早いところでは4月20日ぐらいに苗代作りをされる矢田町、月末近くになれば山田町も始まる。
あちこちでされているが、予定していた日が雨天ともなれば順延するところもある。
家族が応援しないことには苗代作りが始まらない家がほとんどのようだ。
雨が降り続けた「29日は仕方なく作業場でモミオトシをしただけや」と話していた東安堵の住民。
翌日は苗床を作って、苗箱をひとつずつ並べていた。
その様子を拝見したく、送迎の仕事を終えて直行した。
家から運んできた運搬車に積んだ苗箱は190枚。
品種は奈良産のヒノヒカリである。
改良が加えられ高品質になったそうだ。
モミオトシをした土は肥料付き、本来なら山土であるが、手間を省くために市販品。
溢さないように、そろりそろりと手渡していく。
このころの田んぼには花が見当たらない。
付近に咲いていた野の草花をあしらって撮らせてもらった。
1時間半ほどの苗箱置き作業は中腰体制の連続。
作業はドロ田を歩いては、一枚、一枚下ろしていくが、急げば波立つ。
「そんな歩き方したら苗箱の土が崩れてしまうやないか」と叱咤も入った。
鳥除けの金属ポールを立てて曲げていく。
そのころ、徐にお供え準備しはじめたのは奥さんだ。
洗い米、塩、お茶にお菓子類をお盆に盛っていく。
苗代作りをする男性は送迎仕事の相方さん。
私が出勤すれば、彼は休みで家の仕事ができるということである。
苗箱作り、苗箱落としは彼がしているが、「お供えは奥さんがしているので、詳しくはそっちに聞いとくれ」と云う。
お供えの準備ができれば、旦那とともに鳥除けポールを立てていく共同作業。
この日の苗代作りに応援していたのは旦那の兄弟。
そのうちの一人は生駒高山の「前座」の座中であった。
苗代作り取材から民俗モードになっていた。
鳥除けポールを立てたら幌を被せる。
白い幌であるが、彼は寒冷紗と呼んでいた。
苗床は水路から水を引いてヒタヒタの面一にしておく。
「根が張ってしまっては、苗箱を取り出すときにやっかいになるから」と云って、穴開きシートを一面に覆っていく。
作業が始まっておよそ2時間後、奥さんが苗代のドロ田にイロバナを立てた。
倒れないようにドロで周りを固めていく。
幌も風で飛ばないように数十カ所にドロを置いていく。
お供えはイロバナ付近に置きかけたが、お盆が濡れてしまうと云って、畦に移した。
そうして、すぐさまお菓子をばらまいた。
かっぱえびせんでしょうか、お菓子が大きかったので撒く様子がよく判る映像になった。
後日に聞いた話しによれば、かつてはキリコ(キリコアラレ)であったと云う。
塩、洗い米も同じように苗代に撒いていく。
神事のように見えるが、お祈りはすることもなく淡々と進められる。
そして、イロバナの手前に2本のローソクを立てて火を灯した。
これまで県内各地の水口祭を拝見してきたが、このような祭り方は初めて見る。
一昨年までは弟さんが住む生駒高山で苗代作りをしてきた。
その地では「けっこう見られる」と話す苗代の祭り方ではあるが、東安堵のご主人曰く、「ここではおばあさんがずっとそうしていた」と話す。
供え方、祭り方はこのような在り方であるが、拝見した東安堵では「水口祭り」という呼び名もない。
祭り方はこれで終わることもなく、まだ続きがある。
この場で撒いたお菓子を食べられるのだ。
すべての作業を終えて帰路につくころ、ご主人と生駒の弟さんだけは手を合わしていた。
お二人は「豊作の願いや」と云っていた。
ところで、5月3日の午後に飽波神社役員が各戸に、この日の午前中に奉った松苗を配られると云っていた。
受け取れば、あらためて苗代に松苗を立てると話していた。
ご主人主人が云うには「一杯飲んでからや」と云っていたことから、午前中に祈年祭若しくは御田植祭があるのではと思った。
松苗には小さな紙片もあったと云うから、お札であるかも知れない。
同家では田植えも早くしていると云う。
6月に入れば池水を利用するが、早めにされる同家の田植え時期には、まだ出水はしない。
そのような状況であることから、富雄川の水を使うと云っていた。
(H26. 4.30 EOS40D撮影)
あちこちでされているが、予定していた日が雨天ともなれば順延するところもある。
家族が応援しないことには苗代作りが始まらない家がほとんどのようだ。
雨が降り続けた「29日は仕方なく作業場でモミオトシをしただけや」と話していた東安堵の住民。
翌日は苗床を作って、苗箱をひとつずつ並べていた。
その様子を拝見したく、送迎の仕事を終えて直行した。
家から運んできた運搬車に積んだ苗箱は190枚。
品種は奈良産のヒノヒカリである。
改良が加えられ高品質になったそうだ。
モミオトシをした土は肥料付き、本来なら山土であるが、手間を省くために市販品。
溢さないように、そろりそろりと手渡していく。
このころの田んぼには花が見当たらない。
付近に咲いていた野の草花をあしらって撮らせてもらった。
1時間半ほどの苗箱置き作業は中腰体制の連続。
作業はドロ田を歩いては、一枚、一枚下ろしていくが、急げば波立つ。
「そんな歩き方したら苗箱の土が崩れてしまうやないか」と叱咤も入った。
鳥除けの金属ポールを立てて曲げていく。
そのころ、徐にお供え準備しはじめたのは奥さんだ。
洗い米、塩、お茶にお菓子類をお盆に盛っていく。
苗代作りをする男性は送迎仕事の相方さん。
私が出勤すれば、彼は休みで家の仕事ができるということである。
苗箱作り、苗箱落としは彼がしているが、「お供えは奥さんがしているので、詳しくはそっちに聞いとくれ」と云う。
お供えの準備ができれば、旦那とともに鳥除けポールを立てていく共同作業。
この日の苗代作りに応援していたのは旦那の兄弟。
そのうちの一人は生駒高山の「前座」の座中であった。
苗代作り取材から民俗モードになっていた。
鳥除けポールを立てたら幌を被せる。
白い幌であるが、彼は寒冷紗と呼んでいた。
苗床は水路から水を引いてヒタヒタの面一にしておく。
「根が張ってしまっては、苗箱を取り出すときにやっかいになるから」と云って、穴開きシートを一面に覆っていく。
作業が始まっておよそ2時間後、奥さんが苗代のドロ田にイロバナを立てた。
倒れないようにドロで周りを固めていく。
幌も風で飛ばないように数十カ所にドロを置いていく。
お供えはイロバナ付近に置きかけたが、お盆が濡れてしまうと云って、畦に移した。
そうして、すぐさまお菓子をばらまいた。
かっぱえびせんでしょうか、お菓子が大きかったので撒く様子がよく判る映像になった。
後日に聞いた話しによれば、かつてはキリコ(キリコアラレ)であったと云う。
塩、洗い米も同じように苗代に撒いていく。
神事のように見えるが、お祈りはすることもなく淡々と進められる。
そして、イロバナの手前に2本のローソクを立てて火を灯した。
これまで県内各地の水口祭を拝見してきたが、このような祭り方は初めて見る。
一昨年までは弟さんが住む生駒高山で苗代作りをしてきた。
その地では「けっこう見られる」と話す苗代の祭り方ではあるが、東安堵のご主人曰く、「ここではおばあさんがずっとそうしていた」と話す。
供え方、祭り方はこのような在り方であるが、拝見した東安堵では「水口祭り」という呼び名もない。
祭り方はこれで終わることもなく、まだ続きがある。
この場で撒いたお菓子を食べられるのだ。
すべての作業を終えて帰路につくころ、ご主人と生駒の弟さんだけは手を合わしていた。
お二人は「豊作の願いや」と云っていた。
ところで、5月3日の午後に飽波神社役員が各戸に、この日の午前中に奉った松苗を配られると云っていた。
受け取れば、あらためて苗代に松苗を立てると話していた。
ご主人主人が云うには「一杯飲んでからや」と云っていたことから、午前中に祈年祭若しくは御田植祭があるのではと思った。
松苗には小さな紙片もあったと云うから、お札であるかも知れない。
同家では田植えも早くしていると云う。
6月に入れば池水を利用するが、早めにされる同家の田植え時期には、まだ出水はしない。
そのような状況であることから、富雄川の水を使うと云っていた。
(H26. 4.30 EOS40D撮影)