田原本町の伊与戸(いよど)。
ここでも閏年の庚申をしていると昭和59年に発刊された『田原本町の年中行事』に載っていた。
庚申講のトアゲのご供配りとして塔婆(庚申杖)を持つ人の姿が写真に残されている。
現在の状況はどうなのであろう。
現地を訪ねるのが一番だろうと思って訪問した。
尼講が営む大師講や村行事の日待ち初集会など度々訪問する伊与戸。
そのときには閏年の庚申のことは聞いていなかった。
かつては綱掛け講もあったが、今はない。
庚申講もそうであるのか、それを確認するのが目的だ。
伊与戸の集落はかつて(室町時代とも)三輪さんに向かう門前町だった。
東西には行き交う人が多かったと先代から聞いていると尼講が話していた。
面影は見られないが街道は商店街のようでコンニャク屋、アブラ屋、トーフ屋、ワタ屋、ゲタ屋、ス屋、ローソク屋、サケ屋、スミ・マキ屋、ショーユ屋、センベイ屋、アメ屋、アンマ屋、カジ屋、サンパツ屋などなど。
今でもその屋号でその家を呼ぶと当日訪れたK家の奥さんは話す。
カシヤ(オカシヤ)と呼ぶ屋号もあったし、ゲタ屋は向いの家だったという。
このように屋号を並べてみれば、町内で商品がそろうまさに商店街。
そんな話をしてくれたK家の玄関脇には二本の木があった。
古い木だ。
目を凝らしてみれば薄らと文字が見えるが、判読できない。
上部には五段の切りこみがある。
僅かに2文字の梵字が見える。
その形はまさに庚申講の塔婆だ。
K家の話によれば伊与戸の閏年の庚申は4年に一度。
かつては旧暦で行っていた。
閏月に当たる日までに行っていたが、いつしか新暦に移った。
伊与戸には三つの講中があった。
西、東、中垣内の3組だそうだ。
庚申の日には掛軸を掲げて拝んでいた。
集まることもしなくなり、掛軸だけを回すようになった。
閏年の庚申には当たったヤドの家がカシの木をこしらえる。
庚申塚に参ることはなかったが、家に掲げた掛軸の前にローソクを灯して豆腐一丁を供える。
そして、般若心経を一巻唱えていた。
豆腐は講中の人数分に分けてヤドの料理で会食をしていた。
ヤド料理はやがてパック詰め料理になったが、一升酒は必ず飲んだという。
寄合を終えれば隣家辺りの各戸にモチを配るが、お菓子は持って帰ると話すK家は西垣内。
東垣内のMさんの話では、信仰が薄れて何年か前までは掛軸を回すだけ講になっていた。
やがて解散するという結論が見出され、大和郡山の小泉に持っていった。
おそらく金輪院の庚申堂であろう。
お堂に行けば誰もいなかった。
仕方なく桂林寺に持っていった。
通称、大和筑紫の庚申さんで呼ばれている桂林寺は真言宗高野山派。
江戸時代に庚申信仰の寺となっって、大青面金剛尊像を本尊とする。
預かるような格好で受け取られたお寺。「いらんかったら持って帰って」と言われたそうだ。
Mさんが話すにはもう一つの講中があったようだ。
おそらく中垣内であろう。
ちなみに伊勢講が行われているとMさんは話す。
2月と田植えを終えた7月にヤドに集まる。
5軒の営みだそうだ。
前述した『田原本町の年中行事』には伊与戸の他にも閏年の庚申講が記されている。
法貴寺の北垣内ではカシの木に刻みを入れて祈願文を書く。
ヤドの門口に砂を盛って立てる。
モチと酒を供えてお寺の住職にお経をあげて庚申さんの「トアゲ(塔上げ)」をしてもらう。
八尾の村方では「トアゲ」を「申し上げ」と呼んでいた。
唐古も「申し上げ」だったが当時の調査段階で消滅していた。
平田は4年に一度の「トアゲ」であった。
八条ではカシの木に祈願文を書いた塔婆を庚申石にあげた。
田原本町では閏年の庚申のことを「トアゲ」或いは「申し上げ」と呼ぶ地域に分かれていたようだ。
(H24. 4.10 EOS40D撮影)
ここでも閏年の庚申をしていると昭和59年に発刊された『田原本町の年中行事』に載っていた。
庚申講のトアゲのご供配りとして塔婆(庚申杖)を持つ人の姿が写真に残されている。
現在の状況はどうなのであろう。
現地を訪ねるのが一番だろうと思って訪問した。
尼講が営む大師講や村行事の日待ち初集会など度々訪問する伊与戸。
そのときには閏年の庚申のことは聞いていなかった。
かつては綱掛け講もあったが、今はない。
庚申講もそうであるのか、それを確認するのが目的だ。
伊与戸の集落はかつて(室町時代とも)三輪さんに向かう門前町だった。
東西には行き交う人が多かったと先代から聞いていると尼講が話していた。
面影は見られないが街道は商店街のようでコンニャク屋、アブラ屋、トーフ屋、ワタ屋、ゲタ屋、ス屋、ローソク屋、サケ屋、スミ・マキ屋、ショーユ屋、センベイ屋、アメ屋、アンマ屋、カジ屋、サンパツ屋などなど。
今でもその屋号でその家を呼ぶと当日訪れたK家の奥さんは話す。
カシヤ(オカシヤ)と呼ぶ屋号もあったし、ゲタ屋は向いの家だったという。
このように屋号を並べてみれば、町内で商品がそろうまさに商店街。
そんな話をしてくれたK家の玄関脇には二本の木があった。
古い木だ。
目を凝らしてみれば薄らと文字が見えるが、判読できない。
上部には五段の切りこみがある。
僅かに2文字の梵字が見える。
その形はまさに庚申講の塔婆だ。
K家の話によれば伊与戸の閏年の庚申は4年に一度。
かつては旧暦で行っていた。
閏月に当たる日までに行っていたが、いつしか新暦に移った。
伊与戸には三つの講中があった。
西、東、中垣内の3組だそうだ。
庚申の日には掛軸を掲げて拝んでいた。
集まることもしなくなり、掛軸だけを回すようになった。
閏年の庚申には当たったヤドの家がカシの木をこしらえる。
庚申塚に参ることはなかったが、家に掲げた掛軸の前にローソクを灯して豆腐一丁を供える。
そして、般若心経を一巻唱えていた。
豆腐は講中の人数分に分けてヤドの料理で会食をしていた。
ヤド料理はやがてパック詰め料理になったが、一升酒は必ず飲んだという。
寄合を終えれば隣家辺りの各戸にモチを配るが、お菓子は持って帰ると話すK家は西垣内。
東垣内のMさんの話では、信仰が薄れて何年か前までは掛軸を回すだけ講になっていた。
やがて解散するという結論が見出され、大和郡山の小泉に持っていった。
おそらく金輪院の庚申堂であろう。
お堂に行けば誰もいなかった。
仕方なく桂林寺に持っていった。
通称、大和筑紫の庚申さんで呼ばれている桂林寺は真言宗高野山派。
江戸時代に庚申信仰の寺となっって、大青面金剛尊像を本尊とする。
預かるような格好で受け取られたお寺。「いらんかったら持って帰って」と言われたそうだ。
Mさんが話すにはもう一つの講中があったようだ。
おそらく中垣内であろう。
ちなみに伊勢講が行われているとMさんは話す。
2月と田植えを終えた7月にヤドに集まる。
5軒の営みだそうだ。
前述した『田原本町の年中行事』には伊与戸の他にも閏年の庚申講が記されている。
法貴寺の北垣内ではカシの木に刻みを入れて祈願文を書く。
ヤドの門口に砂を盛って立てる。
モチと酒を供えてお寺の住職にお経をあげて庚申さんの「トアゲ(塔上げ)」をしてもらう。
八尾の村方では「トアゲ」を「申し上げ」と呼んでいた。
唐古も「申し上げ」だったが当時の調査段階で消滅していた。
平田は4年に一度の「トアゲ」であった。
八条ではカシの木に祈願文を書いた塔婆を庚申石にあげた。
田原本町では閏年の庚申のことを「トアゲ」或いは「申し上げ」と呼ぶ地域に分かれていたようだ。
(H24. 4.10 EOS40D撮影)