大正4年に記された『東山村神社調書(写し)』文中の社記によれば祭祀の日は旧九月二十七日が神前で行われる祭儀日だった。
いつの時代に移り替ったのか判らないが、現在は10月15日である。
調書によれば「祭儀を終えて退社した渡り衆は当家に上がり込む。
その際には竹枝に御幣紙を付箋したものを手にした人が当家の家先で出迎える。
そのときに御幣付きの竹を一本ずつ渡り衆に手渡す。
先導しながら当家の家に上がり込む。
「あきのくに いつくしまの べんざいてんの ねじろやなぎ あらわれにけり げにもそよそよ いざやおがまん」を繰り返し唱和しながら上がり込む」。
これを「踊り込み」と呼ぶ。
高膳の盛られたお米と小豆を手にする楽人たちは竹を振りながらそれらを撒き散らす。
「祭り日には毎年能師を招いて能楽を奏する例」とある。
翌日の旧二十八日には「帰り夜宮と称して御幣元より当家へ向け楽人を向う為七度半の使いを立て、是より御幣元宅へ楽人着座し大の御幣弐木を調製し、その日の午後は御幣元となる出生男子母と共に先登し、父を御幣を男子の頭上に差掛け、次に楽人の一老が御幣を構え各楽人が次につく。神前に礼拝儀式を行い、終りて帰途に御幣元宅より竹枝に付箋もの10本を構えて出迎えた」。
そして同じように「あきのくに いつくしまの べんざいてんの ねじろやなぎ あらわれにけり げにもそよそよ いざやおがまんの歌を繰り返し歌いこみつつ座に着いた」。
さらに「座に着いた楽人は酒肴を供させられ一天四海波の謡を唄い、一同起立して御幣元宅を退座した」。
それから「当家へ帰り楽装を脱衣し、生心落としと称して酒肴の饗応を受けた」とある。
六所神社のマツリにジンパイを奉納された渡り衆。
肩の荷が下りて普段の笑顔に戻った。
ほっとした瞬間である。
車に乗って帰路についたトウヤ家。
手前で降りて日の丸扇と弓張り提灯を持つ人に迎えられる。
渡り衆に一人ずつ笹を手渡せば提灯を手にして先導する。
「あーきのくにの」を謡えば渡り衆は同じように「あーきのくにの」を囃す。「いつくしまの」を謡えば「いつくしまーの」を囃す。

渡り衆は提灯持ちの謡いに復唱するのだ。
続けて「べんざいてんの」も「べんざいてんの」で囃す。
以下、「ねじろのやなぎ」、「あらわれにけり」、「げにもそよそよ」、「いざやおがまん」を一節ずつ謡いながらトウヤ家に向かう。
「あきのくに いつくしまの べんざい(びざい)てん ねじろのやなぎ あらわれにけり げにもそよそよ いざやおがまん」を繰り返してゆっくりと歩く。
玄関から入って座敷に上がり込む。
目出度い台詞は調書に書かれてあった「オドリコミ(踊り込み)」の様相である。
座敷中央には高膳に盛られたお米と小豆がある。
紙片も乗せていた。

それを手にした8人の渡り衆。
竹を振りながら時計回り。

「なーんのたーね(何の種) まーきましょ ふーくのたーね(福の種) まーきましょ」と囃しながらお米と小豆をばら撒く。
何度も何度も繰り返す「福の種撒き」の所作である。
調子づいて小鼓も打ち鳴らす。

三周したであろうか福の種撒きを終えたシートはお米や小豆に紙片が散っていた。
史料によれば続いて「たからをまきましょう」とあったが、この年は見られなかった。
福の種が一面に広がった座敷は奇麗に掃除をされて渡り衆を慰労する場になる。
装束も仕舞われたトウヤ家の座敷はご馳走の皿がずらりと並ぶ。

トウヤ家の当主は渡り衆に対して厚く御礼を申し述べて、宴はトウヤ家のもてなし料理の膳をよばれる。
家紋が描かれた提灯に灯りが点いたトウヤ家の宴は夜が更けるまでもてなしたようだ。

大正四年八月四日に書き残された『東山村各神社由緒調査』によれば大字北野・天神社に「當屋ノ門前ヨリ藤永(栄の誤記か)謡ヲ謡フ。ソノ謡左ノ如シ。川ぎしのーー ねじろの柳ぎあらわれにけり そうよな あらわれてーー いつかはきみとーー わらわらとーー きみと枕さためぬ やよがりもそうよな」であった。
続けて「右謡ツヽ豫テ之ヨリ先キ當屋ニ於テ洗米及大豆ヲ三方ニ盛リアルヲ各自ニ取リテ(千石ノ米捲キ 万石ノ豆捲キ)ト唱ヘ屋内ニ打捲キ、其侭坐ニ着キ薑吸雑ヲ戴ク。之レニテ儀式ハ全ク終ルモノナリ」とある。
今では見られないが、かつては千石(せんごく)、万石(まんごく)の台詞を謡いながら席に着いたようだ。
「川岸の根白の柳」の一節は、能の「藤栄」の渡り拍子・小歌による囃しに「川岸の 根白の柳 あらはれにけりやそよの」があり、芸能においては演者が笹を手にする場面がある。
能の一部伝承が「オドリコミ」の祝言所作に取り入れられたと考えられている。
なお、渡り衆が手にしていた笹の御幣は今夜の宴を終えて家に持ち帰るそうだ。
笹の御幣は神さん。
授かった御幣は床の間に飾って次にあたる年度まで置いておくと云う。
(H26.10.15 EOS40D撮影)
いつの時代に移り替ったのか判らないが、現在は10月15日である。
調書によれば「祭儀を終えて退社した渡り衆は当家に上がり込む。
その際には竹枝に御幣紙を付箋したものを手にした人が当家の家先で出迎える。
そのときに御幣付きの竹を一本ずつ渡り衆に手渡す。
先導しながら当家の家に上がり込む。
「あきのくに いつくしまの べんざいてんの ねじろやなぎ あらわれにけり げにもそよそよ いざやおがまん」を繰り返し唱和しながら上がり込む」。
これを「踊り込み」と呼ぶ。
高膳の盛られたお米と小豆を手にする楽人たちは竹を振りながらそれらを撒き散らす。
「祭り日には毎年能師を招いて能楽を奏する例」とある。
翌日の旧二十八日には「帰り夜宮と称して御幣元より当家へ向け楽人を向う為七度半の使いを立て、是より御幣元宅へ楽人着座し大の御幣弐木を調製し、その日の午後は御幣元となる出生男子母と共に先登し、父を御幣を男子の頭上に差掛け、次に楽人の一老が御幣を構え各楽人が次につく。神前に礼拝儀式を行い、終りて帰途に御幣元宅より竹枝に付箋もの10本を構えて出迎えた」。
そして同じように「あきのくに いつくしまの べんざいてんの ねじろやなぎ あらわれにけり げにもそよそよ いざやおがまんの歌を繰り返し歌いこみつつ座に着いた」。
さらに「座に着いた楽人は酒肴を供させられ一天四海波の謡を唄い、一同起立して御幣元宅を退座した」。
それから「当家へ帰り楽装を脱衣し、生心落としと称して酒肴の饗応を受けた」とある。
六所神社のマツリにジンパイを奉納された渡り衆。
肩の荷が下りて普段の笑顔に戻った。
ほっとした瞬間である。
車に乗って帰路についたトウヤ家。
手前で降りて日の丸扇と弓張り提灯を持つ人に迎えられる。
渡り衆に一人ずつ笹を手渡せば提灯を手にして先導する。
「あーきのくにの」を謡えば渡り衆は同じように「あーきのくにの」を囃す。「いつくしまの」を謡えば「いつくしまーの」を囃す。

渡り衆は提灯持ちの謡いに復唱するのだ。
続けて「べんざいてんの」も「べんざいてんの」で囃す。
以下、「ねじろのやなぎ」、「あらわれにけり」、「げにもそよそよ」、「いざやおがまん」を一節ずつ謡いながらトウヤ家に向かう。
「あきのくに いつくしまの べんざい(びざい)てん ねじろのやなぎ あらわれにけり げにもそよそよ いざやおがまん」を繰り返してゆっくりと歩く。
玄関から入って座敷に上がり込む。
目出度い台詞は調書に書かれてあった「オドリコミ(踊り込み)」の様相である。
座敷中央には高膳に盛られたお米と小豆がある。
紙片も乗せていた。

それを手にした8人の渡り衆。
竹を振りながら時計回り。

「なーんのたーね(何の種) まーきましょ ふーくのたーね(福の種) まーきましょ」と囃しながらお米と小豆をばら撒く。
何度も何度も繰り返す「福の種撒き」の所作である。
調子づいて小鼓も打ち鳴らす。

三周したであろうか福の種撒きを終えたシートはお米や小豆に紙片が散っていた。
史料によれば続いて「たからをまきましょう」とあったが、この年は見られなかった。
福の種が一面に広がった座敷は奇麗に掃除をされて渡り衆を慰労する場になる。
装束も仕舞われたトウヤ家の座敷はご馳走の皿がずらりと並ぶ。

トウヤ家の当主は渡り衆に対して厚く御礼を申し述べて、宴はトウヤ家のもてなし料理の膳をよばれる。
家紋が描かれた提灯に灯りが点いたトウヤ家の宴は夜が更けるまでもてなしたようだ。

大正四年八月四日に書き残された『東山村各神社由緒調査』によれば大字北野・天神社に「當屋ノ門前ヨリ藤永(栄の誤記か)謡ヲ謡フ。ソノ謡左ノ如シ。川ぎしのーー ねじろの柳ぎあらわれにけり そうよな あらわれてーー いつかはきみとーー わらわらとーー きみと枕さためぬ やよがりもそうよな」であった。
続けて「右謡ツヽ豫テ之ヨリ先キ當屋ニ於テ洗米及大豆ヲ三方ニ盛リアルヲ各自ニ取リテ(千石ノ米捲キ 万石ノ豆捲キ)ト唱ヘ屋内ニ打捲キ、其侭坐ニ着キ薑吸雑ヲ戴ク。之レニテ儀式ハ全ク終ルモノナリ」とある。
今では見られないが、かつては千石(せんごく)、万石(まんごく)の台詞を謡いながら席に着いたようだ。
「川岸の根白の柳」の一節は、能の「藤栄」の渡り拍子・小歌による囃しに「川岸の 根白の柳 あらはれにけりやそよの」があり、芸能においては演者が笹を手にする場面がある。
能の一部伝承が「オドリコミ」の祝言所作に取り入れられたと考えられている。
なお、渡り衆が手にしていた笹の御幣は今夜の宴を終えて家に持ち帰るそうだ。
笹の御幣は神さん。
授かった御幣は床の間に飾って次にあたる年度まで置いておくと云う。
(H26.10.15 EOS40D撮影)