マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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高田口釈尊寺の地蔵盆

2013年12月23日 07時55分47秒 | 大和郡山市へ
寺伝によれば開基は聖武天皇のころ、明暦二年(1656)に中興の祖である法春大僧都が復建したと伝わる大和郡山市高田口町の釈尊寺。

JR郡山駅下車して西に50mばかりの処で外堀の外れにあり、大和北部八十八カ所霊場の58番にあたる札所。

ときおり訪ねてくる札所巡りの巡礼者がご朱印を求めてやってくるそうだ。

普段は扉を閉めている釈尊寺。

毎月の第二日曜の朝9時から1時間ほど、町内の当番の人が清掃・花飾りをするときだけは開けていると云う釈尊寺の本尊は室町時代作と伝わる十一面観音立像を安置している。

脇仏には鎌倉時代作とされる阿弥陀如来座像や古くからとしか伝わっていない行者像も安置している。

なんでも国宝級の仏像もあったらしく、「アメリカに行きよった」と、この日の当番の人たちが云う。

当番は毎年替る自治会の区単位。

3区あるが守っているのは旧村の2区だけに一年ごとに交替する回りである。

この日の行事は高田口の地蔵盆。

薬園寺住職が来られて法要を終えたばかりだった。

4年前までは善正寺のご住職が勤めていたが、交替したようだ。

お勤めをしていたのは釈尊寺に安置している木造地蔵菩薩立像で、藤原時代初期の作と伝わる。

今日のお参りは驚くほどの人が来られたそうで、下げた御供を貰って帰ったばかりだと云う。

かつてはご詠歌を謡っていた年寄りが集まっていたと云う。

その頃も御供を供えていた。

大勢の子供がいた昔のことである。

「順番に並べ」と云われて御供下げにザルを持ってきたとこを覚えていると話す。

ご詠歌を謡っていたのはおそらく観音講の人たちであったろう。



襖を開けてもらって拝見した講箱には「大正元年拾参年弐月 施主 □□□□ 大字 高田口 観音講中寄贈」の墨書文字があった。

講箱の周りには10人の婦人たちの名も記されている。

蓋を開ければ、数珠と真新しい撞木があった。

ご詠歌を謡っていたと云う講中は、その道具から数珠繰りをされていたと思われるのであった。

(H25. 8.23 EOS40D撮影)