高取町丹生谷に赤穂講の存在があると聞いてやってきた。
伝えられた人物は村人のN氏。
平成22年2月20日に勤務していた市施設の市民交流館に来られた人だ。
話しを伺えば高取町イベントでなにかと活躍されている人だった。
男性とは以前にお会いしたことがある。
毎年4月初めの日曜日に行われる村行事の御田祭がある。
祭事の場は船倉弁天神社である。
訪れたのは平成19年4月1日だった。
このときはお話することもなかった。
村役として参列されていた男性がひょっこりと市民交流館に来られたのだ。
後日、何度かメールでやり取りしたことがある。
取材してときの写真を探してみれば、御田祭に参ったなかの一人だった。
メールに添付して送った。
そのこともあって執筆中だった産経新聞連載中の「やまと彩祭」記事内容を検証してもらった。
ありがたいことである。
その後、男性とは年賀状で近況を伝えていた。
今年の年初に届いた年賀状に書いてあった文言に驚いた。
ビジネスマン時代、それも中途入社したころの若い時代。
上司であったK氏は同卿であると書いていたのだ。
通知に腰を透かした。
まさかの展開である。
K氏はかーさんもよく存じている。
ほぼ入社が一緒だった。
社内旅行に写っていたK氏とこういう関係があったとかーさんに伝えたらこれもまたびっくりしていた。
K氏は何年か前からホームページをアップしている。
近年、生まれ故郷の丹生谷の歴史文化を調べて書き記している。
N氏とともに調べられた事実関係を執筆・公開されている。
奇妙な出会いに丹生谷の民俗を取材することにした。
今回の取材行事は「あこうさん」と呼ばれる行事だ。
「あこうさん」は新暦三月二の午の日に行われる講中の行事である。
早朝から集まった人たちは餅つき機で御供餅を搗く。
場は因光寺境内に建つ清九郎会館(平成4年1月5日竣工)。
大和の清九郎と知られる妙好人(篤信者)の遺品などを保管展示(要予約)されている。
延宝六年(1678)、丹生谷近隣地の矢田(現谷田村)で生誕した清九郎。
貧農だった幼児のころに丹生谷村(墓標が建つ鉾立村説がある)に移り住んだ。
父が早くに亡くなり、母一人、子一人の暮らしを真面目に働いた清九郎は母に仕える無類の母親孝行者。
親孝行は高取城主の耳に届いた。
褒美に米五俵を与えられたが、「子供が親に仕えるのは当たり前」と云って断り辞退した。
清九郎の意思に感銘を受けた城主は、領内の山の木のシバを自由に刈り取る特権を与えた。
詳しいことを語る言葉を持ち合わせていない。
さまざまな人が訪問記などをブログ等でアップされているので、そちらを参考にしていただきたい。
かつては講中のヤド家で行われてきた「あこうさん」は清九郎会館の場を借りて餅搗きなどをする。
到着した時間帯は餅搗きを終えてヨモギモチを作っていた。
朝8時から作業を始めたという。
近所で摘んできた新鮮なヨモギは炭酸を入れて湯掻く。
いわゆるアクトリである。
すり鉢で潰して一旦は蒸し器の上に置いて温めておく。
餅はウルチ(粳)米のコメコを混ぜたモチ、というかダンゴ。
機械で搗くときに混ぜて作る。
昔はコゴメを挽いてカラウスで搗いた。
クズマイ(屑米)にモチゴメ半分を混ぜて作ったアラレモチもあった。
美味しかったが、悪ゴメと云われたコゴメのモチは硬さがあったという。
御供モチ、ヨモギモチの原材料になるモチゴメは七升。
四臼も搗いたという。
搗きあがった熱々のヨモギモチは手で千切って素早く丸める。
キナコや小豆餡を塗してできあがり。
「テショ」或は「オテショ」と呼ぶ小皿に盛る。
「テショ」は高取町、明日香村の高市郡でそう云っているという。
他地域もそういうかもしれない大和言葉の一つであろう
テーブルに置いて講中がよばれる。
ヨモギモチは「ヨゴミモチ」とも呼んでいた。
「タナカラボタモチやねん」というのはアンツケ餅の方で、キナコモチはその姿のまま通りのキナコモチと呼んでいる。
本来はモチゴメに潰したウルチ米を混ぜていた。
これを「半殺し」と呼んでいた。
コメコ半分、モチゴメ半分で搗いたモチは舌触りが良い。
噛んだときの食感が良いと話す。
赤穂講はかつて30軒の営みだった。
昔はもっと多くて40軒もあったという赤穂講は年老いて辞退する家が多くなり今では9軒になった。
3年ぐらい前まではイロゴハンを炊いて食べていた。
イロゴハンの具材はアゲ、ゴボウ、ニンジン。
米は一升。
コブ出汁でひたひた。
一合の醤油を混ぜて炊いた。
ジャコも入れていたというから出来上がってからパラパラを落としたのであろう。
夜は下げた御供のシイタケなど味付けした具を入れたちらし寿司もあったという。
作っていた当番は二人。
オマツリトーヤ(当家)にモチツキトーヤ(当家)の二人だったそうだ。
作ることをやめたイロゴハン。
その替わりにヨモギモチ作りと思ったが、そうではなかった。
御供モチ作りの合間に作っていた。
ヨモギの餡子があれば作る。
これらがなければ作らない、ということだ。
いずれにしても手間がかかるイロゴハンは講中の人数が少なくなり昨年が最後になったという。
右横におられるご主人は宮総代。
船倉弁天神社の御田祭に出仕される。
宮総代が云うには、男の厄年になれば明日香村の岡寺に参ったという。
24歳のときに参った記憶があるという三月二の午の日である。
ヨモギモチをよばれて一息つける赤穂講の人たち。
食事を済ませたテーブルを綺麗にして並べる。
そこに置いた木の札。
御田祭とも呼ばれている船倉弁天神社の弁天さんがある。
今年も4月初めの日曜日。
村人の名前を書いた木の札は護摩木。
健康祈願、家内安全などを祈祷する護摩木は一本、一本手書きする。
宮総代はともかく赤穂講の人たちは村行事のボランティア活動だと話す。
コーヒーも呼ばれて一服する。
護摩木が準備できたら「あこうさん」に供える御膳を調整する。
ダイコン・ニンジン・アスパラに一枚のスルメを立てて三方に載せる。
コーヤに巻きコンブも載せた御膳は三つ。
いわゆる立て御膳である。
赤穂稲荷大明神や春日神社境内社の高光(たかみつ)神社。
地元では「たかみつさん」と呼んでいる稲荷社である。
もう一つは供えることはないが「ハツオジサン」のお供えだという。
御供は他にもある。
鏡餅やアゲ、生タマゴ、カマボコにアズキゴハンである。
アズキゴハンはセキハンとも云っていた。
先を尖らせた三角のムスビであるが、写真では判り難い。
御供はすべてが三つかと思えばそうではない。
なぜだか鯛だけは二つである。
御供に果物もある。
盛りはリンゴにキヨミオレンジ。
バナナや栗饅頭もある。
この日は雨天。
本来なら「アサギヤマ」と呼ばれる山の上に鎮座する赤穂稲荷大明神に参るのだが山は傾斜地。
ぬかるんだ山道は登ることもできないから清九郎会館内で行われた。
最近作られた赤色の幟旗を立てる。
ローソクに火を灯して御供前に導師が座る。
講中も席について三巻の般若心経を唱える。
雨天で参ることができなかった高取町丹生谷の「あこうさん」の祭事場は数週間前に住民の案内で鎮座地を教えてもらっていた。
数年前に新しく建てた鳥居がある「アサギヤマ」に鎮座する赤穂稲荷大明神に歴史を示すものはないものかと案内人とともに探してみた。
「大正十二年四月 奉献 喜多村チヲ」の刻印があった狛犬。
一方の狛犬は「大正十四年八月 大阪□□」だった。
10年ぐらいまでは三月二の午の日の「あこうさん」の御供横に100本ぐらいの「ハタアメ」も供えていた。
吉野ストアに注文していた「ハタアメ」。
五色だったか、一色だったか、ハタの色は覚えていないそうだ。
いつしか「ハタアメ」を貰いに来る子供が少なくなった。
「たぶんハタアメに興味をもたなくなったので来なくなった」ともいう。
貰いに来る子がいなければ供えることもないだろうとやめたようだ。
その「ハタアメ」は赤穂稲荷大明神より西に400m歩いた御所市の戸毛(とうげ)にある「いろは製菓」で買っていたそうだ。
「あこうさん」は火の神さんだとおばあさんから云い伝えられてきた。
代々だったらしく、その昔からの云い伝え。
「あこうさん」は家を守ってくれるからとおばあさんが話していたそうだ。
高い場所から丹生谷集落を見下ろす「あこうさん」。
村を火災から守ってくれると信じられてきた。
「うちの村は大きな火事は起こったことがない」という講中。
赤穂講が村を守っているような話しである。
一年に一度の講中の行事。
人数は少なくなったが、今後も続けていきたいと話していた。
あこうさんのお参りは春日神社境内社である稲荷社の高光神社にも出向く。
今では参ることのない小字ハツヲ(八尾寺)に鎮座する「ハツオジ」も案内してくださった。
正徳三年癸巳(1713)九月に遷された春日神社の元社地と伝わる「ハツオジ」はおそらくスサノオ神を祀る「八王子社」であったかもしれない。
なお、清九郎会館にはいくつかの版木が残されている。
「あこうさん」を終えて管理人らとともに拝見する。
一つは「妙好人 大和の清九郎 毎月卄七日 御本山へ薪献上」、「五月卄七日 木津川の大水渡れる奇蹟の圖」の文字で清九郎が薪を担いで木津川を渡る姿が描かれている。
版木は比較的新しい。
版木横に「浮元堂蔵版」とあるが版元の所在地は掴めない。
この版木には「超世の悲願聞きし上り 我等は生死の凡夫かは 有漏の穢身はかはらねど 心は浄土ょすみあそぶ」が彫られていた。
信心される人に配られたのであろうか。
もう一つは「清九郎簾追躰」の文字がある版木。
藤弦で編んだと思われる四角い部屋に座する人物を表現している。
何者だろうか。
もしかとして清九郎の帰宅を待つ母親であろうか。
版木はもう一枚ある。
「□□□□ 蓮如上人御旧□跡 □清九郎旧地 和州高市郡丹生谷村 崑崙山圓光寺」だった。
これら二枚ともやや古いように思えた。
版木は大量に刷って頒布するもの。
何を目的に彫られたのか、持ち合わせる手がかりはない。
<※ あこうさんを充てる漢字は「赤穂」さん。神社名が「赤穂稲荷神社」。推定であるが、可能性として考えられるのは兵庫県の赤穂藩から脱藩し移り住んだ人たちの在地であったかも知れない。>
(H27. 3.19 EOS40D撮影)
伝えられた人物は村人のN氏。
平成22年2月20日に勤務していた市施設の市民交流館に来られた人だ。
話しを伺えば高取町イベントでなにかと活躍されている人だった。
男性とは以前にお会いしたことがある。
毎年4月初めの日曜日に行われる村行事の御田祭がある。
祭事の場は船倉弁天神社である。
訪れたのは平成19年4月1日だった。
このときはお話することもなかった。
村役として参列されていた男性がひょっこりと市民交流館に来られたのだ。
後日、何度かメールでやり取りしたことがある。
取材してときの写真を探してみれば、御田祭に参ったなかの一人だった。
メールに添付して送った。
そのこともあって執筆中だった産経新聞連載中の「やまと彩祭」記事内容を検証してもらった。
ありがたいことである。
その後、男性とは年賀状で近況を伝えていた。
今年の年初に届いた年賀状に書いてあった文言に驚いた。
ビジネスマン時代、それも中途入社したころの若い時代。
上司であったK氏は同卿であると書いていたのだ。
通知に腰を透かした。
まさかの展開である。
K氏はかーさんもよく存じている。
ほぼ入社が一緒だった。
社内旅行に写っていたK氏とこういう関係があったとかーさんに伝えたらこれもまたびっくりしていた。
K氏は何年か前からホームページをアップしている。
近年、生まれ故郷の丹生谷の歴史文化を調べて書き記している。
N氏とともに調べられた事実関係を執筆・公開されている。
奇妙な出会いに丹生谷の民俗を取材することにした。
今回の取材行事は「あこうさん」と呼ばれる行事だ。
「あこうさん」は新暦三月二の午の日に行われる講中の行事である。
早朝から集まった人たちは餅つき機で御供餅を搗く。
場は因光寺境内に建つ清九郎会館(平成4年1月5日竣工)。
大和の清九郎と知られる妙好人(篤信者)の遺品などを保管展示(要予約)されている。
延宝六年(1678)、丹生谷近隣地の矢田(現谷田村)で生誕した清九郎。
貧農だった幼児のころに丹生谷村(墓標が建つ鉾立村説がある)に移り住んだ。
父が早くに亡くなり、母一人、子一人の暮らしを真面目に働いた清九郎は母に仕える無類の母親孝行者。
親孝行は高取城主の耳に届いた。
褒美に米五俵を与えられたが、「子供が親に仕えるのは当たり前」と云って断り辞退した。
清九郎の意思に感銘を受けた城主は、領内の山の木のシバを自由に刈り取る特権を与えた。
詳しいことを語る言葉を持ち合わせていない。
さまざまな人が訪問記などをブログ等でアップされているので、そちらを参考にしていただきたい。
かつては講中のヤド家で行われてきた「あこうさん」は清九郎会館の場を借りて餅搗きなどをする。
到着した時間帯は餅搗きを終えてヨモギモチを作っていた。
朝8時から作業を始めたという。
近所で摘んできた新鮮なヨモギは炭酸を入れて湯掻く。
いわゆるアクトリである。
すり鉢で潰して一旦は蒸し器の上に置いて温めておく。
餅はウルチ(粳)米のコメコを混ぜたモチ、というかダンゴ。
機械で搗くときに混ぜて作る。
昔はコゴメを挽いてカラウスで搗いた。
クズマイ(屑米)にモチゴメ半分を混ぜて作ったアラレモチもあった。
美味しかったが、悪ゴメと云われたコゴメのモチは硬さがあったという。
御供モチ、ヨモギモチの原材料になるモチゴメは七升。
四臼も搗いたという。
搗きあがった熱々のヨモギモチは手で千切って素早く丸める。
キナコや小豆餡を塗してできあがり。
「テショ」或は「オテショ」と呼ぶ小皿に盛る。
「テショ」は高取町、明日香村の高市郡でそう云っているという。
他地域もそういうかもしれない大和言葉の一つであろう
テーブルに置いて講中がよばれる。
ヨモギモチは「ヨゴミモチ」とも呼んでいた。
「タナカラボタモチやねん」というのはアンツケ餅の方で、キナコモチはその姿のまま通りのキナコモチと呼んでいる。
本来はモチゴメに潰したウルチ米を混ぜていた。
これを「半殺し」と呼んでいた。
コメコ半分、モチゴメ半分で搗いたモチは舌触りが良い。
噛んだときの食感が良いと話す。
赤穂講はかつて30軒の営みだった。
昔はもっと多くて40軒もあったという赤穂講は年老いて辞退する家が多くなり今では9軒になった。
3年ぐらい前まではイロゴハンを炊いて食べていた。
イロゴハンの具材はアゲ、ゴボウ、ニンジン。
米は一升。
コブ出汁でひたひた。
一合の醤油を混ぜて炊いた。
ジャコも入れていたというから出来上がってからパラパラを落としたのであろう。
夜は下げた御供のシイタケなど味付けした具を入れたちらし寿司もあったという。
作っていた当番は二人。
オマツリトーヤ(当家)にモチツキトーヤ(当家)の二人だったそうだ。
作ることをやめたイロゴハン。
その替わりにヨモギモチ作りと思ったが、そうではなかった。
御供モチ作りの合間に作っていた。
ヨモギの餡子があれば作る。
これらがなければ作らない、ということだ。
いずれにしても手間がかかるイロゴハンは講中の人数が少なくなり昨年が最後になったという。
右横におられるご主人は宮総代。
船倉弁天神社の御田祭に出仕される。
宮総代が云うには、男の厄年になれば明日香村の岡寺に参ったという。
24歳のときに参った記憶があるという三月二の午の日である。
ヨモギモチをよばれて一息つける赤穂講の人たち。
食事を済ませたテーブルを綺麗にして並べる。
そこに置いた木の札。
御田祭とも呼ばれている船倉弁天神社の弁天さんがある。
今年も4月初めの日曜日。
村人の名前を書いた木の札は護摩木。
健康祈願、家内安全などを祈祷する護摩木は一本、一本手書きする。
宮総代はともかく赤穂講の人たちは村行事のボランティア活動だと話す。
コーヒーも呼ばれて一服する。
護摩木が準備できたら「あこうさん」に供える御膳を調整する。
ダイコン・ニンジン・アスパラに一枚のスルメを立てて三方に載せる。
コーヤに巻きコンブも載せた御膳は三つ。
いわゆる立て御膳である。
赤穂稲荷大明神や春日神社境内社の高光(たかみつ)神社。
地元では「たかみつさん」と呼んでいる稲荷社である。
もう一つは供えることはないが「ハツオジサン」のお供えだという。
御供は他にもある。
鏡餅やアゲ、生タマゴ、カマボコにアズキゴハンである。
アズキゴハンはセキハンとも云っていた。
先を尖らせた三角のムスビであるが、写真では判り難い。
御供はすべてが三つかと思えばそうではない。
なぜだか鯛だけは二つである。
御供に果物もある。
盛りはリンゴにキヨミオレンジ。
バナナや栗饅頭もある。
この日は雨天。
本来なら「アサギヤマ」と呼ばれる山の上に鎮座する赤穂稲荷大明神に参るのだが山は傾斜地。
ぬかるんだ山道は登ることもできないから清九郎会館内で行われた。
最近作られた赤色の幟旗を立てる。
ローソクに火を灯して御供前に導師が座る。
講中も席について三巻の般若心経を唱える。
雨天で参ることができなかった高取町丹生谷の「あこうさん」の祭事場は数週間前に住民の案内で鎮座地を教えてもらっていた。
数年前に新しく建てた鳥居がある「アサギヤマ」に鎮座する赤穂稲荷大明神に歴史を示すものはないものかと案内人とともに探してみた。
「大正十二年四月 奉献 喜多村チヲ」の刻印があった狛犬。
一方の狛犬は「大正十四年八月 大阪□□」だった。
10年ぐらいまでは三月二の午の日の「あこうさん」の御供横に100本ぐらいの「ハタアメ」も供えていた。
吉野ストアに注文していた「ハタアメ」。
五色だったか、一色だったか、ハタの色は覚えていないそうだ。
いつしか「ハタアメ」を貰いに来る子供が少なくなった。
「たぶんハタアメに興味をもたなくなったので来なくなった」ともいう。
貰いに来る子がいなければ供えることもないだろうとやめたようだ。
その「ハタアメ」は赤穂稲荷大明神より西に400m歩いた御所市の戸毛(とうげ)にある「いろは製菓」で買っていたそうだ。
「あこうさん」は火の神さんだとおばあさんから云い伝えられてきた。
代々だったらしく、その昔からの云い伝え。
「あこうさん」は家を守ってくれるからとおばあさんが話していたそうだ。
高い場所から丹生谷集落を見下ろす「あこうさん」。
村を火災から守ってくれると信じられてきた。
「うちの村は大きな火事は起こったことがない」という講中。
赤穂講が村を守っているような話しである。
一年に一度の講中の行事。
人数は少なくなったが、今後も続けていきたいと話していた。
あこうさんのお参りは春日神社境内社である稲荷社の高光神社にも出向く。
今では参ることのない小字ハツヲ(八尾寺)に鎮座する「ハツオジ」も案内してくださった。
正徳三年癸巳(1713)九月に遷された春日神社の元社地と伝わる「ハツオジ」はおそらくスサノオ神を祀る「八王子社」であったかもしれない。
なお、清九郎会館にはいくつかの版木が残されている。
「あこうさん」を終えて管理人らとともに拝見する。
一つは「妙好人 大和の清九郎 毎月卄七日 御本山へ薪献上」、「五月卄七日 木津川の大水渡れる奇蹟の圖」の文字で清九郎が薪を担いで木津川を渡る姿が描かれている。
版木は比較的新しい。
版木横に「浮元堂蔵版」とあるが版元の所在地は掴めない。
この版木には「超世の悲願聞きし上り 我等は生死の凡夫かは 有漏の穢身はかはらねど 心は浄土ょすみあそぶ」が彫られていた。
信心される人に配られたのであろうか。
もう一つは「清九郎簾追躰」の文字がある版木。
藤弦で編んだと思われる四角い部屋に座する人物を表現している。
何者だろうか。
もしかとして清九郎の帰宅を待つ母親であろうか。
版木はもう一枚ある。
「□□□□ 蓮如上人御旧□跡 □清九郎旧地 和州高市郡丹生谷村 崑崙山圓光寺」だった。
これら二枚ともやや古いように思えた。
版木は大量に刷って頒布するもの。
何を目的に彫られたのか、持ち合わせる手がかりはない。
<※ あこうさんを充てる漢字は「赤穂」さん。神社名が「赤穂稲荷神社」。推定であるが、可能性として考えられるのは兵庫県の赤穂藩から脱藩し移り住んだ人たちの在地であったかも知れない。>
(H27. 3.19 EOS40D撮影)