この日は取材願いに行事状況の調査行脚。
同行する写真家Kさんが何年か前に訪れた神社に御田植祭を取材したことがあるという。
そこは京都府木津川市相楽清水に鎮座する相楽(さがなか)神社である。
京都で相楽(そうらく)と云えば相楽郡がまず頭に浮かぶ。
同じ漢字である相楽の名がついた神社がある。
そのときの神社名は「さがなか」神社と呼ぶ。
なぜに「さがなか」であるのかといえば、鎮座地の大字が相楽(さがなか)なのである。
旧相楽村は北ノ庄、大里、曽根山の三つの地区の産土神として崇められた。
創建は定かでないが、明治10年の延喜式神名帳に「相楽(そうらく)郡一座、相楽(サカラカノ)神社」と有るらしい。
この神社で祭祀される一連の正月年頭宮座行事は京都府の無形民俗文化財に指定されている。
一連とある行事は1月14日の「豆焼」。
1月15日の「粥占(かゆうら)」と「御田(おんだ)」。
2月1日の「餅花まつり」に旧暦正月十五日に行われる「水試(みずため)」がある。
中世的な宮座祭祀の在り方がよく残されているということで昭和59年に府の文化財に指定された。
今年の「水試」は平成28年2月22日(旧暦1月15日)に実施された。
1月14日に実施された「豆焼」の結果も併せて表示されている。
次年度のその日がくるまでずっと掲示されているようだ。
で、神社の所在地はどこにあるのか。
神社周囲と思われる地区を巡っていた。
神社関係者とお会いできればありがたい。
そう、思ってぐるぐる回る。
数人の男性が話しをしていた。
服装から判断して何となく農家の方のように見えた。
お声をかけたら一人の男性は2年任期の宮守のNさんだった。
集まって話しをしていた男性の他は宮守経験者の先輩宮守に翌年に引き継ぐ次の宮守候補者だった。
3人が揃っておれば話しは弾む。
6年に一度が座の廻りになる。
旧相楽は北ノ庄、大里、曽根山の三つの地区であるが、座は九つもあるという。
お会いした宮守さんの座はどこに属しているのか聞かずじまいであるが、調べてみれば相楽の宮座は大きく分けて北座と南座がある。
さらに分割されて北座が北前座、北中座、北後座の三座。南座も分割されて南前座北、南前座南、南中座北、南中座南、南後座北、南後座南の六座に分かれている。
ややこしいように見えるが北座は前、中、後に分かれる三座。
南座は前、中、後それぞれに南と北の座があるということだ。
座の人数は揃っていなような気がする。
というのも10月17日は北と南に建つ仮宮に座ごとが籠らしい。
仮宮を実際に拝見したが、なんとなく長床の座小屋造りのように思える。
羽織袴姿の十人衆が輪番に一老(または二老)が村神主を務め、祭祀を執り行ってきた。
宮座中は90人にもおよぶというから全員が仮宮に上がればそれこそ、所狭しのように思えるのだが、北座が南座の仮宮にあがることはないから、南座、北座それぞれの仮宮に座るわけだから、同人数であれば、南座は窮屈になる。
そういうことで南座のそれぞれの座中人数は北座よりも少ないと思ったわけだ。
新旧3人の宮守さんがいうには、仮宮でトーヤが振る舞うご馳走をよばれるらしい。
祭りの食事も民俗だけに拝見したいものである。
ちなみに相楽の地に砂撒きの風習があるのかどうか尋ねてみた。
その結果は、元々からなかったということだ。
門松立てに砂を盛る。
近くの山にでかけて砂(山土)採っていたが、開発されて山が消えた。
各戸の門松も廃止された。
お札方の門松もあったが、今はそれもないという。
ちなみにその仮宮にぽつんと置いてあったお札がある。
ごーさん三つを押した朱印は竹挟み。
その奥に見えるのは松葉である。
松葉は御田に奉りお田植え所作する模擬苗の松苗。
「御田」の行事は来年の1月15日。
2週間後に行われるから早めに準備されたのだろう。
ちなみの相楽神社にはかつて神宮寺と想定される真言宗派の不動寺があったそうだ。
不動寺は文化元年(1804)に無住となり、その後の廃仏毀釈令がでた明治時代に廃寺となり撤去された。
当時、建っていた場所は南の仮宮の南側だったようだ。
で、あれば、江戸時代、宮座もあることから僧侶と村神主による神仏混合の行事であったと考えてもおかしくはない。
特にごーさん札があれば間違いないと思われるが、実証できるモノモノが他にもあればいいのだが・・・。
(H28.12.30 EOS40D撮影)
同行する写真家Kさんが何年か前に訪れた神社に御田植祭を取材したことがあるという。
そこは京都府木津川市相楽清水に鎮座する相楽(さがなか)神社である。
京都で相楽(そうらく)と云えば相楽郡がまず頭に浮かぶ。
同じ漢字である相楽の名がついた神社がある。
そのときの神社名は「さがなか」神社と呼ぶ。
なぜに「さがなか」であるのかといえば、鎮座地の大字が相楽(さがなか)なのである。
旧相楽村は北ノ庄、大里、曽根山の三つの地区の産土神として崇められた。
創建は定かでないが、明治10年の延喜式神名帳に「相楽(そうらく)郡一座、相楽(サカラカノ)神社」と有るらしい。
この神社で祭祀される一連の正月年頭宮座行事は京都府の無形民俗文化財に指定されている。
一連とある行事は1月14日の「豆焼」。
1月15日の「粥占(かゆうら)」と「御田(おんだ)」。
2月1日の「餅花まつり」に旧暦正月十五日に行われる「水試(みずため)」がある。
中世的な宮座祭祀の在り方がよく残されているということで昭和59年に府の文化財に指定された。
今年の「水試」は平成28年2月22日(旧暦1月15日)に実施された。
1月14日に実施された「豆焼」の結果も併せて表示されている。
次年度のその日がくるまでずっと掲示されているようだ。
で、神社の所在地はどこにあるのか。
神社周囲と思われる地区を巡っていた。
神社関係者とお会いできればありがたい。
そう、思ってぐるぐる回る。
数人の男性が話しをしていた。
服装から判断して何となく農家の方のように見えた。
お声をかけたら一人の男性は2年任期の宮守のNさんだった。
集まって話しをしていた男性の他は宮守経験者の先輩宮守に翌年に引き継ぐ次の宮守候補者だった。
3人が揃っておれば話しは弾む。
6年に一度が座の廻りになる。
旧相楽は北ノ庄、大里、曽根山の三つの地区であるが、座は九つもあるという。
お会いした宮守さんの座はどこに属しているのか聞かずじまいであるが、調べてみれば相楽の宮座は大きく分けて北座と南座がある。
さらに分割されて北座が北前座、北中座、北後座の三座。南座も分割されて南前座北、南前座南、南中座北、南中座南、南後座北、南後座南の六座に分かれている。
ややこしいように見えるが北座は前、中、後に分かれる三座。
南座は前、中、後それぞれに南と北の座があるということだ。
座の人数は揃っていなような気がする。
というのも10月17日は北と南に建つ仮宮に座ごとが籠らしい。
仮宮を実際に拝見したが、なんとなく長床の座小屋造りのように思える。
羽織袴姿の十人衆が輪番に一老(または二老)が村神主を務め、祭祀を執り行ってきた。
宮座中は90人にもおよぶというから全員が仮宮に上がればそれこそ、所狭しのように思えるのだが、北座が南座の仮宮にあがることはないから、南座、北座それぞれの仮宮に座るわけだから、同人数であれば、南座は窮屈になる。
そういうことで南座のそれぞれの座中人数は北座よりも少ないと思ったわけだ。
新旧3人の宮守さんがいうには、仮宮でトーヤが振る舞うご馳走をよばれるらしい。
祭りの食事も民俗だけに拝見したいものである。
ちなみに相楽の地に砂撒きの風習があるのかどうか尋ねてみた。
その結果は、元々からなかったということだ。
門松立てに砂を盛る。
近くの山にでかけて砂(山土)採っていたが、開発されて山が消えた。
各戸の門松も廃止された。
お札方の門松もあったが、今はそれもないという。
ちなみにその仮宮にぽつんと置いてあったお札がある。
ごーさん三つを押した朱印は竹挟み。
その奥に見えるのは松葉である。
松葉は御田に奉りお田植え所作する模擬苗の松苗。
「御田」の行事は来年の1月15日。
2週間後に行われるから早めに準備されたのだろう。
ちなみの相楽神社にはかつて神宮寺と想定される真言宗派の不動寺があったそうだ。
不動寺は文化元年(1804)に無住となり、その後の廃仏毀釈令がでた明治時代に廃寺となり撤去された。
当時、建っていた場所は南の仮宮の南側だったようだ。
で、あれば、江戸時代、宮座もあることから僧侶と村神主による神仏混合の行事であったと考えてもおかしくはない。
特にごーさん札があれば間違いないと思われるが、実証できるモノモノが他にもあればいいのだが・・・。
(H28.12.30 EOS40D撮影)