もしかとすればこの日にされるとも聞いていた八田の御田植祭。
祭典に就く前に松苗や御供を唐櫃に納めて運ぶ村神主らのお渡りがある。
この日は雨降り。
お渡りはされることはないだろうと思いながらも出かけた田原本町の八田。
云うまでもなく、気配がなかった。
やってきたのは軽トラに乗ってきた男性。
神社ではなく鳥居向かいにあるハウスだった。
男性は以前にお見かけした人だった。
懐かしい顔に誘われてハウスで迎えてくれた。
男性が云うには今年の日程は28日。
村の通信がそう伝えていたそうだ。
昭和6年生まれのSさん84歳。
かつて宮守を勤めたことがある。
今では悠々自適で自前のハウスで野菜などを栽培している。
八田の神社は伊勢降神社。
官幣大社の小社に挙げられたこともあったそうだ。
同名の伊勢降神社がもう一カ所に鎮座している。
国道を挟んだ西隣の天理市庵治町に鎮座する。
庵治町の伊勢降神社が女神で八田は男神だという両伊勢降神社であるが、庵治町の女神さんが男神の八田から分社したそうだ。
八田(はった)は150戸の集落。
東八田(ひがしばった)、中の東、中の西、西八田(にしばった)の4垣内である。
西八田に常宝寺がある。
伊勢降神社より北方にある常宝寺は奈良市の律宗唐招堤寺の末寺。
石見公(いわみこう)が寄進して創建したと唐招堤寺古文書に記されているらしく寺の由緒書に記しているそうだ。
石見公という人物はどこのだれであるのか判らないと云う。
もしかとすればだが、三宅町に石見(いわみ)の地がある。
そこに住んでいた石見公と考えてみたが・・・。
Sさんが所有する古地図がある。
それによれば八田伊勢降神社より東北方角に向かう道筋があるらしい。
天理市の合場の地である。
その道は八田が所有する地であったそうだ。
なんらかの事情があって道は合場になった。
代償に合場が所有する畑地を八田に譲った。
交換条件である。
そのことが関連しているかそうか不明であるが八田伊勢降神社に寄進された燈籠に合場の「ジンベエ」の名が刻まれているそうだ。
所有する古地図には「ダイモン(大門)」とか「テライリ(寺入)」、「ハカマエ(墓前)」が記されているらしい。
いわゆる小字名である。
地図で思い出されたSさん。
八田には豊臣秀吉時代に作られた「検地帳(天正十九年か)」があるそうだ。
検地したのは秀吉でなく配下の奉行だったようだ。
今でも村総代が大切に保管しているらしい。
八田伊勢降神社に出仕されて神官は田原本町法貴寺の池坐朝霧黄幡比賣神社宮司。
八田の神事を勤めている。
宮司が勤める郷社に田原本町の八田をはじめとして唐古、小阪、鍵や天理市の海知町、武蔵町がある。
元々の八田は法貴寺の郷社関係でもない、唯一の郷社だった。
明治時代に入ったころかどうか判らないが法貴寺から頼まれて郷社入りをしたそうだ。
その件について話すSさん。
八田の宮司は江戸時代末期まで二階堂(上之庄)の廣井氏だったと話す。
その関係かどうか判らないが、費用持ちは他村よりも半額という条件で郷社入りをしたようだ。
今でも会計はそのようになっていると話す。
Sさんとの話題は広がる。
「デンダラ」を知っているかと云われる。
「デンダラ」は水屋箪笥。
なぜに「デンダラ」と呼ぶのか判らないという。
「ダラ」は水屋箪笥の棚では・・・と云う。
もしかとすれば「デン」は「膳」であろう。
県内各地で行事に供えられる御膳(ごぜん)がる。
れを「オデン」とか「デン」と呼ぶ地域がある。
「オデン」は「御膳」が訛った表現だ。
「デン」は「膳」のことである。
こういう事例を知っていた私は「デンダラ」は「膳棚」をそう呼んでいたのであろうと思った。
そのことを伝えたSさん。
謎が解けたと笑顔になった。
そういえば前年に訪れた八田で懐かしのポン菓子が販売されていた。
村で喜寿(77歳)や米寿(88歳)の祝いにたくさんいただいたと云う砂糖。
これとお米を提供してポン菓子を作ってもらう。
何人もの祝い人がおれば祝いの砂糖がたくさんになる。
消化するのに最適なポン菓子の材料に消えていく。
「そんなことをしているのはうちの村だけでは・・・」と話すSさん。
県内各地の行事や風習を取材しておればそうでもないことに気がつく。
大和郡山市の長安寺町でもまったく同じように米寿祝いに二袋の砂糖を各戸に配る。
桜井市の小夫嵩方では随分前に廃止になったが、当時の祝いは箸であったと聞く。
廃止された現在は神社に奉仕料として供えるそうだ。
また、宇陀市室生下笠間ではオボン(盆)、チョウシ(銚子)、メシジャクシ(飯杓子)<一般的にはシャモジ(杓文字)>などが配られていた。
今では祝いの品を配ることのない村の風習だ。
Sさんも聞いていた他村はシャモジだった。
「いまでもそんなことをしているのか」と云われたことがあると話す。
Sさんは84歳。
米寿になるころに意見を述べて砂糖の量を減らしたい考えがあるという。
風習は大切なものであるから中断することは考えていない。
大量になる砂糖の量を減らす改善だと云う。
そんな話題も提供してくれたS家は富士講の一員。
五人組みになるそうだ。
講員は新旧交替しているが、昔から勤めているのは私一人だけだと云う富士講の集まりは、今でも一月、五月、九月に廻り当番の家で掛軸を掲げて灯明を灯すそうだ。
「富士山」の文字がある掛軸には猿も居る。
紛れもない富士講を示す掛軸を拝見したくなって取材をお願いした。
かつての集まりには料理膳も出ていたそうだ。
支度がたいそうになってご馳走は取りやめたが、掛軸を掲げて手を合わすのは今でも続けているという。
掛軸は他にも大峰、役の行者・不動尊を描いた掛け図があるという。
八田には富士講以外に庚申講や伊勢講もあったそうだ。
庚申講は解散して守ってきた掛軸は性根を抜いてお寺さん(西方寺かも)に預かってもらった。
伊勢講は掛軸を掲げることもなく会費だけは集めている。
貯まった会費は講中の奥さんも連れて旅行に行くように改定したら、「たいそう喜ばれて」と云った。
(H27. 2.26 記)
祭典に就く前に松苗や御供を唐櫃に納めて運ぶ村神主らのお渡りがある。
この日は雨降り。
お渡りはされることはないだろうと思いながらも出かけた田原本町の八田。
云うまでもなく、気配がなかった。
やってきたのは軽トラに乗ってきた男性。
神社ではなく鳥居向かいにあるハウスだった。
男性は以前にお見かけした人だった。
懐かしい顔に誘われてハウスで迎えてくれた。
男性が云うには今年の日程は28日。
村の通信がそう伝えていたそうだ。
昭和6年生まれのSさん84歳。
かつて宮守を勤めたことがある。
今では悠々自適で自前のハウスで野菜などを栽培している。
八田の神社は伊勢降神社。
官幣大社の小社に挙げられたこともあったそうだ。
同名の伊勢降神社がもう一カ所に鎮座している。
国道を挟んだ西隣の天理市庵治町に鎮座する。
庵治町の伊勢降神社が女神で八田は男神だという両伊勢降神社であるが、庵治町の女神さんが男神の八田から分社したそうだ。
八田(はった)は150戸の集落。
東八田(ひがしばった)、中の東、中の西、西八田(にしばった)の4垣内である。
西八田に常宝寺がある。
伊勢降神社より北方にある常宝寺は奈良市の律宗唐招堤寺の末寺。
石見公(いわみこう)が寄進して創建したと唐招堤寺古文書に記されているらしく寺の由緒書に記しているそうだ。
石見公という人物はどこのだれであるのか判らないと云う。
もしかとすればだが、三宅町に石見(いわみ)の地がある。
そこに住んでいた石見公と考えてみたが・・・。
Sさんが所有する古地図がある。
それによれば八田伊勢降神社より東北方角に向かう道筋があるらしい。
天理市の合場の地である。
その道は八田が所有する地であったそうだ。
なんらかの事情があって道は合場になった。
代償に合場が所有する畑地を八田に譲った。
交換条件である。
そのことが関連しているかそうか不明であるが八田伊勢降神社に寄進された燈籠に合場の「ジンベエ」の名が刻まれているそうだ。
所有する古地図には「ダイモン(大門)」とか「テライリ(寺入)」、「ハカマエ(墓前)」が記されているらしい。
いわゆる小字名である。
地図で思い出されたSさん。
八田には豊臣秀吉時代に作られた「検地帳(天正十九年か)」があるそうだ。
検地したのは秀吉でなく配下の奉行だったようだ。
今でも村総代が大切に保管しているらしい。
八田伊勢降神社に出仕されて神官は田原本町法貴寺の池坐朝霧黄幡比賣神社宮司。
八田の神事を勤めている。
宮司が勤める郷社に田原本町の八田をはじめとして唐古、小阪、鍵や天理市の海知町、武蔵町がある。
元々の八田は法貴寺の郷社関係でもない、唯一の郷社だった。
明治時代に入ったころかどうか判らないが法貴寺から頼まれて郷社入りをしたそうだ。
その件について話すSさん。
八田の宮司は江戸時代末期まで二階堂(上之庄)の廣井氏だったと話す。
その関係かどうか判らないが、費用持ちは他村よりも半額という条件で郷社入りをしたようだ。
今でも会計はそのようになっていると話す。
Sさんとの話題は広がる。
「デンダラ」を知っているかと云われる。
「デンダラ」は水屋箪笥。
なぜに「デンダラ」と呼ぶのか判らないという。
「ダラ」は水屋箪笥の棚では・・・と云う。
もしかとすれば「デン」は「膳」であろう。
県内各地で行事に供えられる御膳(ごぜん)がる。
れを「オデン」とか「デン」と呼ぶ地域がある。
「オデン」は「御膳」が訛った表現だ。
「デン」は「膳」のことである。
こういう事例を知っていた私は「デンダラ」は「膳棚」をそう呼んでいたのであろうと思った。
そのことを伝えたSさん。
謎が解けたと笑顔になった。
そういえば前年に訪れた八田で懐かしのポン菓子が販売されていた。
村で喜寿(77歳)や米寿(88歳)の祝いにたくさんいただいたと云う砂糖。
これとお米を提供してポン菓子を作ってもらう。
何人もの祝い人がおれば祝いの砂糖がたくさんになる。
消化するのに最適なポン菓子の材料に消えていく。
「そんなことをしているのはうちの村だけでは・・・」と話すSさん。
県内各地の行事や風習を取材しておればそうでもないことに気がつく。
大和郡山市の長安寺町でもまったく同じように米寿祝いに二袋の砂糖を各戸に配る。
桜井市の小夫嵩方では随分前に廃止になったが、当時の祝いは箸であったと聞く。
廃止された現在は神社に奉仕料として供えるそうだ。
また、宇陀市室生下笠間ではオボン(盆)、チョウシ(銚子)、メシジャクシ(飯杓子)<一般的にはシャモジ(杓文字)>などが配られていた。
今では祝いの品を配ることのない村の風習だ。
Sさんも聞いていた他村はシャモジだった。
「いまでもそんなことをしているのか」と云われたことがあると話す。
Sさんは84歳。
米寿になるころに意見を述べて砂糖の量を減らしたい考えがあるという。
風習は大切なものであるから中断することは考えていない。
大量になる砂糖の量を減らす改善だと云う。
そんな話題も提供してくれたS家は富士講の一員。
五人組みになるそうだ。
講員は新旧交替しているが、昔から勤めているのは私一人だけだと云う富士講の集まりは、今でも一月、五月、九月に廻り当番の家で掛軸を掲げて灯明を灯すそうだ。
「富士山」の文字がある掛軸には猿も居る。
紛れもない富士講を示す掛軸を拝見したくなって取材をお願いした。
かつての集まりには料理膳も出ていたそうだ。
支度がたいそうになってご馳走は取りやめたが、掛軸を掲げて手を合わすのは今でも続けているという。
掛軸は他にも大峰、役の行者・不動尊を描いた掛け図があるという。
八田には富士講以外に庚申講や伊勢講もあったそうだ。
庚申講は解散して守ってきた掛軸は性根を抜いてお寺さん(西方寺かも)に預かってもらった。
伊勢講は掛軸を掲げることもなく会費だけは集めている。
貯まった会費は講中の奥さんも連れて旅行に行くように改定したら、「たいそう喜ばれて」と云った。
(H27. 2.26 記)