雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

一番福目指して

2023-01-10 18:58:39 | 日々これ好日

       『 一番福目指して 』

    今朝 「えべっさん」の総本社・兵庫県の西宮神社で
    参拝一番乗りを競う 恒例行事が行われ
    表大門から本殿までを 足自慢が駆け抜けた
    関西のテレビは 朝から繰り返しこのニュースが流されている
    甲子園球児でもあった大学生が 見事一番福を射止めたが
    きっと 良い年になることだろう
    もっとも 「えべっさん」から 
    どの程度のご利益が頂戴できるのかは よく知らないが
    平和な行事であることは確かで ありがたいことだ

                    ☆☆☆

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雲のあはたつ

2023-01-10 08:00:39 | 古今和歌集の歌人たち

       『 雲のあはたつ 』

  憂きめをば よそめとのみぞ のがれゆく
             雲のあはたつ 山の麓に

              作者  あやもち

( 墨滅歌  NO.1105 )
      うきめをば よそめとのみぞ のがれゆく
               くものあはたつ やまのふもとに



* 歌意は、「 世の中の憂きことを よそ事のように振り捨てようと 俗世間から逃れていくのか 雲がわきたつ 山の麓を目指して 」と解釈しました。下にも説明させていただきますが、この歌は重い背景を背負っているように感じるのです。

* この歌は、「墨滅歌(スミメツウタ)」とされる十一首の中の一つです。墨滅歌というのは、本稿が主に参考にさせていただいている「定家本」において、藤原定家が父の俊成が書き残した古今和歌集の「俊成本」の中で、一度は書き記しながら、文字が読める状態で消している作品のことを指します。この作品も、「桂宮下」と記されていますので、本来であれば、「巻第十 物名 No.463 『かつらのみや』作者 源忠」の次に載せられいたはずです。

* したがって、この歌は「物名」の部類に組み入れられていて、和歌の右注(表題)には「 染殿 粟田 」とあり、和歌の中に「そめとの」「あはた」の文字が組み入れられています。その部分だけを取りますと、言葉遊びのような気がしますが、和歌の左注には「 この歌は、水尾の帝の染殿より粟田へ移り給うける時によめる 」とありますので、決して軽い和歌ではないと言えるのです。
オーバーに言えば、歴史の一項目を詠んでいるような気さえするのです。

* 作者の「あやもち」については、情報が極めて少ないようです。
参考書によっては、作者名を「凡の山もち」としています。
この「凡」氏は、古くからの氏族として存在していたようです。ただ後世までは伝えられていないようです。「凡河内」「凡海」という一族がありますが、おそらく、近い関係にあるとは想像するのですが確証がありません。ただ、いずれにしても、この時代においても、公卿を輩出するような一族ではないことは確かでしょう。

* 当時の名前から、男女を単純に区別すると間違いの可能性があります。しかし、この和歌だけからの推定ですが、水尾の帝の側近くに仕えた女官あるいは女房ではないかと推測しました。もし、「あやもち」が男性であれば、これほど近くに仕えていて歌に詠むほどであれば、もう少し情報が残されているはずだと考えたからです。
また、水尾(ミズノオ)の帝とは、第五十六代清和天皇( 850 - 880 )のことですから、この時代前後に活躍した女性ということになります。

* 清和天皇は、文徳天皇の第四皇子ですが、母方の祖父・藤原良房の強引なまでの後見により、三人の兄を退けて、生後八ヶ月で立太子しました。そして、858 年に九歳にして天皇の地位に就きました。在位期間は十八年を超えますが、876 年 11 月、突然第一皇子の貞明親王(陽成天皇)に譲位して太上天皇となります。まだ、二十七歳の頃で、貞明親王は九歳でした。
在位中の政務は、幼少時は当然藤原良房が中心となって担ったことでしょうし、成人後も、天皇の思いを政治に生かすことなどほとんど出来なかったように思われます。この時代は、藤原氏が他の一族を排斥し、藤原氏内でも激しい勢力闘争があり、それらを通して摂関政治が確立されていく時代でもありました。

* 清和天皇は、879 年 5 月に出家、それまで住まいとしていた良房の邸宅染殿を離れて、京都市左京区の南部にある藤原基経の別邸粟田院に移りました。出家後は苦行をともなう激しい修行を行ったと伝えられていて、寿命を縮めることになったことも考えられます。
881 年 1 月(元慶 4 年 1 月 24 日)、粟田院において崩御。三十年八ヶ月の生涯でありました。

* 掲題の和歌は、清和天皇が染殿を離れる時を詠んだものなのです。
清和天皇には、妻ともいえる、女御・更衣・宮人などは伝えられているだけでも三十人に迫ります。その子供の多くは、源氏として臣籍降下していますが、後年の武家社会において、清和源氏は有力な一族を輩出しています。源頼朝、足利尊氏なども清和源氏を名乗る一族なのです。
作者の「あやもち」が、どういう立場の女性であったのかは全く分かりませんが、物心がついた時から皇太子であり、天皇であった人物の、それゆえの心の葛藤や苦しみを側近くで見守っていた一人であったように思われてならないのです。
あと一つか二つのヒントを残してくれていたらと、残念でなりません。

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