桜井市の脇本。地区の5垣内にそれぞれの庚申講が存在する。
旧暦閏年に行われる庚申トウゲの場合は内垣内と町垣内にそれぞれ関係する講中が集まって行事を行っている。
内垣内と町垣内を挟む国道165号線。
まるで境界線のような国道だ。
山麓側の里山集落を通る街道。
それは古代の長谷街道。
そこは西垣内、中垣内、東垣内の並びになる内垣内。
三つの講中はそれぞれにその年の当番にあたるヤドがある。
そのヤドでこしらえたカシの木。
他所では「塔婆」と呼んでいたが名はないという。
脇本のカシの木はとてつもなく長い。
およそ4mもあるのではないかと思ったぐらいだ。
三つの講とも葉をつけたまま切りだした。
一面を削ったところに願文が書かれている。
一つは「奉納 猿田彦尊 千日祭 五穀豊穣 家内安泰祈願 平成二十四年四月十四日 ○○○○」で、二つ目が「奉祀 庚申宮 壱千日祭 椿神社 猿田彦大神 講中安全」。
もう一つは「奉納 猿田彦 千日祭 五穀豊就 ○○○○ 祈願」とあった。
○○○○はヤド家の当主の名である。
夕方、日が暮れる前に集まった内垣内の3講中。
村の妙楽寺・大日堂の傍らにある庚申堂に集まってくる。
石仏の庚申さんは僅かだが青や赤色の彩色が見られる青面金剛童子。
下部には(右より)イワザル、ミザル、キカザルの三体猿。
童子は(上)右手に法輪、左手は錫杖(しゃくじょう)。
(下)右手に独鈷(どっこ)、左手に弓を持つ。
手前の手は錫と数珠であろうか。
いずれにしても六臂(ろっぴ)の姿の童子である。
その前に立て掛けた庚申杖と一輪の花立て。
お盆などに入れたモチを供える。
ローソクを灯して祭典が行われる。
斎主は村の神主さん。
祓えの儀や祝詞奏上など神事にそって進上される。
脇本の旧暦閏年の庚申はトウゲとも呼ばれるが「千日祭」とも。
旧暦閏年から翌閏年の月までの期間が千日間もあるからそういう千日祭。
「講中の家内安全、五穀豊穣を千日間も守っているのだ」と神主は云う。
また、一つの木には「椿神社」と書かれている。
もしかとすればだが、と前置きされて話す講中の一人は「妙楽寺横の神社であるのかも知れない」と云う。
それは猿田彦大神を祀る神社なのであろうか。
春日神社の祭祀、頭屋渡しにおける三社巡拝される社はイワクラさんと弁天さんの二つの社。
違和感がある。
脇本から西方の大字慈恩寺に鎮座する玉列(たまつら)神社がある。
そこは玉椿大明神(たまつばきだいみょうじん)」を祀る神社だ。
それであるのか・・・。
「椿神社」と「猿田彦大神」の二つのキーワードから思い起こすのが伊勢の椿大神社(つばきおおかみやしろ)。
長谷街道を東へ東へと向かえば伊勢本街道。
伊勢詣での街道である。
庚申と猿田彦が繋がったのではないだろうか。
庚申の青面金剛と関わりのない猿が何故に繋がったのか判らないが、脇本の青面金剛童子台座には三猿が彫られている。
三猿を三尸(さんし)の虫になぞらえて「見ざる、言わざる、聞かざる」。
つまり天帝に罪を報告させないというこじつけが江戸時代に庚申信仰に加えられたという説もある。
同時期、神道系は庚申の「申」を「猿」に転化し関係をもった猿田彦を祀ったという説もある。
脇本のそれは当てはまるかどうか判然としないが、その流れがあったことには違いないだろう。
それぞれの講中はカシの木を担いで再びヤドに戻っていく。
既知にある東垣内のヤド家では10人の講中が庚申の掛軸を掲げた座敷に上がっていた。
現在は簡略化されてお茶とお菓子で寄り合う。
昔は冷ややっこの豆腐一丁にセキハン、吸い物(味噌汁)、巻き寿司、パック詰め料理なども配膳されたが大幅に略されたという。
いずれの講もそうされているようだと話す。
(H24. 4.14 EOS40D撮影)
旧暦閏年に行われる庚申トウゲの場合は内垣内と町垣内にそれぞれ関係する講中が集まって行事を行っている。
内垣内と町垣内を挟む国道165号線。
まるで境界線のような国道だ。
山麓側の里山集落を通る街道。
それは古代の長谷街道。
そこは西垣内、中垣内、東垣内の並びになる内垣内。
三つの講中はそれぞれにその年の当番にあたるヤドがある。
そのヤドでこしらえたカシの木。
他所では「塔婆」と呼んでいたが名はないという。
脇本のカシの木はとてつもなく長い。
およそ4mもあるのではないかと思ったぐらいだ。
三つの講とも葉をつけたまま切りだした。
一面を削ったところに願文が書かれている。
一つは「奉納 猿田彦尊 千日祭 五穀豊穣 家内安泰祈願 平成二十四年四月十四日 ○○○○」で、二つ目が「奉祀 庚申宮 壱千日祭 椿神社 猿田彦大神 講中安全」。
もう一つは「奉納 猿田彦 千日祭 五穀豊就 ○○○○ 祈願」とあった。
○○○○はヤド家の当主の名である。
夕方、日が暮れる前に集まった内垣内の3講中。
村の妙楽寺・大日堂の傍らにある庚申堂に集まってくる。
石仏の庚申さんは僅かだが青や赤色の彩色が見られる青面金剛童子。
下部には(右より)イワザル、ミザル、キカザルの三体猿。
童子は(上)右手に法輪、左手は錫杖(しゃくじょう)。
(下)右手に独鈷(どっこ)、左手に弓を持つ。
手前の手は錫と数珠であろうか。
いずれにしても六臂(ろっぴ)の姿の童子である。
その前に立て掛けた庚申杖と一輪の花立て。
お盆などに入れたモチを供える。
ローソクを灯して祭典が行われる。
斎主は村の神主さん。
祓えの儀や祝詞奏上など神事にそって進上される。
脇本の旧暦閏年の庚申はトウゲとも呼ばれるが「千日祭」とも。
旧暦閏年から翌閏年の月までの期間が千日間もあるからそういう千日祭。
「講中の家内安全、五穀豊穣を千日間も守っているのだ」と神主は云う。
また、一つの木には「椿神社」と書かれている。
もしかとすればだが、と前置きされて話す講中の一人は「妙楽寺横の神社であるのかも知れない」と云う。
それは猿田彦大神を祀る神社なのであろうか。
春日神社の祭祀、頭屋渡しにおける三社巡拝される社はイワクラさんと弁天さんの二つの社。
違和感がある。
脇本から西方の大字慈恩寺に鎮座する玉列(たまつら)神社がある。
そこは玉椿大明神(たまつばきだいみょうじん)」を祀る神社だ。
それであるのか・・・。
「椿神社」と「猿田彦大神」の二つのキーワードから思い起こすのが伊勢の椿大神社(つばきおおかみやしろ)。
長谷街道を東へ東へと向かえば伊勢本街道。
伊勢詣での街道である。
庚申と猿田彦が繋がったのではないだろうか。
庚申の青面金剛と関わりのない猿が何故に繋がったのか判らないが、脇本の青面金剛童子台座には三猿が彫られている。
三猿を三尸(さんし)の虫になぞらえて「見ざる、言わざる、聞かざる」。
つまり天帝に罪を報告させないというこじつけが江戸時代に庚申信仰に加えられたという説もある。
同時期、神道系は庚申の「申」を「猿」に転化し関係をもった猿田彦を祀ったという説もある。
脇本のそれは当てはまるかどうか判然としないが、その流れがあったことには違いないだろう。
それぞれの講中はカシの木を担いで再びヤドに戻っていく。
既知にある東垣内のヤド家では10人の講中が庚申の掛軸を掲げた座敷に上がっていた。
現在は簡略化されてお茶とお菓子で寄り合う。
昔は冷ややっこの豆腐一丁にセキハン、吸い物(味噌汁)、巻き寿司、パック詰め料理なども配膳されたが大幅に略されたという。
いずれの講もそうされているようだと話す。
(H24. 4.14 EOS40D撮影)