平成27年3月31日を最後に31年間も勤めたNC社が消滅する。
翌月4月1日からは平成22年3月に100%子会社していたNIT社に吸収合併されるのだ。
NC社の創立は昭和42年12月1日。
当時の社名は略称NCS社だった。
平成元年に略称NC社に移り替った。
私は設立後数年経った昭和46年に途中入社した。
大阪市内にあったコンピュータセンターのシステム運用に携わった。
昭和58年4月からは所属替えでマイクロ撮影運営業務管理。
昭和60年4月のシステム営業部。
平成2年の4月には再び戻ったコンピュータセンターの運用管理。
翌年の平成3年には堺市にあるコンピュータセンターのシステム運用に移った。
平成5年4月からは人材開発部の兼任スタッフも勤めた。
数年後の平成9年4月より監査室。
これまでは運用業務を主に担当したが経営に関わる内部監査業務に携わることになった。
その後、平成11年7月に創業・設立されたNIT社へ出向として監査室に移った。
その後の平成14年9月、経営部署のリスク管理部を最後に早期定年で辞めることになったNC社。
31年間の勤めだった。
私が入社したときの従業員数は60人だった。
最大従業員数はたしか600人にもなったことがある。
NIT社の創業とともに出向若しくは転籍で最後になる今年は約370人。
一方、NIT社は1850人。
NC社は消滅するが人材はNIT社に移るそうだ。
48年もの長い期間を創業してきたNC社。
マイクロ業務に在籍していたのは昭和58年4月から60年3月までの2年間だ。
男ばかりの運用から女性ばかりの部門に馴染めるのかどうか不安だった。
不安を解消してくれたのが女性職員だった。
1月28日の夜だった。
自宅で夜食を食べていたときに架かった電話のベル。
誰だろうと思って受話器をあげたのはかーさんだ。
NC社が解散になるのでさよならOB会に出席してほしいと伝えるKさん。
懐かしい声である。
幹事をするHさんに携帯電話の番号を知らせたいという。
答えはもちろんである。
しばらくすれば携帯電話が鳴った。
Hさんの声も懐かしい。
およそ12年ぶりの声に懐かしさがこみあげる。
その夜のメールに彼女の電話番号とメルアドが送られてきた。
数日後に日程・時間・場所を伝えるメッセージが届いた。
場所は大阪市中央区道修町の上海楼横掘本店だ。
何人かは都合で欠席されるが当時の部長は参加するという。
数日後にも彼女から携帯メールが届いた。
発刊した『奈良大和路の年中行事』を持参してその場で押し付けて完売してくださいという。
ありがたい知らせであるが10冊もあれば重たい荷物。
ハンド付きのザックに詰め込んで出かけたけど買ってくれるやろか、である。
男のOB会ではそのような声もあがらず興味もない。
「おまえがこんな本を出版できるわけがない。ゴーストライターが書いたんやろ」と云われる始末である。
もう一人は「タダで配れ」という。
価値を認めない男たちである。
前日に送られたメールに二次会の案内。
もちろん参加する。
地下鉄出た処で案内人のNさんが案内札を掲げて待っていると云っていたが、出口には誰も現れない。
後から聞いたのは改札口だった。
それを知らずに駅から歩くこと5分。

上海楼横堀本店はすぐに判った。
階段を上った2階が会場。
Hさんは受付をしていた。

会費の5500円を支払って宴席テーブルにつく。
持ってきた本はここに並べておいたら見てくれると云われてテーブルに並べる。
売値は税抜き本体価格。
先月に鹿谷さんが作ってくれたプレートも立てた。
次々と上がってきた懐かしい顔ぶれ。
何人かは顔は覚えているが名前が思い出せない。
Kさんは覚えているが「名前は」と云われて「きょうこ」。
漢字はと云われて回答したが違っていた。
ありゃりゃである。
元部長のYさんや大先輩のYさんもやってきた。
元部長はマイクロ部門の次に職務した営業でもご一緒だった。
当時に発売されたシャープ製の漢字電子手帳を本社支社に持ち込んで販売したことがある。
1支社で60台買ってもらったことを覚えている機種は電卓から発展したPA-7000だったと思う。
昭和62年に発売された電子手帳は画期的だったが後々に販売された機種は多数行表示のPDAに譲った。
ほぼ同時に発売された3行表示のワープロも直販した。
このころの営業は楽しくて仕方がなかった。
十数年ぶりにお会いする人たちから「今、何してんのん」と尋ねられたら一人一人に伝えなきゃならない。
そう思って簡単にまとめたプロフィールを配っておいたが役に立たなかった。
関心は職務していた時代の懐かしさである。
在籍は2年間だったがその期間に会社指名の委員長をこなした。
ひとつは「さわやか委員長」で、もう一つは「社友会委員長」である。
「さわやか委員長」は職場の整理整頓を公式に進める役目。
「社友会委員長」は大手各社にもある職員組織。
組合ではない。
若い会社だったので他社にもあるようなOB会でもない。
規定があったのかどうか、まったく覚えていないが会社運動会や新入職員入社式で挨拶をしたことがある。
なにより覚えているのが運動会だ。
当時、幼児だった長男を車に乗せて出かけた運動会会場。
合間におむつを交換していた。
それを見ていた彼女たちは、今でいう「イクメン」だったのねと云う。
集まった女性たちのなかには私を知らない人たちがいる。
およそ半数である女性たちは営業部門に移ってからの新人だった。
話すこともないから覚えていないのは当然だ。
そこは同じ時期に職務していた二人の男性職員に任す。
マイクロ時代の2年目に入社したKさんは自宅でパン屋さんを営んでいる。
案内チラシを手渡す。
自然酵母のパンを販売するオーシャンズ・ベーカリー。
チラシを貰ったので宣伝しておく。
オープンは月、火、水、金、土。開店時間は書いてなかった。
場所といえば大阪・吹田市の末広町。
JR吹田駅下車して東へ徒歩10分らしい。
お近くの人は是非立ち寄って味見をしていただきたく、ここで宣伝をしておく。
17時より始まったさよならマイクロOB会も3時間経過。
記念写真を撮って解散する。
持ってきた本は誰も関心がなかったが、何人かが寄ってきた。
私も買う、私も買うと云って手にしてくれた奈良本。
こんなに綺麗な写真集は見たことがないと云って買ってくれた5人の女性たち。
ありがたいことに顔も名前も存知しない当時の新人さんが買ってくれた。
なんでも奈良に興味があるらしい。

解散後は二次会である。
課長職を勤めるSさんは今夜も仕事だった。
早ければ夜8時に合流できると云っていたが無理だった。
お茶をしたいと何人かが残っていた。
行先は地下鉄淀屋橋の出入口。

すぐ傍には「かき広」の看板がある。
船座敷がある名大の牡蠣・鮮魚店だ。
ここへは入らない。
すぐ近くにあったお店はカフェベローチュ淀屋橋店。
注文は1階。
頼んだ一杯のアイスコーヒ-(200円)を手にして2階に上がる。
そこでゆっくり寛ぐ時間帯は21時。
しばらくお茶して帰路につく。
難波から近鉄電車で帰るのだが3人の女性たちと一緒だ。
なんでも今夜はHさん宅に泊まり込み。
仲がいい彼女たちはときおりそうしているらしい。
後日にメール添付で送ってくれた記念写真。
顔は判るが名前は相変わらず思い出せない人もいる。
送り主の幹事さんに名前をお願いしたら手書きした写真を送ってくれた。
これで思い出した。
(H27. 2.21 SB932SH撮影)
翌月4月1日からは平成22年3月に100%子会社していたNIT社に吸収合併されるのだ。
NC社の創立は昭和42年12月1日。
当時の社名は略称NCS社だった。
平成元年に略称NC社に移り替った。
私は設立後数年経った昭和46年に途中入社した。
大阪市内にあったコンピュータセンターのシステム運用に携わった。
昭和58年4月からは所属替えでマイクロ撮影運営業務管理。
昭和60年4月のシステム営業部。
平成2年の4月には再び戻ったコンピュータセンターの運用管理。
翌年の平成3年には堺市にあるコンピュータセンターのシステム運用に移った。
平成5年4月からは人材開発部の兼任スタッフも勤めた。
数年後の平成9年4月より監査室。
これまでは運用業務を主に担当したが経営に関わる内部監査業務に携わることになった。
その後、平成11年7月に創業・設立されたNIT社へ出向として監査室に移った。
その後の平成14年9月、経営部署のリスク管理部を最後に早期定年で辞めることになったNC社。
31年間の勤めだった。
私が入社したときの従業員数は60人だった。
最大従業員数はたしか600人にもなったことがある。
NIT社の創業とともに出向若しくは転籍で最後になる今年は約370人。
一方、NIT社は1850人。
NC社は消滅するが人材はNIT社に移るそうだ。
48年もの長い期間を創業してきたNC社。
マイクロ業務に在籍していたのは昭和58年4月から60年3月までの2年間だ。
男ばかりの運用から女性ばかりの部門に馴染めるのかどうか不安だった。
不安を解消してくれたのが女性職員だった。
1月28日の夜だった。
自宅で夜食を食べていたときに架かった電話のベル。
誰だろうと思って受話器をあげたのはかーさんだ。
NC社が解散になるのでさよならOB会に出席してほしいと伝えるKさん。
懐かしい声である。
幹事をするHさんに携帯電話の番号を知らせたいという。
答えはもちろんである。
しばらくすれば携帯電話が鳴った。
Hさんの声も懐かしい。
およそ12年ぶりの声に懐かしさがこみあげる。
その夜のメールに彼女の電話番号とメルアドが送られてきた。
数日後に日程・時間・場所を伝えるメッセージが届いた。
場所は大阪市中央区道修町の上海楼横掘本店だ。
何人かは都合で欠席されるが当時の部長は参加するという。
数日後にも彼女から携帯メールが届いた。
発刊した『奈良大和路の年中行事』を持参してその場で押し付けて完売してくださいという。
ありがたい知らせであるが10冊もあれば重たい荷物。
ハンド付きのザックに詰め込んで出かけたけど買ってくれるやろか、である。
男のOB会ではそのような声もあがらず興味もない。
「おまえがこんな本を出版できるわけがない。ゴーストライターが書いたんやろ」と云われる始末である。
もう一人は「タダで配れ」という。
価値を認めない男たちである。
前日に送られたメールに二次会の案内。
もちろん参加する。
地下鉄出た処で案内人のNさんが案内札を掲げて待っていると云っていたが、出口には誰も現れない。
後から聞いたのは改札口だった。
それを知らずに駅から歩くこと5分。

上海楼横堀本店はすぐに判った。
階段を上った2階が会場。
Hさんは受付をしていた。

会費の5500円を支払って宴席テーブルにつく。
持ってきた本はここに並べておいたら見てくれると云われてテーブルに並べる。
売値は税抜き本体価格。
先月に鹿谷さんが作ってくれたプレートも立てた。
次々と上がってきた懐かしい顔ぶれ。
何人かは顔は覚えているが名前が思い出せない。
Kさんは覚えているが「名前は」と云われて「きょうこ」。
漢字はと云われて回答したが違っていた。
ありゃりゃである。
元部長のYさんや大先輩のYさんもやってきた。
元部長はマイクロ部門の次に職務した営業でもご一緒だった。
当時に発売されたシャープ製の漢字電子手帳を本社支社に持ち込んで販売したことがある。
1支社で60台買ってもらったことを覚えている機種は電卓から発展したPA-7000だったと思う。
昭和62年に発売された電子手帳は画期的だったが後々に販売された機種は多数行表示のPDAに譲った。
ほぼ同時に発売された3行表示のワープロも直販した。
このころの営業は楽しくて仕方がなかった。
十数年ぶりにお会いする人たちから「今、何してんのん」と尋ねられたら一人一人に伝えなきゃならない。
そう思って簡単にまとめたプロフィールを配っておいたが役に立たなかった。
関心は職務していた時代の懐かしさである。
在籍は2年間だったがその期間に会社指名の委員長をこなした。
ひとつは「さわやか委員長」で、もう一つは「社友会委員長」である。
「さわやか委員長」は職場の整理整頓を公式に進める役目。
「社友会委員長」は大手各社にもある職員組織。
組合ではない。
若い会社だったので他社にもあるようなOB会でもない。
規定があったのかどうか、まったく覚えていないが会社運動会や新入職員入社式で挨拶をしたことがある。
なにより覚えているのが運動会だ。
当時、幼児だった長男を車に乗せて出かけた運動会会場。
合間におむつを交換していた。
それを見ていた彼女たちは、今でいう「イクメン」だったのねと云う。
集まった女性たちのなかには私を知らない人たちがいる。
およそ半数である女性たちは営業部門に移ってからの新人だった。
話すこともないから覚えていないのは当然だ。
そこは同じ時期に職務していた二人の男性職員に任す。
マイクロ時代の2年目に入社したKさんは自宅でパン屋さんを営んでいる。
案内チラシを手渡す。
自然酵母のパンを販売するオーシャンズ・ベーカリー。
チラシを貰ったので宣伝しておく。
オープンは月、火、水、金、土。開店時間は書いてなかった。
場所といえば大阪・吹田市の末広町。
JR吹田駅下車して東へ徒歩10分らしい。
お近くの人は是非立ち寄って味見をしていただきたく、ここで宣伝をしておく。
17時より始まったさよならマイクロOB会も3時間経過。
記念写真を撮って解散する。
持ってきた本は誰も関心がなかったが、何人かが寄ってきた。
私も買う、私も買うと云って手にしてくれた奈良本。
こんなに綺麗な写真集は見たことがないと云って買ってくれた5人の女性たち。
ありがたいことに顔も名前も存知しない当時の新人さんが買ってくれた。
なんでも奈良に興味があるらしい。

解散後は二次会である。
課長職を勤めるSさんは今夜も仕事だった。
早ければ夜8時に合流できると云っていたが無理だった。
お茶をしたいと何人かが残っていた。
行先は地下鉄淀屋橋の出入口。

すぐ傍には「かき広」の看板がある。
船座敷がある名大の牡蠣・鮮魚店だ。
ここへは入らない。
すぐ近くにあったお店はカフェベローチュ淀屋橋店。
注文は1階。
頼んだ一杯のアイスコーヒ-(200円)を手にして2階に上がる。
そこでゆっくり寛ぐ時間帯は21時。
しばらくお茶して帰路につく。
難波から近鉄電車で帰るのだが3人の女性たちと一緒だ。
なんでも今夜はHさん宅に泊まり込み。
仲がいい彼女たちはときおりそうしているらしい。
後日にメール添付で送ってくれた記念写真。
顔は判るが名前は相変わらず思い出せない人もいる。
送り主の幹事さんに名前をお願いしたら手書きした写真を送ってくれた。
これで思い出した。
(H27. 2.21 SB932SH撮影)