奈良の地域研究誌『俚志(さとびごころ)』の編集長と拝見した白土町の子供のチャチャンコ。
この夜はつつましく「ならまち」で宴をもつことになった。
時間はまだ早い。
編集長が借りている駐車場。
そこから見える史跡頭塔(ずとう)は石組方形七段の土塔(どとう)。
戦乱時代に亡くなった人たちを弔ったと話す管理人。
ここからでも充分に見えますと指差した頭塔は、北側一段面に四つの石仏、三段面には三つ、五段面に二つで七段面が一つ。
それぞれの石仏保護のために瓦葺の屋根で覆っているそうだ。
そこから下って「ならまち」に入る。
見慣れた街道は先月に訪れた公納堂町だった。
さらに下って庚申堂がある「ならまち」界隈。
その一角にあるオリエント館。
ずいぶんと前のことだ。
「ならまち」を広めようとスタンプラリーがあったことを思い出した。
「奈良町ウォーキング’98」ラリーのチラシにはそれぞれの名所旧跡や施設を訪れるキカッケになるようにと始まった奈良市制施行100周年記念の事業。
それには名所の映像が載っていた。
たしか自転車でやってきたように思う。
カメラは一眼レフではなく、OLYMPUS TRIP PANORAMA 2のコンパクトカメラだった。
チラシに出ている状態を撮ってみようと思ってシャッターを押した。
何か所も巡ってスタンプを台紙に押してもらったらプレゼントが貰える。
それが目当てだったスタンプラリー。
主催は財団法人世界建築博覧会協会・ならまち振興財団であった。
その頃はまったく人が居なかった。
出合う人にも遭遇することはなかった。
観光客も知られてなかったならまち。
訪れたのは翌年の11年のころだったと思う。
その後の数年間を経たある年。
おそろしいほどの観光客で溢れるようになっていた。
それはともかくスタンプラリーで訪れた奈良町物語館、奈良町資料館、時の資料館、寧屋工房、御霊神社、ならまち格子の家などなど。
寧屋工房で感動した燈火器。
陶芸家の武田高明が製作された数々の燈火器を義兄にプレゼントをしたことがある。
平成13年辺りだったと思う。
かーさんと連れ添って買いにいった寧屋工房。
武田氏はその場で陶芸製作をされていた。
奮発して買ったことも覚えている。
付近にはたしか小塔院があったことも思い出す。
そこでは水仙が美しく咲いていた。
その小塔院の佇まいが忘れられない。
平成15年3月のことだ。
その年の8月には「ならまち」界隈で「ならまち燈花会」が行われていた。
平成11年に始まったなら燈花会は、この年には場を広げて「ならまち」にも現れたのである。
あれからずいぶんと歳がいったものだ。
新しいお店もできてどことなく風情も変化がみられる「ならまち」。
今宵の宴の場である「蔵武D」の開店時間はまだ早い。
時間待ちについでに確かめたいと足を伸ばした「やすらぎの道」。
7月15日のことだ。
「ならまち」界隈でされている夏祭りを探していたときのことである。
公納堂町、脇戸町、元興寺町をぶらぶらしていた。
「ならまちきた」ではポスター、行燈などの目印で見つかったが、「ならまち」にはそれがない。
さっぱり掴めずであった。
徳融寺の前の通りにあった祠の格子窓を覗いてみた。
内部に石仏があった。

目を凝らして見れば浮き彫りの千手観音菩薩である。
美しい姿に若干紅色の唇に手を合わせた。
その場所を明確にしたくて歩いた。
音声館より少し南の処にあった。
そのときは民家の門屋横であったと思っていたがそうではなかった。

鳴川町の安養寺の門横であった。
(H25. 7.15 SB932SH撮影)
(H25. 8. 8 SB932SH撮影)
この夜はつつましく「ならまち」で宴をもつことになった。
時間はまだ早い。
編集長が借りている駐車場。
そこから見える史跡頭塔(ずとう)は石組方形七段の土塔(どとう)。
戦乱時代に亡くなった人たちを弔ったと話す管理人。
ここからでも充分に見えますと指差した頭塔は、北側一段面に四つの石仏、三段面には三つ、五段面に二つで七段面が一つ。
それぞれの石仏保護のために瓦葺の屋根で覆っているそうだ。
そこから下って「ならまち」に入る。
見慣れた街道は先月に訪れた公納堂町だった。
さらに下って庚申堂がある「ならまち」界隈。
その一角にあるオリエント館。
ずいぶんと前のことだ。
「ならまち」を広めようとスタンプラリーがあったことを思い出した。
「奈良町ウォーキング’98」ラリーのチラシにはそれぞれの名所旧跡や施設を訪れるキカッケになるようにと始まった奈良市制施行100周年記念の事業。
それには名所の映像が載っていた。
たしか自転車でやってきたように思う。
カメラは一眼レフではなく、OLYMPUS TRIP PANORAMA 2のコンパクトカメラだった。
チラシに出ている状態を撮ってみようと思ってシャッターを押した。
何か所も巡ってスタンプを台紙に押してもらったらプレゼントが貰える。
それが目当てだったスタンプラリー。
主催は財団法人世界建築博覧会協会・ならまち振興財団であった。
その頃はまったく人が居なかった。
出合う人にも遭遇することはなかった。
観光客も知られてなかったならまち。
訪れたのは翌年の11年のころだったと思う。
その後の数年間を経たある年。
おそろしいほどの観光客で溢れるようになっていた。
それはともかくスタンプラリーで訪れた奈良町物語館、奈良町資料館、時の資料館、寧屋工房、御霊神社、ならまち格子の家などなど。
寧屋工房で感動した燈火器。
陶芸家の武田高明が製作された数々の燈火器を義兄にプレゼントをしたことがある。
平成13年辺りだったと思う。
かーさんと連れ添って買いにいった寧屋工房。
武田氏はその場で陶芸製作をされていた。
奮発して買ったことも覚えている。
付近にはたしか小塔院があったことも思い出す。
そこでは水仙が美しく咲いていた。
その小塔院の佇まいが忘れられない。
平成15年3月のことだ。
その年の8月には「ならまち」界隈で「ならまち燈花会」が行われていた。
平成11年に始まったなら燈花会は、この年には場を広げて「ならまち」にも現れたのである。
あれからずいぶんと歳がいったものだ。
新しいお店もできてどことなく風情も変化がみられる「ならまち」。
今宵の宴の場である「蔵武D」の開店時間はまだ早い。
時間待ちについでに確かめたいと足を伸ばした「やすらぎの道」。
7月15日のことだ。
「ならまち」界隈でされている夏祭りを探していたときのことである。
公納堂町、脇戸町、元興寺町をぶらぶらしていた。
「ならまちきた」ではポスター、行燈などの目印で見つかったが、「ならまち」にはそれがない。
さっぱり掴めずであった。
徳融寺の前の通りにあった祠の格子窓を覗いてみた。
内部に石仏があった。

目を凝らして見れば浮き彫りの千手観音菩薩である。
美しい姿に若干紅色の唇に手を合わせた。
その場所を明確にしたくて歩いた。
音声館より少し南の処にあった。
そのときは民家の門屋横であったと思っていたがそうではなかった。

鳴川町の安養寺の門横であった。
(H25. 7.15 SB932SH撮影)
(H25. 8. 8 SB932SH撮影)