<ヨゴミにドヤモチ>
都祁山口神社の御田祭はかつて4月23日に行われていた奈良市都祁小山戸。
この日をレンゾと呼んでいたようだ。
副社守を勤めた70歳のKさんの話ではヨゴミモチを各戸で作っていたという。
真ん中にアンコを入れて作ったモチ。
ヨゴミの呼び名をする地域は多々ある。
大和郡山市の番条町に住むU家の奥さんもそう云っていた。
長安寺町で育ったKさんは4月3日を神武レンドと呼んで、天理市富堂町の実家に大勢集まってヨゴミダンゴを作るなどご馳走よばれた。
マツリのときはヨゴミモチだったと話す。
小山戸のK家では「ケンズイやというて、家族や「ユイ」と呼ぶ手伝いさんらと作ったドヤモチも田んぼで食べた」という。
それを食べるのは田植え前。
ハクマイをモチゴメに混ぜて搗いたドヤモチにキナコを塗して食べたという。
ドヤモチの呼称は大和郡山市の矢田町で聞いたことがある。
とんどの火で焼くモチの一つにドヤモチがあった。
つぶつぶの米が以外と美味い。
先だって旧暦閏年の庚申トウゲをされた桜井市の脇本。
内垣内に住むM家には度々お邪魔する。
「庚申さんが終わったら寄ってけ」と招待されてあがったお家。
今か今かと待っていたそうだ。
当家ではモチはいつもある。
座敷に上がる度に出されるモチ。
その日はドヤモチだった。
コエビを入れているから赤い色のドヤモチになった。
(H24. 4.14 SB932SH撮影)
焼いて醤油でいただく。
お嫁さんが作ったオイナリサンも食べていけと言われるがお腹はいっぱい。
パックに入れてもらって持ち帰ったことを思い出す。
それはともかく小山戸のK家では夏神楽の行事の日にはボタモチを作って食べるという。
モチは昔からご馳走だった。
<ケカケゴモリ>
話は長くなった小山戸のこと。
明治の頃はカンジョナワをしていたそうだ。
それは随分前のことだが神社のどの辺りであったのだろうか。
記録がないから判らない。
今でも行われている神社の行事の一つにケカケゴモリがある。
この年は5月27日を予定しているという。
ケカケゴモリを漢字に充てれば毛掛籠。
田植えが終わったことを氏神さんに報告する行事である。
その日は各家が作ったご馳走を持ち寄って会食するようだ。
11月23日はコウザがある。
漢字を充てれば古座だ。
大字入りするトウニンゴ(頭人児であろうか)を祝いに家でお披露目をする。
トウニンゴは長男と決まっている。
古座とは別に新座もあるそうだが、トウニンゴがあるのは古座だけのようだ。
12月の冬至の日はフリアゲの儀式がある。
神社の社守、副社守に副副社守を決めるクジを引く。
引くといっても、穴を開けたダンボールを振り上げてクジを引く作法である。
また、4月21日は小山戸と相河の両村の大師講のお勤めがあり安楽寺に寄り合うという。
<カラスノモチ>
同行の調査取材をされたF女史から聞いた話。
平成18年に取材したおりに教えてくださったK氏の話である。
それによれば、「ゴンゲンサンのトリノエサ」と呼ぶ風習があったという。
クワの上にモチを12個入れて、クリの木かカキの木の下に置いた。
その際に唱えた台詞は「カラスコイ モチヤルゾ ジャクロミッツト カイコトショ」である。
正月用のモチを搗いたときにしていたそうだ。
よく似た風習がある。
「ジャクロ」は柘榴のことだ。
それ3個と交換を願うカラスのモチ。天理市の藤井のNさんや奈良市長谷町のN家で伺ったカラスノモチとよく似た様相である。
藤井のNでは家では、年末の12月30日には家のモチを搗く。
残りのモチを小さくちぎって木の枝の先に挿す。
モチは12個。
それを四角い升に入れて庭に出る。
そして「カラコ カラコ モチやるわ ザクロ三つと替えことしょ」と言って枝に挿す。
どういう意味があるのか、おまじないであるのか判らないという。
閏年の場合は13個にするというから一年の月数には違いない。
実によく似た台詞が囃されるカラスノモチである。
長谷のN家はモチを藁束にいれたものを樹木にぶら下げる。
山に住む野鳥がこのモチを食べるのだという。
野鳥はたいがいがカラス。
ぶら下げた直後にやってくるカラス。
だからかどうかは判らないがこれをカラスノモチと呼んでいる。
(H23. 1. 6 EOS40D撮影)
また、誓多林町では大晦日に八阪神社へカラスドンノモチを供えるというN家の風習がある。
テンノウサンとも呼ばれる神社に垂らす注連縄と共にツツジの木の枝にモチを付けて供える。
閏年のときは13個になるというから同じような風習であろう。
四つの事例は共に山の鳥獣らに施しをするモチだと思われる。
<ナリ木責めのナルカナランカ>
もう一つは「ナルカナランカ」である。
2月の年越しの日にオカユ(粥)を炊いた。
庭の木に傷をつけて「ナルカナランカ」をしたという。
その日がとんどの日であったのか記憶が曖昧だという。
その話を聞いて思い出したのが宇陀市本郷で聞き取りした様相。
1月14日の明くる日はどんど。
その朝早く、どんどで燃やした灰を田んぼに持っていく。
その際に「ホイ、ホイ、ホイ」と言って灰を撒く。
灰は三つ掴み。
「ホイ」と言って畑の隅に一回撒く。
次も「ホイ」と言って撒く。
これを三連続一挙にするから「ホイ、ホイ、ホイ」とお囃子のような作法。
「撒く」という行為は、実際には「盛る」様相らしい。
どんどの火は家へ持って帰って竈にくべた。
その火で夕ご飯を炊いた。
ぜんざいのようなおかゆだそうでモチを入れるという。
アズキ粥というから小豆も入っているお粥。
そのアズキ粥は二股になった柿の木に置く。
そこをナタで傷を付ける切り口に向かって「なるか、ならんか」と台詞をいう。
そして「なります、なります」と答える。
「ならぬ」という答えはないそうだ。
アズキ粥を切り口に置くのは消毒だと話される行為はとても不思議なものであるが昔のことだと言った。
都祁南之庄に住むMさんも「ナルカナランカ」を覚えているという。
カキの木になにかを供えていたようだという記憶は子供のころ。
年寄りがしていたときに掛けた詞が「ナルカナランカ」だったそうだ。
さらに天理市の苣原でもそういう行為をしていた話を聞いたことがある。
ハシにカラスのモチ(カキの木団子とも)付けて子どもが「なりますか、なりませんか」と足で蹴ったという。
それは随分前のことで「今はしてないなぁ」といった。
奈良市別所町に住むO婦人もそのことを覚えていると云う。
正月七日の七草の日だった。
一人の子どもがカキの木にナタをチョンとして「なるかならんか」と発した。
そうするともう一人の子どもが「なります なります」と云った。
親が「なるかならんかをしてこい」と云うのでそうしていた。
二人は男の子だったそうだ。
そのときには、木の下にオモチやホシガキ、ミカンを供えたという。
昭和59年に発刊された『田原本町の年中行事』にその「ナルカナランカ」の事例が紹介されている。
とんどの翌朝の「なり木責め」である。
正月のとんど行事を支えていた子どもは木に向かってその問答をするとある。
子どもはとんどで燃え残った竹の棒をもって家々を巡った。
その家にある木は実のなる木。
それは特に柿の木だった。
そこで囃した問答が「なるか、ならぬか」に対して「なります、なります」と自問自答して走り回った。
現在はなくなった「なりきぜめ」の風習である。
それと同じ風習があった御杖村の「ナルカナラヌカ」。
15日の朝に炊いたアズキガユを柿の木に供える。
そのとき、一人は鉈を持って「なるかならぬか、ならぬと ちょんぎるぞ」と唱える。
一方の一人は「なります、なります」と応えてから柿の木に供えたと中田太造氏著の『大和の村落共同体と伝承文化』に記されていた。
その行為は曽爾村でも行われていたようだ。
柿の木へ子どもと二人で出かけて鉈目を付ける。
そこにアズキガユを流し込んで一人が「なるか、ならんか」と言えば、子どもが「なります、なります」と応える。
こうすれば柿の木がよくなるというから実成りの行為であろう。
『大和の村落共同体と伝承文化』には田原本町の事例も紹介されている。
佐味や薬王寺ではとんどの火の竹の燃えさしを貰ってきて15日の朝にアズキガユを炊いた。
その燃えさしで子どもが家の柿の木を殴り倒して「なるかならんか、なったら、モチくわすが、ならんだらモチくわさん」と言ってアズキガユを供えた。
「なりきぜめ」は実成りの豊作を願う行為と考えられ、とんどと関連する正月初めに行われていた各地の風習であったと思う。
翌月に聞き取った山添村に在住する当主は今でも「ナルカナランカ」をしているという。
田にある柿の木に鉈をあてて皮を削ぐ。
そうすれば口が開く。
そこにとんどの火で炊いたアズキガユを供える。
アズキガユは正月の若水さんに浸けたモチも入れたものだと話す。
鉈で切る「ナルカナランカは」それをするのは大人でも子どもでも構わないようだ。
<サブラケ>
さらには田植え初めの「サブラケ」もしていたという小山戸のK氏の談話。
水を張った田んぼに12本のカヤと苗を挿す。
道から田んぼに入るコゴチに挿すそうだ。
また、クリの木の股に切った紙を付ける。
おそらく御幣であろう。
竹の枝に一つのフキダワラを括りつけた。
フキダワラにはご飯と煎ったコガシの麦と黒豆を包んでいた。
全ての田植えを終えればカシワベントウを作って食べたという貴重な風習は山間各地で行われている田植え初めの風習の一例である。
(H24. 4.22 記)
都祁山口神社の御田祭はかつて4月23日に行われていた奈良市都祁小山戸。
この日をレンゾと呼んでいたようだ。
副社守を勤めた70歳のKさんの話ではヨゴミモチを各戸で作っていたという。
真ん中にアンコを入れて作ったモチ。
ヨゴミの呼び名をする地域は多々ある。
大和郡山市の番条町に住むU家の奥さんもそう云っていた。
長安寺町で育ったKさんは4月3日を神武レンドと呼んで、天理市富堂町の実家に大勢集まってヨゴミダンゴを作るなどご馳走よばれた。
マツリのときはヨゴミモチだったと話す。
小山戸のK家では「ケンズイやというて、家族や「ユイ」と呼ぶ手伝いさんらと作ったドヤモチも田んぼで食べた」という。
それを食べるのは田植え前。
ハクマイをモチゴメに混ぜて搗いたドヤモチにキナコを塗して食べたという。
ドヤモチの呼称は大和郡山市の矢田町で聞いたことがある。
とんどの火で焼くモチの一つにドヤモチがあった。
つぶつぶの米が以外と美味い。
先だって旧暦閏年の庚申トウゲをされた桜井市の脇本。
内垣内に住むM家には度々お邪魔する。
「庚申さんが終わったら寄ってけ」と招待されてあがったお家。
今か今かと待っていたそうだ。
当家ではモチはいつもある。
座敷に上がる度に出されるモチ。
その日はドヤモチだった。
コエビを入れているから赤い色のドヤモチになった。
(H24. 4.14 SB932SH撮影)
焼いて醤油でいただく。
お嫁さんが作ったオイナリサンも食べていけと言われるがお腹はいっぱい。
パックに入れてもらって持ち帰ったことを思い出す。
それはともかく小山戸のK家では夏神楽の行事の日にはボタモチを作って食べるという。
モチは昔からご馳走だった。
<ケカケゴモリ>
話は長くなった小山戸のこと。
明治の頃はカンジョナワをしていたそうだ。
それは随分前のことだが神社のどの辺りであったのだろうか。
記録がないから判らない。
今でも行われている神社の行事の一つにケカケゴモリがある。
この年は5月27日を予定しているという。
ケカケゴモリを漢字に充てれば毛掛籠。
田植えが終わったことを氏神さんに報告する行事である。
その日は各家が作ったご馳走を持ち寄って会食するようだ。
11月23日はコウザがある。
漢字を充てれば古座だ。
大字入りするトウニンゴ(頭人児であろうか)を祝いに家でお披露目をする。
トウニンゴは長男と決まっている。
古座とは別に新座もあるそうだが、トウニンゴがあるのは古座だけのようだ。
12月の冬至の日はフリアゲの儀式がある。
神社の社守、副社守に副副社守を決めるクジを引く。
引くといっても、穴を開けたダンボールを振り上げてクジを引く作法である。
また、4月21日は小山戸と相河の両村の大師講のお勤めがあり安楽寺に寄り合うという。
<カラスノモチ>
同行の調査取材をされたF女史から聞いた話。
平成18年に取材したおりに教えてくださったK氏の話である。
それによれば、「ゴンゲンサンのトリノエサ」と呼ぶ風習があったという。
クワの上にモチを12個入れて、クリの木かカキの木の下に置いた。
その際に唱えた台詞は「カラスコイ モチヤルゾ ジャクロミッツト カイコトショ」である。
正月用のモチを搗いたときにしていたそうだ。
よく似た風習がある。
「ジャクロ」は柘榴のことだ。
それ3個と交換を願うカラスのモチ。天理市の藤井のNさんや奈良市長谷町のN家で伺ったカラスノモチとよく似た様相である。
藤井のNでは家では、年末の12月30日には家のモチを搗く。
残りのモチを小さくちぎって木の枝の先に挿す。
モチは12個。
それを四角い升に入れて庭に出る。
そして「カラコ カラコ モチやるわ ザクロ三つと替えことしょ」と言って枝に挿す。
どういう意味があるのか、おまじないであるのか判らないという。
閏年の場合は13個にするというから一年の月数には違いない。
実によく似た台詞が囃されるカラスノモチである。
長谷のN家はモチを藁束にいれたものを樹木にぶら下げる。
山に住む野鳥がこのモチを食べるのだという。
野鳥はたいがいがカラス。
ぶら下げた直後にやってくるカラス。
だからかどうかは判らないがこれをカラスノモチと呼んでいる。
(H23. 1. 6 EOS40D撮影)
また、誓多林町では大晦日に八阪神社へカラスドンノモチを供えるというN家の風習がある。
テンノウサンとも呼ばれる神社に垂らす注連縄と共にツツジの木の枝にモチを付けて供える。
閏年のときは13個になるというから同じような風習であろう。
四つの事例は共に山の鳥獣らに施しをするモチだと思われる。
<ナリ木責めのナルカナランカ>
もう一つは「ナルカナランカ」である。
2月の年越しの日にオカユ(粥)を炊いた。
庭の木に傷をつけて「ナルカナランカ」をしたという。
その日がとんどの日であったのか記憶が曖昧だという。
その話を聞いて思い出したのが宇陀市本郷で聞き取りした様相。
1月14日の明くる日はどんど。
その朝早く、どんどで燃やした灰を田んぼに持っていく。
その際に「ホイ、ホイ、ホイ」と言って灰を撒く。
灰は三つ掴み。
「ホイ」と言って畑の隅に一回撒く。
次も「ホイ」と言って撒く。
これを三連続一挙にするから「ホイ、ホイ、ホイ」とお囃子のような作法。
「撒く」という行為は、実際には「盛る」様相らしい。
どんどの火は家へ持って帰って竈にくべた。
その火で夕ご飯を炊いた。
ぜんざいのようなおかゆだそうでモチを入れるという。
アズキ粥というから小豆も入っているお粥。
そのアズキ粥は二股になった柿の木に置く。
そこをナタで傷を付ける切り口に向かって「なるか、ならんか」と台詞をいう。
そして「なります、なります」と答える。
「ならぬ」という答えはないそうだ。
アズキ粥を切り口に置くのは消毒だと話される行為はとても不思議なものであるが昔のことだと言った。
都祁南之庄に住むMさんも「ナルカナランカ」を覚えているという。
カキの木になにかを供えていたようだという記憶は子供のころ。
年寄りがしていたときに掛けた詞が「ナルカナランカ」だったそうだ。
さらに天理市の苣原でもそういう行為をしていた話を聞いたことがある。
ハシにカラスのモチ(カキの木団子とも)付けて子どもが「なりますか、なりませんか」と足で蹴ったという。
それは随分前のことで「今はしてないなぁ」といった。
奈良市別所町に住むO婦人もそのことを覚えていると云う。
正月七日の七草の日だった。
一人の子どもがカキの木にナタをチョンとして「なるかならんか」と発した。
そうするともう一人の子どもが「なります なります」と云った。
親が「なるかならんかをしてこい」と云うのでそうしていた。
二人は男の子だったそうだ。
そのときには、木の下にオモチやホシガキ、ミカンを供えたという。
昭和59年に発刊された『田原本町の年中行事』にその「ナルカナランカ」の事例が紹介されている。
とんどの翌朝の「なり木責め」である。
正月のとんど行事を支えていた子どもは木に向かってその問答をするとある。
子どもはとんどで燃え残った竹の棒をもって家々を巡った。
その家にある木は実のなる木。
それは特に柿の木だった。
そこで囃した問答が「なるか、ならぬか」に対して「なります、なります」と自問自答して走り回った。
現在はなくなった「なりきぜめ」の風習である。
それと同じ風習があった御杖村の「ナルカナラヌカ」。
15日の朝に炊いたアズキガユを柿の木に供える。
そのとき、一人は鉈を持って「なるかならぬか、ならぬと ちょんぎるぞ」と唱える。
一方の一人は「なります、なります」と応えてから柿の木に供えたと中田太造氏著の『大和の村落共同体と伝承文化』に記されていた。
その行為は曽爾村でも行われていたようだ。
柿の木へ子どもと二人で出かけて鉈目を付ける。
そこにアズキガユを流し込んで一人が「なるか、ならんか」と言えば、子どもが「なります、なります」と応える。
こうすれば柿の木がよくなるというから実成りの行為であろう。
『大和の村落共同体と伝承文化』には田原本町の事例も紹介されている。
佐味や薬王寺ではとんどの火の竹の燃えさしを貰ってきて15日の朝にアズキガユを炊いた。
その燃えさしで子どもが家の柿の木を殴り倒して「なるかならんか、なったら、モチくわすが、ならんだらモチくわさん」と言ってアズキガユを供えた。
「なりきぜめ」は実成りの豊作を願う行為と考えられ、とんどと関連する正月初めに行われていた各地の風習であったと思う。
翌月に聞き取った山添村に在住する当主は今でも「ナルカナランカ」をしているという。
田にある柿の木に鉈をあてて皮を削ぐ。
そうすれば口が開く。
そこにとんどの火で炊いたアズキガユを供える。
アズキガユは正月の若水さんに浸けたモチも入れたものだと話す。
鉈で切る「ナルカナランカは」それをするのは大人でも子どもでも構わないようだ。
<サブラケ>
さらには田植え初めの「サブラケ」もしていたという小山戸のK氏の談話。
水を張った田んぼに12本のカヤと苗を挿す。
道から田んぼに入るコゴチに挿すそうだ。
また、クリの木の股に切った紙を付ける。
おそらく御幣であろう。
竹の枝に一つのフキダワラを括りつけた。
フキダワラにはご飯と煎ったコガシの麦と黒豆を包んでいた。
全ての田植えを終えればカシワベントウを作って食べたという貴重な風習は山間各地で行われている田植え初めの風習の一例である。
(H24. 4.22 記)