山添村の大字松尾のマツリを勤める渡り衆。
要人(ようじん)と呼ばれる舞人は予め決められていた祭典控の順番帳に記載された8人である。
9月15日に大字役員総代が集まる遠瀛(おおつ)神社の籠りの日に今年の要人とトウヤ(当家)を正式決定される。
親、兄弟、万が一の不幸ごとに穢れがあれば遠慮してもらって次回に回ってもらうそうだ。
マツリの年のトウヤは10月初めに神さんを家に迎えておく。
座敷の前庭若しくは門前に青竹を立て紙垂れ注連縄を張った家がトウヤ家だ。
宵宮の日の朝に同家へ訪問する要人たちは和服姿。
「本日はおめでとうございます」と挨拶をすれば「お忙しい処、おひま取りしてご苦労さん」と受け入れる。
年長順で決められる要人の役割。
特に笛吹きが肝心であるだけにそれを考慮しながら役割が決められる。
お渡りの先頭は日の丸大御幣を持つトウヤだ。
ヒワヒワと呼ばれる弓役、ガシャガシャと呼ばれるササラ役、締太鼓役、笛吹き役、小鼓役が続く。
「ピ、ピ、ヒゥー、ホー、ヘ」と音階は決まっているが、文字では判り難い音階だ。
音色となる「ピッ、ピッ」は上の穴を開けて吹く。
「ヒゥー」は真ん中の穴を開けて吹く。
全部の穴を塞ぐ「ヘッ」。
逆に全部開ける「ホッ」というわけだ。
これを二人の奏者が呼吸を合わせて吹くのである。
宵宮の日には何度もそれを繰り返してジンパイ(神拝)を奉納された。
笛吹きの音に合わせて太鼓と鼓を打つ二人。
ガシャガシャも手を動かすがそれの音は消されて聞こえない。
ヒワヒワは両手で曲げるように繰るがそれも音は出ない。
この日も練習をされて昼食をよばれた要人(ようじん)と呼ばれる渡り衆。
座敷で談をとる要人たち。そろそろ行く時間になったと言って装束に着替えた。
その衣装を納めている箱には墨書がみられる。
表面が「六所宮祭用装束箱」で、裏面には「干時文政六年(1818)六月吉祥出来 宮年寄・・・云々」とある。
宮年寄りの名は松尾村が二人、的野と峯寺が一人ずつで二人の世話人が記されている。
ヨイミヤ、マツリとも奉納される大字は峰寺・松尾・的野が一年ごとに交替する。
この年は松尾がアタリの村である。
大正四年八月四日に書き残された『東山村各神社由緒調査』によれば旧東山村のほぼすべての神社において遷宮や祭祀を神宮寺(別當寺)の社僧が司っていたことが判る。山添村・大字峰寺の六所神社は「前項別當寺ノ社僧ト称シ當社年中ノ祭儀ヲ兼職セリト云フ」と書かれている。
大字松尾・遠瀛(おおつ)神社には「社僧ナシト難モ遷宮等ノ場合ハ他ヨリ僧侶ヲ雇入遷宮セシモノナリト云フ」が書かれてあった。
大字的野・八幡神社では「古来常照院ト称シ當社ニ関係アリシモノヽ如シ」、「前項ノ寺院僧侶、社僧ト称シ當社ノ祭祀ヲ兼職セシト云フ」である。
かつては社僧が祭祀していた六所神社のマツリには神職は登場しない。
大字の渡り衆がジンパイを奉納する形式になったのだが、いつの時代に変化があったのか故事には見られない。
出発前によばれた昼の膳の一部。
祝いの膳を断る理由はない。
トウヤ家を表敬訪問したのは一カ月前。
一連の記録を撮って遺しておきたいと伝えられていた。
トウヤ家の記録をする役目を仰せつかったのだ。
2年前にアタリになった峰寺トウヤ家や3年前の松尾トウヤの記録写真を見られた婦人。
同じような状況を撮ってほしいと願われたのだ。
心配していたのは天候状態だ。
3年前の松尾はヨイミヤ・マツリとも雨天だった。
傘をともなう祭礼であった。
撮り直しのつもりで伺った表敬訪問。
逆にカメラマン冥利に尽きるありがたい言葉を受け賜わったのだ。
祝いの紅白まんじゅうに大きなエビにカラアゲ盛り。

つまにミョウガを添えたカツオタタキ刺身椀。
ナスビ・コウコ・ハクサイなどの漬物に祝いのセキハンや紅白まんじゅうを慌ただしくもいただいた。
ゆっくりしている時間もなく渡り衆は出発する。

門の前に一列になった渡り衆の記念写真。
この日も息子さんがシャッターを押していた。
(H26.10.15 EOS40D撮影)
要人(ようじん)と呼ばれる舞人は予め決められていた祭典控の順番帳に記載された8人である。
9月15日に大字役員総代が集まる遠瀛(おおつ)神社の籠りの日に今年の要人とトウヤ(当家)を正式決定される。
親、兄弟、万が一の不幸ごとに穢れがあれば遠慮してもらって次回に回ってもらうそうだ。
マツリの年のトウヤは10月初めに神さんを家に迎えておく。
座敷の前庭若しくは門前に青竹を立て紙垂れ注連縄を張った家がトウヤ家だ。
宵宮の日の朝に同家へ訪問する要人たちは和服姿。
「本日はおめでとうございます」と挨拶をすれば「お忙しい処、おひま取りしてご苦労さん」と受け入れる。
年長順で決められる要人の役割。
特に笛吹きが肝心であるだけにそれを考慮しながら役割が決められる。
お渡りの先頭は日の丸大御幣を持つトウヤだ。
ヒワヒワと呼ばれる弓役、ガシャガシャと呼ばれるササラ役、締太鼓役、笛吹き役、小鼓役が続く。
「ピ、ピ、ヒゥー、ホー、ヘ」と音階は決まっているが、文字では判り難い音階だ。
音色となる「ピッ、ピッ」は上の穴を開けて吹く。
「ヒゥー」は真ん中の穴を開けて吹く。
全部の穴を塞ぐ「ヘッ」。
逆に全部開ける「ホッ」というわけだ。
これを二人の奏者が呼吸を合わせて吹くのである。
宵宮の日には何度もそれを繰り返してジンパイ(神拝)を奉納された。
笛吹きの音に合わせて太鼓と鼓を打つ二人。
ガシャガシャも手を動かすがそれの音は消されて聞こえない。
ヒワヒワは両手で曲げるように繰るがそれも音は出ない。
この日も練習をされて昼食をよばれた要人(ようじん)と呼ばれる渡り衆。
座敷で談をとる要人たち。そろそろ行く時間になったと言って装束に着替えた。
その衣装を納めている箱には墨書がみられる。
表面が「六所宮祭用装束箱」で、裏面には「干時文政六年(1818)六月吉祥出来 宮年寄・・・云々」とある。
宮年寄りの名は松尾村が二人、的野と峯寺が一人ずつで二人の世話人が記されている。
ヨイミヤ、マツリとも奉納される大字は峰寺・松尾・的野が一年ごとに交替する。
この年は松尾がアタリの村である。
大正四年八月四日に書き残された『東山村各神社由緒調査』によれば旧東山村のほぼすべての神社において遷宮や祭祀を神宮寺(別當寺)の社僧が司っていたことが判る。山添村・大字峰寺の六所神社は「前項別當寺ノ社僧ト称シ當社年中ノ祭儀ヲ兼職セリト云フ」と書かれている。
大字松尾・遠瀛(おおつ)神社には「社僧ナシト難モ遷宮等ノ場合ハ他ヨリ僧侶ヲ雇入遷宮セシモノナリト云フ」が書かれてあった。
大字的野・八幡神社では「古来常照院ト称シ當社ニ関係アリシモノヽ如シ」、「前項ノ寺院僧侶、社僧ト称シ當社ノ祭祀ヲ兼職セシト云フ」である。
かつては社僧が祭祀していた六所神社のマツリには神職は登場しない。
大字の渡り衆がジンパイを奉納する形式になったのだが、いつの時代に変化があったのか故事には見られない。
出発前によばれた昼の膳の一部。
祝いの膳を断る理由はない。
トウヤ家を表敬訪問したのは一カ月前。
一連の記録を撮って遺しておきたいと伝えられていた。
トウヤ家の記録をする役目を仰せつかったのだ。
2年前にアタリになった峰寺トウヤ家や3年前の松尾トウヤの記録写真を見られた婦人。
同じような状況を撮ってほしいと願われたのだ。
心配していたのは天候状態だ。
3年前の松尾はヨイミヤ・マツリとも雨天だった。
傘をともなう祭礼であった。
撮り直しのつもりで伺った表敬訪問。
逆にカメラマン冥利に尽きるありがたい言葉を受け賜わったのだ。
祝いの紅白まんじゅうに大きなエビにカラアゲ盛り。

つまにミョウガを添えたカツオタタキ刺身椀。
ナスビ・コウコ・ハクサイなどの漬物に祝いのセキハンや紅白まんじゅうを慌ただしくもいただいた。
ゆっくりしている時間もなく渡り衆は出発する。

門の前に一列になった渡り衆の記念写真。
この日も息子さんがシャッターを押していた。
(H26.10.15 EOS40D撮影)