旧暦閏年の3月末か4月初めころに旧暦閏年の庚申「トアゲ」の行事が行われている桜井市芹井。
上、中、笹平、乾の4垣内それぞれの日を決めて参っている。
庚申塚は下の垣内と上の垣内それぞれにある。
下の垣内は笹平と乾垣内に挟まれた河谷川に架かる河谷橋の袂。
大正三年三月、芹井道路開通記念の碑が建つ傍だ。
笹平は既に3月末に参られた。
そのときに奉られたゴクダイ、花立て、葉付き杉の木の塔婆が残されている。
塔婆の願文は「奉造立為 青面金剛供養 家内安全五穀成就 子孫長久祈願成 笹平垣内講中」とある。
花立てにはシキビがあった。
ゴクダイはモチダイとも呼ぶようだ。
竹の先を8本に割いて丸い藁を挿していた。
この日の朝は乾垣内の庚申トアゲ。
ヤドの家に4人の講中が集まってきた。
前回は平成21年。それから3年経った旧暦閏年。
手際良く花立てやゴクダイを作っていく。
形態は笹平垣と同じであるようだが、ゴクダイ作りが難しい。
ゴクダイの藁縄は円形。
中に割いた竹を回るくして、その周りに綱を巻いていく。
しっかりと巻いていく。
それが裏目にでたのか8本に割いた竹の先が挿しこめない。
堅めになったので先が入らないのだ。
1本、2本、3本と途中までは難なく挿せる。
ところが7本目辺りで最初に挿した辺りがピンと外れるのだ。
いろいろと工夫をしてみるものの上手くいかない。結局は針金で縛り止めすることにしたゴクダイだった。
それらが出来上がれば葉付きの杉の木の塔婆作り。
上部5段の削り込みはノコと小刀。
その下はナタで削る。
それぞれに願文が記される。
塔婆の願文は大正十一年4月から始まったとされる「乾垣内共屋金明細帳」に残された塔書方に基づく「・・・・・ 奉造立為 面金剛供養 家内安全五穀成就 子孫長久祈願成」。
裏面は「・・・年月日 大字芹井乾垣内講中」である。
「・・・・・」の梵字通りに書き写す。
その明細帳には四人の名がある。
大正十一年四月七日庚申供養・・味淋 アゲ五枚 汁子 供養木割附法 小人四才ヨリ十五才を半額 大人十六才ヨリ壱人前糯米四合トス 稉米割附法 大人十六才以上壱合宛 小人四才ヨリ十五才迄五合宛などの記載があった。
子供も大人も割附配分されていたようだ。
しかも十六才からは一人前の大人扱いである。
大正十四年四月二十二日、昭和参年参月十日、昭和五年四月二十九日に続いて昭和二年道路修繕の件も記されていた。
昭和八年四月二十日には入費に酒弐合、砂糖二斤、あげ拾枚も書かれていた。
酒は理解できるが砂糖は何に使ったのであろうか。
その後の記帳には菓子、豆腐五丁、ちりめんじゃこも見られた。
昭和拾弐年三月三十日には地蔵堂落成式が行われたようだ。
昭和三十五年四月一日には桜えび、小ざこ、ニヤク、スゴ、あげもある。
昭和三十八年三月三日ではトーフ、ニヤク、竹ワ、アゲ、雑子、かますご、砂糖、さいら、菓子など。
ニヤクはおそらくコンニャクで雑子はジャコ。
味付けや料理の内容は判らないが、献立は決まっていたのだろう。
その後の記載にはすし雑子、みりん・さいら、みりん干しなど。
献立は多彩に増えて、さらだ、みかん、造り、ハム、キュウリ、マカロニも見られるようになった。
平成二年四月一日、平成四年弐月拾壱日、平成七年三月五日、平成十年三月二十七日、平成十三年四月一日、平成十六年弐月二十九日、平成十八年四月二日と連綿と継承してきた乾垣内の明細帳。
大切な村の記録である。
すべてのモノが出来上がれば庚申塚に参って庚申講の供養をされる。
庚申石は青面金剛が彫られた石。
祠に祀っている。
古くなったからそろそろ建て替えねばばらないと講中は話す。
重箱に入れたモチはゴクダイに載せるわけでもなく庚申石の前に置いた。
ローソクを灯して一同が手を合わせる。
村の五穀豊穣を祈った後は宿(ヤド)家に再び集まる。
掛け軸は2幅だ。
左に青面金剛の掛軸。右はおひまっつあん(お日待ち)の掛軸だという。
その前にはそれぞれ4品の椀。
ご飯の椀。カマボコと豆腐の汁椀。
味付けした豆椀。
タケノコ、ニンジン、シイタケ、カマボコの煮もの椀だ。
ローロクに火を灯して手を合わせる。
念仏を申すわけでもなく心の中で静かに祈られた。
笹平垣内も同じように庚申講はお日待ちを兼ねている。
(H24. 4.15 EOS40D撮影)
上、中、笹平、乾の4垣内それぞれの日を決めて参っている。
庚申塚は下の垣内と上の垣内それぞれにある。
下の垣内は笹平と乾垣内に挟まれた河谷川に架かる河谷橋の袂。
大正三年三月、芹井道路開通記念の碑が建つ傍だ。
笹平は既に3月末に参られた。
そのときに奉られたゴクダイ、花立て、葉付き杉の木の塔婆が残されている。
塔婆の願文は「奉造立為 青面金剛供養 家内安全五穀成就 子孫長久祈願成 笹平垣内講中」とある。
花立てにはシキビがあった。
ゴクダイはモチダイとも呼ぶようだ。
竹の先を8本に割いて丸い藁を挿していた。
この日の朝は乾垣内の庚申トアゲ。
ヤドの家に4人の講中が集まってきた。
前回は平成21年。それから3年経った旧暦閏年。
手際良く花立てやゴクダイを作っていく。
形態は笹平垣と同じであるようだが、ゴクダイ作りが難しい。
ゴクダイの藁縄は円形。
中に割いた竹を回るくして、その周りに綱を巻いていく。
しっかりと巻いていく。
それが裏目にでたのか8本に割いた竹の先が挿しこめない。
堅めになったので先が入らないのだ。
1本、2本、3本と途中までは難なく挿せる。
ところが7本目辺りで最初に挿した辺りがピンと外れるのだ。
いろいろと工夫をしてみるものの上手くいかない。結局は針金で縛り止めすることにしたゴクダイだった。
それらが出来上がれば葉付きの杉の木の塔婆作り。
上部5段の削り込みはノコと小刀。
その下はナタで削る。
それぞれに願文が記される。
塔婆の願文は大正十一年4月から始まったとされる「乾垣内共屋金明細帳」に残された塔書方に基づく「・・・・・ 奉造立為 面金剛供養 家内安全五穀成就 子孫長久祈願成」。
裏面は「・・・年月日 大字芹井乾垣内講中」である。
「・・・・・」の梵字通りに書き写す。
その明細帳には四人の名がある。
大正十一年四月七日庚申供養・・味淋 アゲ五枚 汁子 供養木割附法 小人四才ヨリ十五才を半額 大人十六才ヨリ壱人前糯米四合トス 稉米割附法 大人十六才以上壱合宛 小人四才ヨリ十五才迄五合宛などの記載があった。
子供も大人も割附配分されていたようだ。
しかも十六才からは一人前の大人扱いである。
大正十四年四月二十二日、昭和参年参月十日、昭和五年四月二十九日に続いて昭和二年道路修繕の件も記されていた。
昭和八年四月二十日には入費に酒弐合、砂糖二斤、あげ拾枚も書かれていた。
酒は理解できるが砂糖は何に使ったのであろうか。
その後の記帳には菓子、豆腐五丁、ちりめんじゃこも見られた。
昭和拾弐年三月三十日には地蔵堂落成式が行われたようだ。
昭和三十五年四月一日には桜えび、小ざこ、ニヤク、スゴ、あげもある。
昭和三十八年三月三日ではトーフ、ニヤク、竹ワ、アゲ、雑子、かますご、砂糖、さいら、菓子など。
ニヤクはおそらくコンニャクで雑子はジャコ。
味付けや料理の内容は判らないが、献立は決まっていたのだろう。
その後の記載にはすし雑子、みりん・さいら、みりん干しなど。
献立は多彩に増えて、さらだ、みかん、造り、ハム、キュウリ、マカロニも見られるようになった。
平成二年四月一日、平成四年弐月拾壱日、平成七年三月五日、平成十年三月二十七日、平成十三年四月一日、平成十六年弐月二十九日、平成十八年四月二日と連綿と継承してきた乾垣内の明細帳。
大切な村の記録である。
すべてのモノが出来上がれば庚申塚に参って庚申講の供養をされる。
庚申石は青面金剛が彫られた石。
祠に祀っている。
古くなったからそろそろ建て替えねばばらないと講中は話す。
重箱に入れたモチはゴクダイに載せるわけでもなく庚申石の前に置いた。
ローソクを灯して一同が手を合わせる。
村の五穀豊穣を祈った後は宿(ヤド)家に再び集まる。
掛け軸は2幅だ。
左に青面金剛の掛軸。右はおひまっつあん(お日待ち)の掛軸だという。
その前にはそれぞれ4品の椀。
ご飯の椀。カマボコと豆腐の汁椀。
味付けした豆椀。
タケノコ、ニンジン、シイタケ、カマボコの煮もの椀だ。
ローロクに火を灯して手を合わせる。
念仏を申すわけでもなく心の中で静かに祈られた。
笹平垣内も同じように庚申講はお日待ちを兼ねている。
(H24. 4.15 EOS40D撮影)