3月3日は桃の節句の雛祭り。
華やかなイベントは目もくれず出かけた先は田原本町の蔵堂。
毎年交替される須佐之男神社の祭祀をつとめるトーヤ(当屋)は4人。
年中行事は正月の元旦祭、3月のショウグンサン(将軍さん)、8月のオヒマッツアン(お日待ち)に10月のヨミヤ(百味の御食)だ。
4回あるから4人がそれぞれの行事の代表年番にあたる。
「蔵堂のしょうごんさん」は昭和59年に発刊された『田原本町の年中行事』の目次に書いてあったが詳細は不明だった。
村屋神社の守屋宮司が若干話してくれたことだけが手がかり。
墨書するごーさん札はヤナギの枝に挟んで供えることしか聞いていなかった。
朝早くから公民館で調整をしていた4人のトーヤ。
墨書していたのは守屋宮司だ。
墨書文字は流れるような形。
文字とは思えない。
そこに朱も書き入れる。
ふにゃふにゃした文字は神代(じんだい)文字と呼ばれる。
神代文字は別名に「ひふみ文字」とも云われるらしい。
墨書した文字は「スサノオノミコト」だという。
「スサノオノミコト」は牛頭さんを祀る須佐之男神社のことだ。
朱はなんとなく宝印をあらわしているように思えた。
そう言ったら宮司もそう思うといった。
書ができたごーさん札はネコヤナギの木に挟む。
20本も準備したネコヤナギはすべてが芽吹き状態。
今にも開きそうな感じだ。
お札を四つ折りにして挟む部分には切り込みを入れてある。
外れないように下部に輪ゴムで止められた。
ナタで切り込みを入れた真竹に御幣を挿す。
それに杉の葉を挿した。
これら、祭具の調整を済ませたトーヤ4人と宮司は小字名奥垣内に鎮座する須佐之男神社に向かう。
行事を終えたときに村各戸に配るモチも運ぶ。
須佐之男神社・社殿は二社。
左は弁天さんを祀る市杵島姫神社で、右が須佐之男神社だ。
かつては神社右横に神宮寺の薬師堂があったと宮司は話していたが史料は残っていない。
薬師堂があった場の西側に梅が咲いていた。
行事は一般的な神事で行われるが、ヤナギの枝やごーさん札があることから、かつてはショウゴンサンと呼ばれていた寺行事であった。
ショウゴンサンを充てる感じは「荘厳さん」。
いつしか訛って呼び名はショウグンサンになった。
充てる感じは「将軍さん」だ。
このような事例は奈良県内にいくつかある。
蔵堂の薬師さんの将軍さん行事のお札は「スサノオノミコト」文字。
かつては薬師堂の「牛玉宝印」を押したごーさんであったと推測されるのだ。
いつしか寺が廃れて神社行事に移ったと考えられる。
神饌御供はコジュウタに盛った二升一臼で搗いたモチもあれば、アジやホウレンソウなどもある。
アジは二尾。
「ハラハラドウシ」に合わせて盛る。
付け加えていうならば「ウミバラ カワセ」であるという宮司。
「ウミバラ カワセ」の意は海の魚であれば腹合わせ。
川魚であれば背中合わせにするというのだ。
アジは海の魚であるから「ハラハラドウシ」。
つまり二尾のアジはお腹とお腹合わせにするのである。
宮司一拝、祝詞奏上、玉串奉奠などの神事を終えたら、宮司と一人のトーヤが東の塚に向かって出かける。
先頭を行く宮司はサカキの幣を持つ。
後方にトーヤ(当屋)が就く。
杉の葉を挿した竹の御幣を持つ。
集落を抜けてまっすぐな道の農道をお渡り。
昔の農道はもっと狭かったそうだ。
今では広げられてトラクターも走る農道。
500mほどのお渡りに黙々と歩いていく。
10分ほどで着いた地にこんもりと盛り土をしたような塚がある。
それが東の塚。
ここは隣村の天理市檜垣町(ひがいちょう)との境界地辺りである。
南側に蔵堂池がある。
この辺りの昔。
遡ること飛鳥時代。
曲水の宴をしていたと宮司が話す。
曲がりくねった小川に遊ぶ宮中の宴であったろう。
北側は天理市遠田(おいだ)町。
三つの井戸があったことから「御井戸」。
「みいど」とも読めるが「おいど」であった。
「おいど」が「おいだ」に変化して、充てる漢字も「遠田」になったと宮司が話す。
塚の北側は十六条、南は十七条(小字に下六条・上六条)の名がある条理の地。
蔵堂は十八条。
すべてが条理制の地番割りになるそうだ。
ちなみに塚がある小字名は郡神であるが、読み名知らず、である。
天理市檜垣町内の田んぼにある塚をサカキ幣で祓い清める宮司。
トーヤは御幣を塚の中央に立てる。
この地より東南は纏向遺跡。
その向こうに見える山は三輪山。
田園が広がる地から遠望した。
塚での神事を終えた宮司とトーヤは公民館として利用している蔵堂誠宏会館に戻っていく。
これより須佐之男神社に供えたネコヤナギのごーさんを各戸に配る。
トーヤモチは小学6年生までの子供が居る家庭に配られる。
かつては学校帰りに弁当を貰いに行った。
その足でモチを貰いに行った。
モチを貰うのは男の子だった。
子供が貰ったモチは薬になる。
一年間は病気にならなかったという言い伝えがあったそうだ。
隣町の檜垣町の人はこれを見ていたら腹痛になると云って逃げていったという逸話もあるらしい。
ちなみに農家を営む家に配られたネコヤナギのごーさんは苗代を作った際に立てているそうだ。
だいたいが5月のGWになるという。
(H27. 3. 3 EOS40D撮影)
華やかなイベントは目もくれず出かけた先は田原本町の蔵堂。
毎年交替される須佐之男神社の祭祀をつとめるトーヤ(当屋)は4人。
年中行事は正月の元旦祭、3月のショウグンサン(将軍さん)、8月のオヒマッツアン(お日待ち)に10月のヨミヤ(百味の御食)だ。
4回あるから4人がそれぞれの行事の代表年番にあたる。
「蔵堂のしょうごんさん」は昭和59年に発刊された『田原本町の年中行事』の目次に書いてあったが詳細は不明だった。
村屋神社の守屋宮司が若干話してくれたことだけが手がかり。
墨書するごーさん札はヤナギの枝に挟んで供えることしか聞いていなかった。
朝早くから公民館で調整をしていた4人のトーヤ。
墨書していたのは守屋宮司だ。
墨書文字は流れるような形。
文字とは思えない。
そこに朱も書き入れる。
ふにゃふにゃした文字は神代(じんだい)文字と呼ばれる。
神代文字は別名に「ひふみ文字」とも云われるらしい。
墨書した文字は「スサノオノミコト」だという。
「スサノオノミコト」は牛頭さんを祀る須佐之男神社のことだ。
朱はなんとなく宝印をあらわしているように思えた。
そう言ったら宮司もそう思うといった。
書ができたごーさん札はネコヤナギの木に挟む。
20本も準備したネコヤナギはすべてが芽吹き状態。
今にも開きそうな感じだ。
お札を四つ折りにして挟む部分には切り込みを入れてある。
外れないように下部に輪ゴムで止められた。
ナタで切り込みを入れた真竹に御幣を挿す。
それに杉の葉を挿した。
これら、祭具の調整を済ませたトーヤ4人と宮司は小字名奥垣内に鎮座する須佐之男神社に向かう。
行事を終えたときに村各戸に配るモチも運ぶ。
須佐之男神社・社殿は二社。
左は弁天さんを祀る市杵島姫神社で、右が須佐之男神社だ。
かつては神社右横に神宮寺の薬師堂があったと宮司は話していたが史料は残っていない。
薬師堂があった場の西側に梅が咲いていた。
行事は一般的な神事で行われるが、ヤナギの枝やごーさん札があることから、かつてはショウゴンサンと呼ばれていた寺行事であった。
ショウゴンサンを充てる感じは「荘厳さん」。
いつしか訛って呼び名はショウグンサンになった。
充てる感じは「将軍さん」だ。
このような事例は奈良県内にいくつかある。
蔵堂の薬師さんの将軍さん行事のお札は「スサノオノミコト」文字。
かつては薬師堂の「牛玉宝印」を押したごーさんであったと推測されるのだ。
いつしか寺が廃れて神社行事に移ったと考えられる。
神饌御供はコジュウタに盛った二升一臼で搗いたモチもあれば、アジやホウレンソウなどもある。
アジは二尾。
「ハラハラドウシ」に合わせて盛る。
付け加えていうならば「ウミバラ カワセ」であるという宮司。
「ウミバラ カワセ」の意は海の魚であれば腹合わせ。
川魚であれば背中合わせにするというのだ。
アジは海の魚であるから「ハラハラドウシ」。
つまり二尾のアジはお腹とお腹合わせにするのである。
宮司一拝、祝詞奏上、玉串奉奠などの神事を終えたら、宮司と一人のトーヤが東の塚に向かって出かける。
先頭を行く宮司はサカキの幣を持つ。
後方にトーヤ(当屋)が就く。
杉の葉を挿した竹の御幣を持つ。
集落を抜けてまっすぐな道の農道をお渡り。
昔の農道はもっと狭かったそうだ。
今では広げられてトラクターも走る農道。
500mほどのお渡りに黙々と歩いていく。
10分ほどで着いた地にこんもりと盛り土をしたような塚がある。
それが東の塚。
ここは隣村の天理市檜垣町(ひがいちょう)との境界地辺りである。
南側に蔵堂池がある。
この辺りの昔。
遡ること飛鳥時代。
曲水の宴をしていたと宮司が話す。
曲がりくねった小川に遊ぶ宮中の宴であったろう。
北側は天理市遠田(おいだ)町。
三つの井戸があったことから「御井戸」。
「みいど」とも読めるが「おいど」であった。
「おいど」が「おいだ」に変化して、充てる漢字も「遠田」になったと宮司が話す。
塚の北側は十六条、南は十七条(小字に下六条・上六条)の名がある条理の地。
蔵堂は十八条。
すべてが条理制の地番割りになるそうだ。
ちなみに塚がある小字名は郡神であるが、読み名知らず、である。
天理市檜垣町内の田んぼにある塚をサカキ幣で祓い清める宮司。
トーヤは御幣を塚の中央に立てる。
この地より東南は纏向遺跡。
その向こうに見える山は三輪山。
田園が広がる地から遠望した。
塚での神事を終えた宮司とトーヤは公民館として利用している蔵堂誠宏会館に戻っていく。
これより須佐之男神社に供えたネコヤナギのごーさんを各戸に配る。
トーヤモチは小学6年生までの子供が居る家庭に配られる。
かつては学校帰りに弁当を貰いに行った。
その足でモチを貰いに行った。
モチを貰うのは男の子だった。
子供が貰ったモチは薬になる。
一年間は病気にならなかったという言い伝えがあったそうだ。
隣町の檜垣町の人はこれを見ていたら腹痛になると云って逃げていったという逸話もあるらしい。
ちなみに農家を営む家に配られたネコヤナギのごーさんは苗代を作った際に立てているそうだ。
だいたいが5月のGWになるという。
(H27. 3. 3 EOS40D撮影)