7月から練習を始めていた年長の子は小学四年生。
これまでは鉦叩きを勤めていた。
始めて手にする太鼓打ちのバチは彼の手作り。
昔ながらのヤナギの木だ。
3年間も見届けていた子供のチャチャンコのバチは一般的な道具だった。
いつしかしてみたかった自分のバチは近くに生えていたヤナギの木でこしらえた。
皮を剥いで白くなった打つ部分。
手の部分は皮を残している。
打つ回数が多くていつ壊れるかも知れないからと考えて、予備のバチも作っておいた。
この日案内されたNさんらの時代では小学三年生から六年生でしめていたそうだ。
今年は「借り子」もなく講中の子どもたちだけだった。
一番下はまだ2歳前で、おもちゃのような感覚で鉦を叩いていた。
来年は1歳未足らずの子も加わるそうだ。
7日から始まった白土町子供の念仏講。
打つ六斎鉦の響きがそう聞こえることから「チャチャンコ」とも呼んでいる。
白土町にはもう一つの念仏講がある大人の念仏講は「ジャンガラガン」或いは「チャンガラガン」と呼んでいる。
享保二十一年から記された覚帳文書より古い子供念仏講所有の正徳三年に寄進された涅槃掛軸に「念仏講」の名があることからその時代に始まったと推定される。
しかも、大人の念仏講が所有する六斎念仏鉦の一つには宝永三年の刻印があることから300年以上も前から二つの講が存在していたと考えられる白土町の念仏講。
念仏講ではあるが、子供の念仏講では念仏を申すことなく、太鼓・鉦叩きだけである。
この年、新仏にあたる家は2軒である。NO家は昨年も新仏を祭っていた。
亡くなった母親の新仏のタナを設けていた。
同家は今年も新仏のタナを祭っていたのである。
タナは4月に起きた交通事故によって亡くなられた父親であった。
2年連続の新仏の家にとってはとても辛い思いだ。
もう一軒のN家は数か月前に亡くなられた家人の葬儀が営まれたことを村人から聞いていた。
7月27日には「アガリ」と称する49日の法要があったと聞く。
その日は城垣内の人たちが同家にあがって数珠繰りをしていた。
垣内の人たちとともに数珠繰りには同家の親戚者もその営みをしていたそうだ。
こうして新仏のタナ参りを済ませて戻ってきた浄福寺。
出発の際と同様に門下とお堂の前で念仏を唱えて弔う。
雨が降らなかったのも幸いである。
初日の7日に白土町の子供念仏講が奈良新聞に紹介された。
写真は平成24年8月14日撮影とある。
その日は私も取材していた。
記者に念仏講の件を話していたことを覚えている。
その日の記事は発信されずに、一年後となったというわけだ。
それはともかく、翌日に知り合いの市役所秘書課の人から頼まれた新仏参りの写真。
縁があって、奈良西大和を中心に地域文化を伝える「うぶすな」の9月号に掲載された。
(H25. 8. 8 EOS40D撮影)
これまでは鉦叩きを勤めていた。
始めて手にする太鼓打ちのバチは彼の手作り。
昔ながらのヤナギの木だ。
3年間も見届けていた子供のチャチャンコのバチは一般的な道具だった。
いつしかしてみたかった自分のバチは近くに生えていたヤナギの木でこしらえた。
皮を剥いで白くなった打つ部分。
手の部分は皮を残している。
打つ回数が多くていつ壊れるかも知れないからと考えて、予備のバチも作っておいた。
この日案内されたNさんらの時代では小学三年生から六年生でしめていたそうだ。
今年は「借り子」もなく講中の子どもたちだけだった。
一番下はまだ2歳前で、おもちゃのような感覚で鉦を叩いていた。
来年は1歳未足らずの子も加わるそうだ。
7日から始まった白土町子供の念仏講。
打つ六斎鉦の響きがそう聞こえることから「チャチャンコ」とも呼んでいる。
白土町にはもう一つの念仏講がある大人の念仏講は「ジャンガラガン」或いは「チャンガラガン」と呼んでいる。
享保二十一年から記された覚帳文書より古い子供念仏講所有の正徳三年に寄進された涅槃掛軸に「念仏講」の名があることからその時代に始まったと推定される。
しかも、大人の念仏講が所有する六斎念仏鉦の一つには宝永三年の刻印があることから300年以上も前から二つの講が存在していたと考えられる白土町の念仏講。
念仏講ではあるが、子供の念仏講では念仏を申すことなく、太鼓・鉦叩きだけである。
この年、新仏にあたる家は2軒である。NO家は昨年も新仏を祭っていた。
亡くなった母親の新仏のタナを設けていた。
同家は今年も新仏のタナを祭っていたのである。
タナは4月に起きた交通事故によって亡くなられた父親であった。
2年連続の新仏の家にとってはとても辛い思いだ。
もう一軒のN家は数か月前に亡くなられた家人の葬儀が営まれたことを村人から聞いていた。
7月27日には「アガリ」と称する49日の法要があったと聞く。
その日は城垣内の人たちが同家にあがって数珠繰りをしていた。
垣内の人たちとともに数珠繰りには同家の親戚者もその営みをしていたそうだ。
こうして新仏のタナ参りを済ませて戻ってきた浄福寺。
出発の際と同様に門下とお堂の前で念仏を唱えて弔う。
雨が降らなかったのも幸いである。
初日の7日に白土町の子供念仏講が奈良新聞に紹介された。
写真は平成24年8月14日撮影とある。
その日は私も取材していた。
記者に念仏講の件を話していたことを覚えている。
その日の記事は発信されずに、一年後となったというわけだ。
それはともかく、翌日に知り合いの市役所秘書課の人から頼まれた新仏参りの写真。
縁があって、奈良西大和を中心に地域文化を伝える「うぶすな」の9月号に掲載された。
(H25. 8. 8 EOS40D撮影)