ショウキョウ・・教説や経典、仏書を指す)を持参していた。

国王は、この僧を見て訊ねられた。「そなたは一体、どういう者で、いずれの国からやって来たのか。見たところ、その姿はいかにも怪しい。頭の髪はなく禿(カムロ・剃髪を指している)である。着ている物も人とは違っている」と。
利房は、「西国(サイコク・天竺を指す)に大王がいらっしゃいます。浄飯王(ジョウボンオウ)と申されます。一人の太子がいらっしゃいます。悉達太子(シツダタイシ・後の釈尊)と申されます。その太子は、世を厭(イト)いて、家を出られて山に入り、六年間、苦行を修められて、無上道(ムジョウドウ・仏道)を修得なさいました。そのお方を釈迦牟尼仏(シャカムニブツ)と申されます。四十余年の間、一切衆生(イッサイシュジョウ・生きとし生けるもの)のために、様々な法をお説きになられました。衆生は、教えに従って教化を給わりましたが、遂に八十にして涅槃(ネハン・ここでは入滅)に入られましたが、入滅後、四部の弟子(シブノデシ・・四衆、四部の衆とも。比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷を指す。男女の出家者と男女の在家信者。)[ 欠字あり。一行余りの破損があるらしいが、内容不詳。]一つなり。そこで、その仏がお説きになった教法を伝えるためにやって来ました」と答えた。

国王は、「そなたは仏の弟子だと名乗っているが、我はまだ仏という者を知らない。比丘(ビク・僧)という者も知らない。そなたの風体を見るに、極めてうさんくさい奴だ。速やかに追い払うべきであるが、このまま返すわけにはいかない。獄舎に繋いで、厳重に取り調べよう。この後、こ奴のような怪しいことを言う輩の見せしめにするためだ」と仰せられた。
すぐさま、獄舎の役人を呼んで命じられて、獄舎に繋がせた。獄舎の役人は、宣旨に従って、重罪の者を入れる牢にこの者を閉じ込めて、戸に錠を差した。

その時に利房は、嘆き悲しんで、「私は、仏の教法を伝えるために、遥々とこの地までやって来た。ところが、悪王(始皇帝を指している)がいて、仏法を未だ知らないために、私を重い罪にしてしまった。悲しいかな、我が大師、釈迦牟尼如来さま、涅槃に入られて久しくなりましたが、神通力のあらたかなことをお見せ下さい。願わくば、私のこの苦しみをお助け下さい」と祈念して横になった。
やがて夜になると、釈迦如来が丈六の姿(ジョウロクノスガタ・背丈が一丈六尺。仏像の標準サイズ。)で紫磨黄金(シマオウゴン・紫色を帯びた黄金で、最上の物とされる。)の光を放って、虚空(コクウ・大空といった意味だが、仏教では何もない空間、一切の事物を包容してその存在を妨げない空間、とされていて、いわゆる大空よりは深い広がりを表しているらしい。)より飛び来たり給いて、この獄舎を踏み破って入られ
、利房を連れて去って行かれた。十八人の賢者も同じように逃げ去った。
そのついでに、この獄舎に捕らえられていた多くの罪人も、獄舎が破られた時に、全員が思い思いに逃げ去ってしまった。

その時、獄舎の役人が聞いた様子によれば、空が大きな音で鳴ったので、怪しく思って出てみると、金色に輝く、身の丈一丈あまりの人が、金色の光を放って虚空より飛び来たって、獄舎を踏み破って人[ 二行欠文になっているらしい。]ぢ恐れ給いけり。( 欠文となっている部分は、別書には、「ここに入れられていた天竺の僧を連れて行く音であった。驚きながらその由を王に申し上げると、王は怖れおののかれた」とある。)

これによって、その時に天竺より渡ろうとしていた仏法は止まってしまい、伝わらなくなってしまった。
その後、後漢の明帝(メイテイ・第二代皇帝。西暦95年没。)の時に伝わったのである。但し、昔、周の時代(紀元前1100年頃に建国された。)に正教(ショウキョウ・仏教を指している)がこの地に伝わっている。また、阿育王(アイクオウ・紀元前3世紀に全インドを統一した王で、仏教を重んじたとされる。)が造った塔がこの地にある。ところが、秦の始皇帝が多くの書物を焼いてしまい、正教も皆焼かれてしまったのである。
此(カク)なむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆


 

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仏教 中国に渡る ・ 今昔物語 ( 6 - 2 )

2021-07-14 15:33:29 | 今昔物語拾い読み ・ その2

          仏教 中国に渡る ・ 今昔物語 ( 6 - 2 )


今は昔、
震旦(シンダン・中国)の後漢の明帝(メイテイ・第二代皇帝。西暦75年没。)の御代に、皇帝は「身の丈が一丈余りの金色の人がやって来た」という夢をご覧になった。 
夢から覚めたあと、知識豊かな大臣をお召しになって、この夢の意味するところをお尋ねになった。大臣は、「他国より大変優れた聖人がやって来たというお告げでしょう」と申し上げた。
皇帝はこれをお聞きになって、心に留めてお待ちになっていると、天竺より僧がやって来た。名前を、摩騰迦・竺法蘭(マトウガ・ジクホウラン・・共に中天竺の人。)という。仏舎利(ブッシャリ・釈迦の遺骨)や経文などを沢山持参していた。そして、皇帝に献上した。
皇帝は、この人たちを心待ちしておられて、心から歓迎し深く信仰し崇敬された。

その時、皇帝の行いを受け入れない大臣・公卿が多数いた。いわんや、五岳(ゴガク・道教の五つの霊山)の道士(ドウジ・道人とも。中国在来の道教の僧。)という者たちは、不満を言う人が多かった。「我らが信奉する道教(来世の救済より、現世の不老不死を理想とした。)を尊いものとして、古(イニシエ)より今に至るまで国を挙げて崇拝してきたのに、今さら、異国からやって来た姿も変わっていて、衣服も違っており、わけも分からない者がつまらない書物などを持ってきたのを、皇帝が崇められるのは極めて危いことだ」と思って嘆き合ったのである。世間の人もまた、やって来た者たちを謗り合った。
しかしながら、皇帝は、この摩騰迦法師を丁重に崇められ帰依されて、す
に新しく寺を建てられた。その寺の名を白馬寺(ハクバジ)[ 欠字あり。一行分程度抜けているらしいが不詳。]付けられたのである。

皇帝は、この寺を建てて仏舎利および経文を納められ、摩騰迦法師をその寺に住まわせて、熱心に帰依しようとされたが、ある道士はそれを見て、「極めてよくない。歪んだ行いだ」と思って、皇帝に「異国よりやって来た禿(カムロ・頭を剃っている姿を軽蔑して表現したもの。)が持ってきた、つまらないことなどを書き綴った書物や仙人の屍(仏舎利を指す。)などを、このように崇められるのは、まことに奇怪なことです。あの禿は、どれほどの人物だというのですか。我らが信奉している道は、過ぎ去った過去や今やって来ている事などを占って示し、人の容貌を見てその人物の将来の善悪を見通し、霊験あらたかな全能の神のような道なのです。されば、古より今に至るまで、皇帝を始めとし奉り、国の上中下の人々は、この道こそを大切なものとして崇めてきましたのに、今まさに棄てられようとしているように見えますので、あの禿と験力を競って、勝った方を尊び、負けた方を棄てるべきです」と申し上げた。

皇帝はこの申し出をお聞きになって、心が動揺し嘆きながら、「この道士の信奉する道は、天のことも地のこともよく占なって知ることが出来る道である。異国からやって来た僧は、未だ能力の良し悪しを知らないので極めて心配だ。術競べをして、もし天竺の僧が負けると大変悲しいことだ」と思われた。
そこで、「速やかに競うべし」とも仰せになられず、まず、摩騰迦法師を召して「この国において、昔から崇められている五岳の道士という者どもが、妬みの心を起こしてこれこれのことを言っている。どうすればよいか」と仰せられた。
摩騰迦法師は、「私が信奉しております法は、古より術競べをして人に崇められてきました。されば、速やかにこの度も術競べをして勝負をご覧に入れましょう」と申し上げて、大いに喜んだ。
皇帝もその答えを聞いて、同じようにお喜びになった。

そこで、日を定めて、速やかに摩騰迦法師と道士と、宮殿の前の庭において術競べをする由の宣旨を下された。
その日になると、国を挙げて上中下の人々が見物した。
東の方には錦の天幕を長く起てて、その内に優れた道士二千人ばかりが居並んでいる。気高く年老いた者共もいる。あるいは、若くて意気盛んな者共もいる。各々学識を磨いて過去の人に劣ることがない。
また、大臣・公卿・孫子(意味不詳。)・百官など皆道士の方に集まっている。道教の経典について知識を確認していて、まことに過去・現在・未来の事などを承知しているようである。
摩騰迦法師の方には、ただ大臣一人だけが付いていて、その他には全く集まる人がいない。但し、皇帝は支援しているように思われる。

道士の方には、宝玉の箱に信奉する経典などを入れて、飾り立てた台に並べられている。
また、西の方には、錦の天幕を立てて、その内に摩騰迦法師ただ一人と大臣一人がいるだけであった。そこには、瑠璃の壷に仏舎利を入れて奉っていた。また、装飾した箱に献上したところの経典を入れ奉っている。僅かに二、三百巻ばかりである。
このようにして、それぞれ術を待っていると、道士の方に「摩騰迦法師の方から道士の方の経典などに火を付ける」と伝えた。そして、その言葉通りに、摩騰迦法師の方より弟子一人が現れて、火を放って道士の方の経典に火を付けた。
すると、道士の方より一人の道士が現れて摩騰迦法師の方の経典に火を付けた。されば、共に燃え合った。炎が盛んにして黒い煙が空に昇った。

すると、摩騰迦法師の方の仏舎利が光を放って空に昇った。経典も同じように仏舎利に付き従って空に昇り、虚空に留まっている。
摩騰迦法師は香炉を取って、瞬きすることもなく凝視していた。道士の方の経典は皆焼け果てて灰になってしまった。
その時、多くの道士は、ある者は舌を食い切って死ぬ者あり、ある者は眼から血の涙を流し、ある者は鼻より血を流し、ある者は息[ 欠字あり。不詳。]死ぬ。ある者は座を立って走り去り、ある者は摩騰迦法師の方に移って弟子になり、ある者は悶絶辟地(モンゼツビャクチ・衝撃の表現。)気を失って倒れた。
このように、不吉な事どもが起こった。そこで皇帝は、これを見て涙を流し、座を立って摩騰迦法師を礼拝した。

この後、経典や仏の教えは漢土に広がって行き、今も盛んなのである、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆

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達磨大師 ・ 今昔物語 ( 6 - 3 )

2021-07-14 15:32:54 | 今昔物語拾い読み ・ その2

          達磨大師 ・ 今昔物語 ( 6 - 3 )


今は昔、
南天竺に達磨和尚(ダルマワジョウ・中国禅宗の始祖。いわゆる達磨大師。)という聖人がおいでになられた。
その弟子に、仏陀耶舎(ブツダヤシャ)という比丘(ビク・僧)がいた。達磨は仏陀耶舎に仰せられた。「お前は、速やかに震旦国に行って仏法を広めなさい」と。
耶舎は師の教えに従って、船に乗って震旦に渡った。
仏法を伝えようとしたが、この国にはすでに様々な比丘が数千人いて、それぞれに修行していた。この耶舎が説くところの法を聞いて、一人として信じる者がいなかった。遂には、耶舎は追放され廬山(ロザン・仏教と縁の深い名山。)の東林寺という所に追いやられた。

ところで、その廬山に遠大師(オンダイシ・417年没。)という優れた聖人がいた。その人がこの耶舎がやって来たのを見て、招き入れて訊ねた。「お前は西国(天竺を指す)よりやって来た。いかなる仏法を以って、この地に広めようとして追い払われたのか」と。
すると耶舎は、言葉では答えず、自分の手を握りそして開いた。その後「この事、お分かりか否や」と言った。
遠大師は即座に、「手を握るのは煩悩である。開くのは菩提(ボダイ・悟りの境地)である」ことを悟って、「煩悩と菩提は一つのものである」ということを知った。
その後、耶舎はその所で亡くなった。
その時、達磨大師は遥か離れた天竺において、弟子の耶舎が震旦の地で亡くなったことを暗に察知して、自ら船に乗って震旦に渡った。梁(リョウ・502-557間の短い王朝。)の武帝(ブテイ・梁の皇帝で48年間在位。武帝の名は幾つもの王朝に登場する。)の御代である。

その頃、武帝は、大きな伽藍(ガラン・寺院の建物)を建立して、数体の仏像を鋳造し、塔を建て数部の経巻を書写して、心のうちで「我は格別の功徳(クドク・善行を積むことで備わる徳。)を修めている。この事を知恵(仏教的な意味で、真理を明らかにして悟りを開く働き。)ある僧に会って褒められ尊敬されたい」と思っていた。
そして、「この国において最近、知恵賢く尊い聖人は誰かいないか」と尋ねられると、ある人が「最近、天竺よりやって来た聖人がおります。名を達磨と言います。知恵賢く、大変優れた聖人であります」と申し上げた。
武帝はこれを聞いて、心の内で喜んで「その人を招いて、伽藍・経典などの有様を見せて感心させよう。また、尊い功徳の由縁を聞いて、ますます格別の善根を修めようと思うだろう」と思われて、達磨和尚を招くために使者を行かせた。
和尚はすぐに招きに従って参上した。その伽藍に迎え入れて、堂塔・経典などを見せて、武帝は達磨に向かって尋ねられた。「我は、堂塔を造り、人を済度(救済)し、経巻を書写し、仏像を鋳造しました。どのような功徳があるのでしょうか」と。
達磨大師はお答えになった。「それらは、功徳ではありません」と。

その時に武帝は、「和尚は、この伽藍の有様を見てきっと褒め称えて尊ぶだろう」と思っていたところ、まことにそっけなく、このように和尚が言うのは、とても納得できないと思われて、さらに、訊ねられた。「それでは、どういう理由で功徳でないというのか」と。
達磨大師は「このような塔寺を造って、『自分は格別の善根を修した』と思うのは、これは有為(ウイ・無為の対語で、因縁による現象。)の事です。まことの功徳ではありません。まことの功徳というのは、自分の心の中に仏となるべき清浄な種子が存在していてこそ、まことの功徳となるものです。それに比べますと、これらは功徳の数のうちにも入りません」と答えられると、武帝はそれをお聞きになると、思ってもいなかった言葉なので、「こ奴は何たる事を言うのか。『自分は誰にも劣らぬ功徳を積んだ』と思っているのに、このように謗るのは、何か意趣でもあるに違いない」と機嫌を悪くして、大師を追放してしまった。

大師は、追放されると、錫杖(シャクジョウ・修行用の鉄の杖で、先端の輪型に鈴が付いている。)を杖にして、[ 欠字あり。「崇」らしい。]山という所に至った。
その所で、会可禅師(エカゼンジ・慧可とも。593年没。禅宗の第二祖。)という人に出会った。大師はこの人に仏法をすべて伝授なされた。
その後、達磨大師はこの地において亡くなられた。そこで、弟子の僧たちは、達磨大師を棺に入れて墓に持って行って置いた。

その後、二七日(ニナノカ・十四日目の事。)を経て、公の御使いとして宗雲(ソウウン・敦煌の人。達磨とほぼ同時代の人ではあるが、出会う話は時代が合わないらしい。)という人が旅に出たが、ソウレイ(パミール高原のこと。中国と西域との要衝。)の上において一人の胡僧(ゴソウ・中国から見て異国の僧。)と出会った。片足には草鞋(ソウカイ・わらじ)を着けていて、もう片方は裸足であった。
その胡僧は、宗雲に語った。「そなたは知っているか。国王は今日お亡くなりになられた」と。宗雲はそれを聞いて、紙を取り出してその日月を記録した。

宗雲は数か月して王城(梁の都の健康を指す。)に帰ってから聞いてみると、「帝はすでに崩御なさいました」と言う。そこで、記録していた日月と比べると全く違わなかった。
「あのソウレイの上において、この事を告げた胡僧は一体誰だったのか」と思いめぐらせて、「達磨和尚だったのだ」と思い至り、朝廷の百官ならびに達磨門徒の僧たちと共に実否を確かめるために、あの達磨大師の墓に行って棺を開いてみると、達磨の身体は見当たらず、ただ棺の中に草鞋の片足のみが残されていた。これを見て、「ソウレイの上で会った胡僧は、きっと達磨が草鞋を片足だけに着けて、天竺にお帰りになられたのだ。片足を棄て置いたのは、震旦の人にその事を知らせるためだったのだ」と全員が知った。

そこで、国を挙げて、達磨大師がやんごとなき聖人であったことを知って、尊ぶこと限りなかった。この達磨和尚は南天竺の大婆羅門国の国王の第三皇子である、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆

* 達磨和尚の「和尚」は、本稿では「ワジョウ」と読むようです。
「和尚」という尊称は、幾つかの読み方がありますが、一般的には、禅宗では「オショウ」、天台宗では「カショウ」、律宗・真言宗・真宗などでは「ワジョウ」とされているようです。

     ☆   ☆   ☆

 

 

 

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呉の国の仏教伝来 ・ 今昔物語 ( 6 - 4 )

2021-07-14 15:32:28 | 今昔物語拾い読み ・ その2

          呉の国の仏教伝来 ・ 今昔物語 ( 6 - 4 )


今は昔、
天竺に康僧会三蔵(コウソウエ サンゾウ・キルギスの人。三蔵は経、律、論を指すが、ここではそれに通じた人といった意味らしい。)という聖人がいらっしゃった。
仏法を伝えるために震旦に渡って、胡国(呉国の誤りらしい。)という所に行った。その国の王(三国志に登場する「孫権」)は、三蔵を見て、未だ三宝(サンポウ・・仏・法・僧を指すが、ここでは仏法。)というものを知らなかったので、怪しんで「いったい何者か」と訊ねると、三蔵は「私は西国(天竺を指す)の釈迦仏の御弟子です。仏法を伝えるために震旦国に渡る途中、参りました」とお答えした。
王は、「その釈迦仏は、今も健在であられるのか」と仰せられた。三蔵はお答えした。「釈迦仏は、多くの衆生のために仏法をお説きになられて、すでに涅槃(ネハン・悟りの境地に入ること。ここでは、入滅。)に入られました」と。

王が仰せになられた。「そなたは釈迦仏の弟子だと名乗っているが、その仏はすでに涅槃に入られている。されば、誰を以って師として頼みにしているのか」と。
三蔵は、「釈迦仏は、涅槃にお入りになりましたが、舎利(シャリ・釈迦仏の遺骨)を遺されて衆生をお導きになっています」とお答えした。
国王は、「その舎利は、そなたが持っているのか」と訊ねられた。三蔵は、「舎利は天竺におわします。私は持ってはおりません」とお答えした。
国王は、「そなたが言うことは、どうもつじつまが合わないので、我は信じることが出来ない。何を以って舎利の有無を知ることが出来るのか」と訊ねた。三蔵は、「舎利を持っていないといえども、祈り奉れば自然とお出ましになられます」と答えた。
王は、「されば、そなた、この場所において舎利を祈り出せ」と仰せになった。三蔵は、祈ってお出まし願うことを承知した。
王は、「そなたがもし舎利を祈り出すことが出来なければ、何とする」と仰せられた。
三蔵は、「舎利を祈り出すことが出来なければ、この首をお取りください」と答えた。
そこで、この日より始めて七日を期限として祈ることを、王の仰せにより始めた。

三蔵は、紺瑠璃の壷を机の上に置いて、花を散らし香を焚いて、祈祷し給うて七日が過ぎた。
国王は、「舎利はお出ましになられたか、どうか」と仰せられた。三蔵は、「あと七日延ばさせてください」と申し上げると、王は承知して、あと七日祈祷わ続けて、その七日に至るも、舎利は姿を見せなかった。
国王はまた「いかがか」と訊ねられると、三蔵は、今一度、日を伸ばさせてくれるよう申し出た。王は申し出を承知して、申し出通りにさらに七日の日延べをした。
そこで三蔵は、さらに真の心を尽くして礼拝恭敬(ライハイクギョウ・仏を崇拝して礼拝する際の慣用表現。)して祈られると、六日目の暁の頃、瑠璃の壷の内に大きな舎利が一粒現れた。壷の内より光を放った。

その時に、三蔵は舎利がお出ましになられた由を国王に申し上げた。国王は驚いて、その場所に行ってご覧になると、まことに、瑠璃の壷の中にまろやかな白い玉があった。壷の内より白い光を放っている。
国王はそれを見て、「汝が祈り出した舎利の実否は知ることが難しい。何を以って、これが本当の舎利だと知ることが出来るのか」と仰せられた。
康僧会(三蔵のことであるが、この部分が本名表記になっている理由は、よく分からない。)は、「真の仏舎利は、劫焼(コウショウ?・世界を焼き尽くしてしまうような火、といった意味らしい。)の火にも焼かれることがなく、金剛の杵(コンゴウノショ・密教の修法で手に持つ法具。)にも砕かれることがありません」と申し上げた。
国王は、「それでは、その舎利を試してみよう、よいか」と仰せられた。康僧会は、「すぐにお試しください」と申し上げて、舎利に向かって誓願した。「我が大師釈迦如来、涅槃に入り給いて久しくなられましたが、入滅後の衆生を利益(リヤク)しようとお誓いくださいました。願わくば、その威力をお使いいただいて、広く霊験をお示しください」と。

その時、国王は、舎利を瑠璃の壷の中より取り出して、銭砧(カナシキ・鍛冶に使うかなとこ。)の上に置いて、力持ちを選んで金鎚で以って打たした。すると、銭砧・金鎚が共に窪んでしまったが、舎利は塵ばかりも損じることがなかった。
すると国王は、それを見てたいそう信伏して、礼拝恭敬なさること限りなかった。その後、三蔵に訊ねられた。「これは真の仏舎利であった。我は、愚かにも度々疑ってしまった。速やかに心を尽くして恭敬供養し奉るべし。それには、どのように安置し奉るべきか」と。三蔵は、「寺を造って、舎利を安置してください」と申し上げた。

国王は、三蔵の申し出に従って、すぐに寺を造り舎利を安置し奉られた。その寺の名を建初寺(コンショジ)と付けた。その国で初めて作られた寺なので、このように付けたのである。
また、これよりその国の仏法は始まった、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆

* この物語は、呉国を中国とは別の国として語られています。

     ☆   ☆   ☆


 

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親子二代の功績 ・ 今昔物語 ( 6 - 5 )

2021-07-14 15:32:03 | 今昔物語拾い読み ・ その2

          親子二代の功績 ・ 今昔物語 ( 6 - 5 )


今は昔、
天竺において、釈迦仏は母の摩耶夫人(マヤブニン・釈迦の生母。釈迦を生んで七日後に没、忉利天に転生。)を教化するために忉利天(トウリテン・欲界六天の第二。宇宙の中心をなす須弥山の頂上にあり、帝釈天の居城がある。)にお昇りになって、九十日の間滞在されたが、優填王(ウデンオウ・中天竺にある国の王)は釈迦仏を恋い慕って、赤栴檀(シャクセンダン・香木の一つで、赤銅色で香気が強い。)の木で毘首羯摩天(ビシュカツマテン・帝釈天の臣下で工作を司る神。)を内匠として仏像を造り奉った。
やがて、釈迦仏は九十日が過ぎて忉利天より閻浮提(エンブダイ・仏教の宇宙観において、宇宙の中心とされる須弥山の四方にある四州の一つで南方にある大陸。人間が住んでいる世界。)に下られたが、金・銀・水精(コガネ・シロガネ・スイショウ)の三つの階段があった。
釈迦仏がそこから下られると、この栴檀の仏像は、階段のもとに進みお迎えして会い、実の釈迦仏を敬って腰をかがめたので、世間の人は、これを見て尊び奉ること限りなかった。いわんや、釈迦仏が涅槃に入られて後は、この栴檀の仏像を、世を挙げて恭敬供養し奉った。

ところで、摩羅焔(マラエン・鳩摩羅焔とも。インドの宰相家の出。)という聖人がいらっしゃった。その聖人が心の内で、「天竺には、仏(釈迦仏)が出現されたので、この栴檀の仏像がいらっしゃらなくても、仏典などが多くあり、衆生は利益(リヤク)を蒙ることも少なくない。ここから東の方向に震旦国がある。その国には、未だ仏法がなく、衆生は皆、暗闇の中にいるようなものである。されば、この仏像を盗み奉って、その震旦に渡し奉って、あまねく衆生を利益しよう」と思ったのである。
そこで、この仏像を盗み奉って、連れて行った。「誰かが追って来て止めようとするかもしれない」と思ったので、夜も昼も休むことなく、堪え難いほどのけわしい道を身命も惜しむことなく仏像と共に先を急いだ。

仏(釈迦仏と考えられるが、善光寺縁起によく似た話があり、そこでは阿弥陀仏になっているらしい。)はこれを哀れに思われて、昼は鳩摩羅焔(クマラエン)が仏像を背負い奉り、夜は仏が鳩摩羅焔を背負われて進んで行った。
やがて、亀茲国(キウジコク・東トルキスタンのクチャ国。西域の要衝。)という国があった。この国は、天竺と震旦との間にあり、それぞれの国から遥かに離れた所にある国である。やって来た国は遠ざかり、これから行く国もいまだ遥かに遠い。そこで、「もう追って来る人もあるまい。しばらくこの国でやすもう」と思って、その国の王、能尊王(ノウソンオウ)のもとに参上した。
能尊王は、この鳩摩羅焔に会って、事の次第を訊ねた。聖人は、思うところを詳しく話した。王は、それを聞いて、尊び給うこと限りなかった。

そこで、王は、「この聖人を見てみると、たいそう年老いている。やって来た道の堪え難さに身は疲れ力は衰えているようだ。また、これから行く先は遥かに遠い。願を立てられていることは尊いが、願い通りにこの仏像を震旦にお連れすることが出来ることは、極めて難しい」と思われた。そこで、王は、「この聖人に我が娘を結婚させて、子を産ませて、その子によって、父の聖人の願いの如く、この仏像を震旦に伝えることが出来る」と思われて、聖人にこの由を話されると、聖人は、「王様の申されることは、もっともな事と申せますが、私は長い間心に禁じていることです」と言って、この申し出を受けなかった。

すると王は、泣く泣く聖人に、「聖人が戒律を守られていることは尊いことではありますが、極めて愚かな事であります。たとえ戒律を破って地獄に堕ちることがあっても、仏法を遥かな地にまで伝えることこそ菩薩行(ボサツギョウ・大乗仏教の精髄。)であって、自分の身のことだけを考えるのは菩薩道ではありますまい」と仰せられて、さらに強く勧められたので、聖人は「王様の申されることは、正しいことだ」と思い至り、この申し出を受けた。
王には一人娘がいたが、その姿は端正美麗(タンジョウビレイ・美しいことを表現する場合に多く用いられる。)なこと天女のようであった。この娘をたいそう可愛がっていた。されど、仏法を伝えようという志が深く、泣く泣くこの聖人に嫁がせた。
そして、嫁がせた後、懐妊することを待ちわびたが、懐妊することがなかった。

王は不思議に思って、密かに娘に訊ねた。「聖人と結ばれる時、どういうことがあるのか」と。
娘は、「口で何か誦しています」と答えた。
王はそれを聞くと、「これからは、聖人の口をふさいで、何かを唱えさせてはならぬ」と仰せられた。そこで娘は、王の言葉に従って、結ばれる時に聖人が何かを唱えようとする口をふさいで、唱えさせなかった。
すると、その後に懐妊した。聖人はほどなくして亡くなられた。この聖人は、王の言葉が正しいことなので娘と結婚したが、戒律を守ろうとする心は消えておらず、結ばれる時に無常の経文を誦していたのである。
その経文とは、『 処世界如虚空 如蓮華不着水 心清浄超於彼 稽首礼無上尊云々 』( ショセカイニョコクウ ニョレンゲフチャクスイ シンショウジョウチョウオヒ ケイシュライムジョウソン ウンヌン )( 法華懺法にある偈らしい。 大体の意味は、「この世界においても自在の大空のように 泥中の蓮華が泥に染まらないように 心は清浄で濁った世を超越した この上ない仏を頭を垂れて礼拝申し上げる 云々 」である。)というものであった。

これによって懐妊することがなかったが、口をふさがれて誦すことが出来なかったので、懐妊したのである。
そして、男子が生まれた。その男子は、次第に成長していった。名前を鳩摩羅什(クマラジュウ)という。父の願いを聞いて、あの仏像を震旦に渡し奉った。
震旦の国王もまた、この仏像を受け取って、恭敬供養し給う。さらに、国を挙げてこの仏像を崇め奉ること限りなかった。

鳩摩羅什のことを代々羅什三蔵と申し上げる。心は聡明にして、智恵明らかな事、仏のようであった。父の本意に従って、あの仏像を震旦に渡し奉って、多くの衆生を利益し、また法華経を漢訳し、そればかりでなく、多くの経典を訳して
世に伝えられたのは、この三蔵なのである。
されば、正教(仏の正しい教え)を今の世まで学ぶことが出来るのは、まことにこの三蔵の御徳によるのだ、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆


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玄奘法師 天竺へ ( 1 ) ・ 今昔物語 ( 6 - 6 )

2021-07-14 15:31:32 | 今昔物語拾い読み ・ その2

          玄奘法師 天竺へ ( 1 ) ・ 今昔物語 ( 6 - 6 )


今は昔、
震旦に唐の玄孫(ゲンソン・誤記らしく不詳。)の御代、玄奘法師(ゲンジョウホウシ・西遊記の主人公のモデル。)と申される聖人がいらっしゃった。
天竺に渡られる時のこと、広大な原野を果てしなく進まれているうちに日が暮れてしまった。すぐに宿るべき場所もなかったので、探し探し足に任せて進んでいるうちに、遠くから、沢山の火を灯した者たちが五百人ばかりやってくる。
「人に出会うことが出来た」と思って喜びながら近くに寄ってみると、何と、人ではなく、異形の鬼どもが大変怖ろしげに歩いていたのである。法師は、その者どもを見て為す術がなく、般若心経(ハンニャシンギョウ)を大声で唱えられた。この誦経する声を聞いて、鬼どもは十方に逃げ去ってしまった。それによって、法師は難を免れて原野を通り過ぎることが出来た。

この心経(般若心経)は、法師が天竺に旅される間に、道々にお伝えになられたお経である。
遥かに深い山の中を通っていると、人跡絶えた場所があった。鳥獣さえも姿が見えない。ところが、にわかに臭い匂いが出てきて、堪え難いほどの臭さである。鼻をふさいで退いたが、この匂いが尋常でないものなので、何とか近寄ってみると、草木は枯れ、鳥獣の姿もない。さらに、必死に堪えながら近寄ってみると、一体の死骸があった。
「この死骸の匂いだったのか」と思いながら、さらによく見てみると、少し動いているように見えた。
「何と、生きている者なのだ」と見なして、「どういうことなのか訊ねてみよう」と思って、近寄って訊ねられた。「あなたどういう人なのですか。どういう病気があって、このように臥しているのですか」と。
病者(ヤメルモノ)は、「私は、女でございます。身に瘡(カサ・皮膚病の総称)の病があり、頭から足の裏まで全身隙間なくただれて、生臭くてその臭さが絶えられないため、遂には両親にも見捨てられて、深い山に棄てられたのです。しかしながら、寿命はまだ尽きず、死に果てないでいるのです」と答えた。

玄奘法師は、これをお聞きになって、慈悲の心を深くされて、さらに訊ねられた。「あなたは、家にいた時に、この病気を患ってから薬を教えてくれる人はいなかったのですか」と。
病者は、「私は家にいて病を治そうとしましたが、叶いませんでした。ただ、医師は『頭から足の裏まで、膿汁を舐って吸い取れば、きっと治るだろう』と言われました。されど、臭いこと堪え難いため、近づく人はなく、いわんや吸い舐ることなどしてくれる人などおりません」と答えた。
法師はこれを聞くと、涙を流して仰せられた。「あなたの身体はすでに不浄になっています。私の身体は見た目には不浄でないように見えますが、考えてみますと、私もまた不浄の身です。されば、同じ不浄の身でありながら自分は清いと思い、他の者を穢れていると思うのは、極めて愚かなことです。それゆえ、私が、あなたの身体を吸い舐ってあなたを病からお救いしよう」と。
病者は、これを聞くと手を合わせて喜び、身を任せた。

そこで法師は身を寄せて、まず、病者の胸のあたりを舐り給うた。肌は腐乱して泥のようであった。臭いことは例えようもない。はらわたはひっくり返り息も絶えそうであった。そうであっても、慈愛の心は深く臭い匂いを気にもせず、膿んでいる所は、その膿汁を吸って吐き棄てた。
このようにして、首の下より腰の辺りまで舐り下ろされると、法師の舌の跡は、ふつうの肌のようになって治癒していった。法師は、心から喜んだ。
その時、にわかに微妙(ミミョウ・すばらしい)の栴檀や沈水香などのような香りが流れてきた。また、朝日が出てくる時のような光があった。

法師は驚き不思議に思って退いてみると、この病人は、たちまち変じて観自在菩薩と成り給うた。法師は、膝を地につけて掌を合わせてお迎え奉ると、菩薩は、即座に起き上がられると、法師に告げられた。
「汝はまことに清浄にして質直(シチジキ・素直で正しい)の聖人である。汝の心を試みるために、我は病人の姿に変えていたのだ。汝は極めて尊い。されば、我が受け継いできた経典を、速やかに汝に伝授しよう。これを受持し広く世に広めて衆生を導け」と。
菩薩は、経典を授け終わられると、掻き消すように姿を消した。鬼と出会ったときに読誦された心経(般若心経)は、この経典である。霊験あらたかである。

法師は、マカダ国(中天竺にあった)に至り、世無厭寺(セムエンジ・インド仏教の中核的な寺院。)という寺に入山したが、そこには戒賢論師(カイゲンロンシ・同寺の長老)という高僧がおられ、正法蔵(ショウホウゾウ・高僧の敬称)と名付けられていた。
法師はその人にお会いし、弟子となって仏法の伝授を受けた。
正法蔵は、初めて法師を見た時、泣啼(キュウテイ・声を出して泣くこと?)して仰せられた。「私は、長年病んでいて、苦しむことが多い。もう、この身を棄てようとした時、夢の中に三人の天人が現れました。一人目は黄金の色、二人目は瑠璃の色、三人目は白銀の色をしていました。皆、姿が端正なこと、心が及ばないほどでした。そして、この私に『汝の病は、過去世において汝が国王であった時、多くの人民を苦しめたので、今、その報いを受けているのである。速やかに昔の咎(トガ)を悔いて懺悔をすれば、その罪は除かれる』と申されました。私は、その言葉を聞き終わり、礼拝して咎を懺悔しました。すると、金色の天人が瑠璃の天人を指さして、私に言いました。『汝は、この者を誰か知っているか。これは、観自在菩薩である』と。そしてまた、白銀の天人を指さして、『これは慈氏菩薩(弥勒菩薩のこと)である』と申された。そこで、私は、白銀の天人を礼拝し奉って、お尋ねしました。『私は、常に兜率天(トソツテン・弥勒菩薩の浄土。)に生まれたいと願っています。今すぐにもその浄土に生まれて、慈氏(弥勒)を礼拝し奉らんと願っています』と。それに答えて、『汝は、広く仏法を伝えた後に生まれてくるがよい』と仰せられました。さらに、金色の天人は自ら仰せられました。『かく申す我は、文殊菩薩である。我らは、汝にこの事を知らしめるために現れたのである。汝は何も憂うことはない。震旦国の僧がやって来て、汝の弟子となって法を伝授することになるだろう。速やかに伝えなさい』と。そして、そのあと三人は、掻き消すように姿を消されました。その後は、病はよくなり待ち続けていますと、今、震旦国より法師がやってきました。あの時の夢と違うところがありません。されば、あなたに法を伝授しましょう」と。
そして、瓶の水を移すが如く(仏法を師から余さず伝授することに、よく用いられる表現。)に授けられた。

                          ( 以下 (2) に続く )

     ☆   ☆   ☆ 

 

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玄奘法師 天竺へ ( 2 ) ・ 今昔物語 ( 6 - 6 )

2021-07-14 15:31:04 | 今昔物語拾い読み ・ その2

          玄奘法師 天竺へ ( 2 ) ・ 今昔物語 ( 6 - 6 )

             ( 1 ) より続く

玄奘法師は、法の伝授を受けた後、世無厭寺(セムエンジ)を出て由緒ある地を巡礼して回り、さらに他国へ赴こうとされて恒伽河(ゴウガガ・ガンジス川)に至った。
船に乗って八十余人とともに河を下って行った。両岸はうっそうたる林で、草木がぎっしりと生い茂っている。
その時、林の中よりにわかに十余りの船が出て来た。どういう船なのか分からなかったが、何と、盗賊船であった。数人の盗賊が、法師が乗っている船に乗り込んできて、人を打ち衣服を剥ぎ取り財宝を捜している。
ところで、この盗賊たちは、もともと突伽天神(トツカテンジン・バラモン教の一派で崇拝される女神。)に仕えていて、毎年秋ごとに、一人の姿形が美麗な人をさらって殺し、その肉・血を取って天神に祀り、幸福を祈ることをしていた。
そこで、この法師の姿形が端正であられるのを見て、盗賊たちは喜んで、「我らは、天神をお祀りする時期が過ぎようとしているが、思い通りの人物が見当たらない。ところが、ここで端正な沙門(シャモン・僧)を得ることが出来た。この沙門を殺して祀るのに、どうして良くないことがあろうか」と言い合った。

法師はこれをお聞きになると盗賊たちに仰せになられた。「我が身は穢悪(エアク・穢れた醜いもの。不浄。)なれば、殺されても決して惜しいとは思わない。ただ、私が遠い国からやって来たのは、菩提樹の姿・ギシャクツ山(ともに釈迦ゆかりの地。)を巡礼し、ならびに教法を伝授されようと思ったからだ。いまだその願いを成し遂げていない。その私を殺すことは、善ではない」と。
すると、同じ船に乗っていた者たちは、これを聞くと一斉に「この法師を助けてくれ」と乞い求めた。しかし、盗賊たちは決して許そうとしなかった。
盗賊は、すぐに人を遣って水を汲んで来させて、林の中に泥で土壇を造った。それから二人の盗賊が、刀を抜いて法師を引き立て、土檀に上らせて今にも殺そうとした。ところが、法師はいささかも恐れる様子がなかった。盗賊たちはみな、その様子
を見て「奇妙なことだ」と思った。

法師は今まさに殺そうとしているのを見て、盗賊に語りかけた。「願わくば、しばらくの時間をくだされ。その間は殺さないで欲しい」と。盗賊はその申し出を受け入れた。
その時に法師は、一心に兜率天の慈氏菩薩(弥勒菩薩)を念じ奉って、「私は今、殺されて兜率天に生まれて、恭敬供養し奉ります。そして、法をお聞きして返り下って、この盗賊
たちを教化しようと思います」と誓って、十方(あらゆる方向)の仏を礼拝し奉り、正念(ショウネン・一心に祈ること。)に慈氏菩薩を念じ奉る間に、心の内に、須弥山(シュミセン・仏法の世界観において、その中央にそびえる山。)を経て兜率天に昇り、慈氏菩薩が妙宝台(ミョウホウダイ・慈氏菩薩が座る台。)にお座りになっていて天衆(テンジュ・天人たち)に囲まれているのを見た。その間、法師の心は喜びに満ち溢れ、土檀にいるということを忘れ、盗賊たちがいるということも思うことなく、まるで眠っているようであった。
その時、同船の人々は、全員が声をあげて泣いた。

すると、突然黒い風が四方から吹き出して、多くの木を折り、河の流れは浪が高くなり船は大きく揺れる。
盗賊たちはこれを見て大いに驚き、同船の人に尋ねた。「あの沙門は、いずれから来たのか。また、名は何というのか」と。「震旦国よりやって来て、仏法を修行する人である。もしこの人を殺せば、その罪は無量(果てしないほど重い)である。よく風や波の様子を見るがよい。天衆はすでに怒っているのだ」と答えた。
盗賊はこれを聞いて悔いる心が起き、手で以って体を揺すって法師を起こすと、法師は眼を見開いて、「処刑の時が来たのか」と尋ねられた。
盗賊は、「法師を害することは致しません。願わくば、我らの懺悔をお受けください」と言って礼拝した。
法師は、「殺盗の行為は、無間地獄の苦しみを受けることになる。どうして、明日の露のごとき身であるのに、阿僧祇劫(アソウギコウ・無限の長い時間)の業を造るのか」と仰せられた。盗賊はこれを聞くと、頭を叩いて悔い悲しんで、「我ら、今日よりこの悪行を断ちます。願わくば、師よ、これを証明してください」と言うと、奪った衣服や財宝を皆返して、五戒(ゴカイ・最も基本的な守るべき戒律。)を受けた。
すると、風や波は止んで静かになった。

それよりまた、法師は仏の遺跡や寺院などを詣で、返ろうとなされた時、天竺の戒日王(カイニチオウ・中天竺にある国の王)は法師に帰依して様々な財宝を与えられた。その中に、一つの鍋があった。入っている物を取っても取っても尽きることがなかった。また、その中の物を食べた人は病になることがない。伝来の宝物であるものを、法師の徳行を尊んで、与えられたのである。
法師はそれを頂いて帰途についたが、信度河(シンドガ・インダス川)という河を渡ろうとされたが、河の真ん中で船が傾いて多くの経典などが皆沈んでしまった。その時、法師は大願を立てて祈られたが、その効験がなかった。
法師は、「この船が傾いたのには、きっと何かわけがあるのだろう。もしや、この船に竜王の欲する物があるのだろうか。それならば、その験(シルシ)を見せてください」と仰せられた。すると、河の中より翁が現れて、この鍋を乞うた。法師は、「多くの経典を沈めるよりは、この鍋を与えよう」と思われて、河に鍋を投げ入れ給うと、河が鎮まり安全に渡ることが出来た。このようなことを受けて法師を帰依し給うこと限りなかった。(この文、誰がが帰依したのか、よく分かりません。)
いわゆる、玄奘三蔵と申されるのは、この人のことである。

法相大乗宗(法相宗。わが国では、興福寺・薬師寺などに伝わる。)の法は、未だ絶えることなく盛んである、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆ 

 

 

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胎蔵界曼陀羅 ・ 今昔物語 ( 6 - 7 )

2021-07-14 15:30:36 | 今昔物語拾い読み ・ その2

          胎蔵界曼陀羅 ・ 今昔物語 ( 6 - 7 )


今は昔、
大日如来(ダイニチニョライ・真言密教の教主。)は、一切衆生(イッサイシュジョウ・生きとし生けるもの)を救い護らんがために、胎蔵界の曼陀羅の大法をお説きになって、金剛手菩薩(コンゴウシュボサツ・普賢菩薩とも。)にお伝えになられた。
その後、数百年を経て、金剛手菩薩は中天竺の世無厭寺(セムエンジ)の達磨掬多(ダルマキクタ・619年没。よく知られた達磨大師とは別人。)に伝えられた。達磨はその教法を伝え広めて、斛飯王(コクボンオウ・釈迦の父の浄飯王の弟。)の五十二代の子孫にあたる善無畏(ゼンムイ・738年没。日本渡来伝説があるらしい。)に伝えられた。

その後、震旦の開元七年(719年)という年、善無畏は天竺から胎蔵界の曼陀羅の図を震旦に持って行き、震旦に広めなさった。その時の王、唐の玄宗皇帝は、善無畏を国の師(国王に仏法を教える僧。)として仏典を翻訳させて、再び大曼陀羅を図にして大壇場を設けた。すると、その時、曼陀羅の諸尊は、光を放ち天より細かな華を降らして供養した。
されば、国王および大臣・百官は、皆これを見て礼拝恭敬して尊ぶこと限りなかった。その後、国を挙げて善無畏を帰依し奉った。胎蔵界の曼陀羅の霊験は一つではない。
( 本稿は、ここで終わっているが、常套句の結びがないことや、文章の流れから、この後も続きがあったと考えられるが、不詳です。


     ☆   ☆   ☆

☆ 胎蔵界の曼陀羅(タイゾウカイのマンダラ)・・胎蔵界は、母親が胎内で子供を育てるように、仏が衆生を慈しむことを象徴させている。金剛界と対。 曼陀羅は、それを図案化したもの。
(但し、この説明は全く不十分なものであることは、ご了解ください。)

     ☆   ☆   ☆

 

 

 

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