毎年10月14日はヨイミヤ(故事では夜宮表記)にジンパイを奉納される山添村の大字峰寺・六所神社。
同神社は峰寺・松尾・的野との郷社であった。
乗光廃寺の鎮守社であった六所神社は文禄年間(1592~)に六所権現改め六所大明神を称したと伝わる。
ジンパイはトウヤ(当家)を含めた8人の渡り衆が勤める。
渡り衆は郷村中になる峰寺・松尾・的野が毎年交替する三カ大字のマツリである。
前年は峰寺で今年は松尾。
翌年は的野がアタリの大字で三年に一度の廻りである。
松尾の廻りは前回が平成23年だった。
ヨイミヤに翌日のマツリも雨が降るなかにお渡りをされて六所九神社に奉納された。
この年は最悪の天候状態だったが、度々、雨にあたられたという人も多い。
一か月前の9月13日にトウヤ(当家)家を表敬訪問した。
当主は雨であればお渡りは車で行かざるを得ない、天気であればトウヤ家から歩いて行くと話していた。
トウヤ家から六所神社まではおよそ2km。
昭和9年生まれの当主は80歳。
身体が動ける状態であれば歩いていきたいと話していた。
ヨイミヤが行われる二日前。台風19号が近畿を直撃するであろうと気象庁が予報していた。
「なんとかなる」と力強い言葉で返した当主の信念が通じたのか、台風は前日の13日晩9時ころに大阪岸和田に上陸した。
が、である。
奈良県では風雨もそれほどでなく通り過ぎた。
「襲う」予報に恐れた奈良市東九条八幡神社の神輿巡行は一日繰り上げて12日に行われた。
室生の龍穴神社の祭礼は11日時点でヨイミヤ・マツリとも中断された。
11日に桐山でヨイミヤ神事を祭祀された宮司は「避難指示が発令されば中止せざるを得ない」と話していた。
「当日の状況を判断して決断する」と話していたのは天理市乙木町の住民だ。
判断・決断は地域によってさまざまだった13日は豪雨でもないそれなりの降雨量であった。
台風19号は、14日の朝ともなれば東北南部から太平洋に抜けた。
台風一過になれば晴れ間になることが多いが、この日は曇天だった。
当主が云ったとおり、「なんとかなった」のである。
雨が降りそうな気配も感じる曇天日であったが、御神燈提灯を掲げて注連縄を張ったトウヤ家に集まった7人の渡り衆。
座敷に招かれてまずは酒を一杯飲む。
これを「シモケシ」と呼んでいる酒杯は奉納される渡り衆の神体清めの作法である。
この日に訪れていたトウヤ家の手伝いさん。
親戚筋の一人であるFさんは菅生在住。
トウヤ家婦人の弟にあたる。
シモケシは葬儀の際にも行われると話す。
やはり清めの酒である。
その作法は菅生でもしていると云う。
菅生も行事取材に訪れることが度々あった。
マツリのときに奉納される子供相撲がある。
対象の子は3歳までの男の子。
赤ちゃんは抱かれて登場する。
いつしか男の子が少なくなった。
仕方なく女の子も参加を認めたそうだ。
対戦は2人で1組。
3組の相撲が行われる。
相撲は本殿前の境内で行われる。
今年は雨が降ったために中止したと云う。
マツリにはクシ肴を振る舞っていたが、これも中断してパック詰め料理に替えたそうだ。
中峰山郷村である菅生は神波多神社のお渡りに出仕される。
これまで10月15日であったが後半の日曜日に移したようだと話す。
話題はつきないので松尾の行事に戻そう。
トウヤ家では大御幣や楽奏される横笛やヒワヒワと呼ぶ竹の弓を作っていく。
道具を揃えてジンパイの練習をする。
昼はトウヤ家がふるまう仕出し食をよばれて午後も練習をする。
到着したことは和装姿だった。
何度か練習をされて装束に着替えたトウヤと渡り衆。
松尾ではその人たちのことを要人(ようじん)と呼んでいる。
装束は紺地に鶴の文様がはいった素襖で、頭に烏帽子を被る。
ヒワヒワを持つトウヤ以下の要人は年長順に並ぶ。
以下、ヒワヒワ、2名のガシャガシャ(ササラ)、締太鼓、2名の笛、小鼓の順である。
始めに座敷の中央に現れたる要人はヒワヒワを持つ長老である。
ピロピロピロ・・・の音のように聞こえた笛吹きの合図。
松尾の史料文字では「ピ、ピ、ヒゥ」である。
それが出番の合図。
扇は右手、左手にヒワヒワを持って神さん側に向かって座る。
座前にヒワヒワを置いて拝礼。
ヒワヒワを手にして三役の音色でそれを緩く曲げる所作。
太鼓、鼓を三打ちして曲げ所作を終える。
ヒワヒワを衣装に仕舞って演者は立つ。
「ピ、ピ、ヒゥ」の合図に扇を広げて時計回りに丸く回る。
その際には笛が奏でる「ピロピロピロ」にドンドンドンと打ち鳴らす締太鼓や小鼓もある。
ガシャガシャの音色は消されてしまうほどの太鼓・鼓の音は大きい。
その所作は三回繰り返す。
扇は円の中心部を煽ぐように回る。
二回目の回りの太鼓は「トントントン」で三回目は「ドン」。
これは周回の数を演者に教えているのだ。
一旦拝礼してヒワヒワを座前に置く。
今度は反時計回りに三周する。
そしてヒワヒワを手に持って曲げる所作をする。
これで一連の作法を終える。
次に登場するのはガシャガシャのササラ役。
ヒワヒワと同じ所作をするが、倒れやすいガシャガシャは倒れないように立てることが肝心だという。
いずれも笛吹き、太鼓、鼓の奏者が音を奏でて囃す。
最後に鼓役が登場する。
小鼓を立ててこの所作をする。
披露するのはこの三役たちである。
こうして本番さながら出発前の練習を終えた。
予め決まっていたトウヤおよび渡り衆は9月15日の籠りの際に正式決定される。
トウヤを勤める資格をもつ家は16戸。
3年に一度の廻りだから計算上は48年に一度となるが、選出の基準は親と早く死に別れた順であると云う。
いわば、家督を継いで当主になった順番である。
渡り衆はおよそ6年に一度の廻りとなるようだ。
前々回はトウヤ家の息子が勤めたと云う。
当時の当主は健康がすぐれずやむなく長男が代役で勤めたのであった。
要人の演技を見守っていたのはトウヤ家の家族やお手伝いをする親戚筋の人たちだ。
一人の男性は同村菅生の人。マツリ行事の取材でもお世話になったことがある。
12日は十二社神社で行われただんな祭りがあった。
幼児が登場する子供の泣き相撲があるがやむを得ない事情で中断された。
また、コンニャク・サトイモ・カキ・カマボコの串肴は簡略化されたようである。
出発する前には記念写真を撮られた。
トウヤの晴れ姿を記念にシャッターを押していたのは息子さんだ。
(H26.10.14 EOS40D撮影)
同神社は峰寺・松尾・的野との郷社であった。
乗光廃寺の鎮守社であった六所神社は文禄年間(1592~)に六所権現改め六所大明神を称したと伝わる。
ジンパイはトウヤ(当家)を含めた8人の渡り衆が勤める。
渡り衆は郷村中になる峰寺・松尾・的野が毎年交替する三カ大字のマツリである。
前年は峰寺で今年は松尾。
翌年は的野がアタリの大字で三年に一度の廻りである。
松尾の廻りは前回が平成23年だった。
ヨイミヤに翌日のマツリも雨が降るなかにお渡りをされて六所九神社に奉納された。
この年は最悪の天候状態だったが、度々、雨にあたられたという人も多い。
一か月前の9月13日にトウヤ(当家)家を表敬訪問した。
当主は雨であればお渡りは車で行かざるを得ない、天気であればトウヤ家から歩いて行くと話していた。
トウヤ家から六所神社まではおよそ2km。
昭和9年生まれの当主は80歳。
身体が動ける状態であれば歩いていきたいと話していた。
ヨイミヤが行われる二日前。台風19号が近畿を直撃するであろうと気象庁が予報していた。
「なんとかなる」と力強い言葉で返した当主の信念が通じたのか、台風は前日の13日晩9時ころに大阪岸和田に上陸した。
が、である。
奈良県では風雨もそれほどでなく通り過ぎた。
「襲う」予報に恐れた奈良市東九条八幡神社の神輿巡行は一日繰り上げて12日に行われた。
室生の龍穴神社の祭礼は11日時点でヨイミヤ・マツリとも中断された。
11日に桐山でヨイミヤ神事を祭祀された宮司は「避難指示が発令されば中止せざるを得ない」と話していた。
「当日の状況を判断して決断する」と話していたのは天理市乙木町の住民だ。
判断・決断は地域によってさまざまだった13日は豪雨でもないそれなりの降雨量であった。
台風19号は、14日の朝ともなれば東北南部から太平洋に抜けた。
台風一過になれば晴れ間になることが多いが、この日は曇天だった。
当主が云ったとおり、「なんとかなった」のである。
雨が降りそうな気配も感じる曇天日であったが、御神燈提灯を掲げて注連縄を張ったトウヤ家に集まった7人の渡り衆。
座敷に招かれてまずは酒を一杯飲む。
これを「シモケシ」と呼んでいる酒杯は奉納される渡り衆の神体清めの作法である。
この日に訪れていたトウヤ家の手伝いさん。
親戚筋の一人であるFさんは菅生在住。
トウヤ家婦人の弟にあたる。
シモケシは葬儀の際にも行われると話す。
やはり清めの酒である。
その作法は菅生でもしていると云う。
菅生も行事取材に訪れることが度々あった。
マツリのときに奉納される子供相撲がある。
対象の子は3歳までの男の子。
赤ちゃんは抱かれて登場する。
いつしか男の子が少なくなった。
仕方なく女の子も参加を認めたそうだ。
対戦は2人で1組。
3組の相撲が行われる。
相撲は本殿前の境内で行われる。
今年は雨が降ったために中止したと云う。
マツリにはクシ肴を振る舞っていたが、これも中断してパック詰め料理に替えたそうだ。
中峰山郷村である菅生は神波多神社のお渡りに出仕される。
これまで10月15日であったが後半の日曜日に移したようだと話す。
話題はつきないので松尾の行事に戻そう。
トウヤ家では大御幣や楽奏される横笛やヒワヒワと呼ぶ竹の弓を作っていく。
道具を揃えてジンパイの練習をする。
昼はトウヤ家がふるまう仕出し食をよばれて午後も練習をする。
到着したことは和装姿だった。
何度か練習をされて装束に着替えたトウヤと渡り衆。
松尾ではその人たちのことを要人(ようじん)と呼んでいる。
装束は紺地に鶴の文様がはいった素襖で、頭に烏帽子を被る。
ヒワヒワを持つトウヤ以下の要人は年長順に並ぶ。
以下、ヒワヒワ、2名のガシャガシャ(ササラ)、締太鼓、2名の笛、小鼓の順である。
始めに座敷の中央に現れたる要人はヒワヒワを持つ長老である。
ピロピロピロ・・・の音のように聞こえた笛吹きの合図。
松尾の史料文字では「ピ、ピ、ヒゥ」である。
それが出番の合図。
扇は右手、左手にヒワヒワを持って神さん側に向かって座る。
座前にヒワヒワを置いて拝礼。
ヒワヒワを手にして三役の音色でそれを緩く曲げる所作。
太鼓、鼓を三打ちして曲げ所作を終える。
ヒワヒワを衣装に仕舞って演者は立つ。
「ピ、ピ、ヒゥ」の合図に扇を広げて時計回りに丸く回る。
その際には笛が奏でる「ピロピロピロ」にドンドンドンと打ち鳴らす締太鼓や小鼓もある。
ガシャガシャの音色は消されてしまうほどの太鼓・鼓の音は大きい。
その所作は三回繰り返す。
扇は円の中心部を煽ぐように回る。
二回目の回りの太鼓は「トントントン」で三回目は「ドン」。
これは周回の数を演者に教えているのだ。
一旦拝礼してヒワヒワを座前に置く。
今度は反時計回りに三周する。
そしてヒワヒワを手に持って曲げる所作をする。
これで一連の作法を終える。
次に登場するのはガシャガシャのササラ役。
ヒワヒワと同じ所作をするが、倒れやすいガシャガシャは倒れないように立てることが肝心だという。
いずれも笛吹き、太鼓、鼓の奏者が音を奏でて囃す。
最後に鼓役が登場する。
小鼓を立ててこの所作をする。
披露するのはこの三役たちである。
こうして本番さながら出発前の練習を終えた。
予め決まっていたトウヤおよび渡り衆は9月15日の籠りの際に正式決定される。
トウヤを勤める資格をもつ家は16戸。
3年に一度の廻りだから計算上は48年に一度となるが、選出の基準は親と早く死に別れた順であると云う。
いわば、家督を継いで当主になった順番である。
渡り衆はおよそ6年に一度の廻りとなるようだ。
前々回はトウヤ家の息子が勤めたと云う。
当時の当主は健康がすぐれずやむなく長男が代役で勤めたのであった。
要人の演技を見守っていたのはトウヤ家の家族やお手伝いをする親戚筋の人たちだ。
一人の男性は同村菅生の人。マツリ行事の取材でもお世話になったことがある。
12日は十二社神社で行われただんな祭りがあった。
幼児が登場する子供の泣き相撲があるがやむを得ない事情で中断された。
また、コンニャク・サトイモ・カキ・カマボコの串肴は簡略化されたようである。
出発する前には記念写真を撮られた。
トウヤの晴れ姿を記念にシャッターを押していたのは息子さんだ。
(H26.10.14 EOS40D撮影)