奈良市佐紀町に鎮座する二条町氏子の亀畑佐紀神社の境内に砂モチをしていると知ったのは随分前のことだ。
それから数年後の平成24年の大晦日。
12月31日に訪れた。
境内から階段下まで続く砂モチ。
量は少ないがその在り方を現認できた。
それから2年後の平成26年も訪れたが、簾型注連縄が架かっているだけだった。
その年の当番さんの都合で砂モチをすると聞いていたから、この年は遅いのであろう。
着いた時間には砂がまったくなかったが、待つわけにはいかない。
大晦日の行事や風習の取材は他所も行かなくてはならない。
諦めざるを得なかった。
この年に取材した二条町の亀畑佐紀神社の行事に宵宮祭がある。
そのときにお願いした大晦日の砂モチ。
是非とも記録に納めたい写真撮り。
3人の年番当役が予定される時間を教えてもらって伺った。
この年はこれまで何人かの年番当役に聞いていた時間からいえば最も早い時間帯。
家の正月迎えがあるから早く済ませて空き時間を確保するということである。
今回の取材は宵宮祭も同行した写真家Kさんの願いでもある。
落とせない砂モチ風習はここ佐紀町に2社もある。
西畑二条の佐紀神社に門外の釣殿神社の砂モチである。
西畑二条も門外も前日の12月30日に砂モチ作業をしているはずだが、今回はどのような状態であるのか、取材時間・取材地の関係で見送る。
来られるまでの時間帯は前日に行われていた状況を知る。
12月30日は朝から大祓の祭典。
半年に一度の夏越しの大祓は県内事例に、そこそこ見られるが、ここ佐紀町にはされている様子はない。
ないが、とうぜんのごとく歳末の大祓はよほどのことがない限り、どの神社でもされているはずである。
亀畑佐紀神社の大祓は神事に先だって拝殿に掲げる前掛けと呼ぶ注連縄を作ってからだ。
二条町は西座・東座の両座があったが、現在は村座になっている。
簾型に縄結いをして大幣を垂らす。
村行事であるから氏子、座中が揃って神事をされる。
そのときに場を清めた痕跡がある。
清めに撒いた塩である。
お酒も撒いて清めたと思うが、痕跡はわからない。
大祓に清めた場は祓戸社。
いつもの行事に必ずやお清めされる場所であるが、ここにも砂モチをされる。
聞いていた時間ぴったしに来られた年番当役。
後継者育成のことも考えられて息子さんらとともに作業をする。
移動しやすい一輪車に砂を盛る。
かつては山にあった砂(山土)を採取して、それを盛っていた。
山には所有者が居る。
事情が発生してそこでは採ることができなくなった。
それからはいつでも売っているコーナンが販売する真砂土を買うようにした。
7年前までは門松を立てていた。
オン(雄)松にメン(雌)松も山に出かけて採取したが、これもまた採ることが不可能になってやめたという。
オン(雄)松にメン(雌)松が採れなくなって造園業者に注文するようになった地区はままある。
材料入手が困難になってきた時代。
採取が不可能であれば、購入しかない。
それもまた仕方のないことである。
そんな話しをしながら作業される代表の年番当役。
砂モチという表現はなく、家を出るときには神社へ行って砂盛りしてくる、という。
砂を盛る間隔は両肩の幅ぐらいだという。
人それぞれの両肩幅であるが大差はない。
形に決まりはないから、気にならんからかまへんでという。
息子さんもスコップをもって後ずさりしながら、少しずつ、少しずつ砂を盛っていく。
拝殿前から始めた砂盛り。
最初の一段目に合わせて次の段の砂を盛る。
一段、二段と下がっていくにつれ、一輪車も下げる。
社叢から差し込む木漏れの光。
樹木の間から差し込む光がなんともいえない。
もし、遮るものがなければ・・・砂盛りばかりが目立ってしまうことだろう。
そのころに突然現れたカメラマン。
なんと知り合いのNさんだった。
東にある水上池でカワセミなどの野鳥や朝の風景を撮っていたそうだ。
ふとざわめいた。
引き寄せられるように当地にやってきたら遭遇した、という。
なんという嗅覚であろうか。
Nさんが撮られた写真はいつも感心させられる。
感覚が優れているのだろう。
近年、特にそう思う。
同行するKさんもそうだが、真似のできない素晴らしい写真を撮る。
憧れる二人である。
それはともかく砂盛り作業は境内から階段を下っていく。
同じように後ずさりしながら砂を盛る。
スコップに何杯も掬ったことであろうか。
数を数えたくもなるが、先を急ごう。
鳥居を下って参道も。
そこは弁天社があるところだ。
ここへ下りてくるまでにしていた祓戸社も済ませば場を離れる。
ここから北に数百メートル歩いた場は「二条の宮さん」とも呼ばれている護摩堂がある所だ。
そこには「永禄十一(1568)」の刻印が見られる石碑がある。
中央に薄っすらと読める文字は「□行者金剛住」であろうか。
かつてあったとされる前期超昇寺の遺構でもある石碑はこれ以上の判読はできない。
護摩堂の前に砂盛り。
坂を下るようにここもまた後ずさりしながら砂を盛っていく。
これですべての砂盛りを終えた。
残す作業は今夜の夜中に始まる歳旦際の準備である。
下がり藤の紋がある幕を拝殿にかけてようやく終えた。
(H28.12.31 EOS40D撮影)
それから数年後の平成24年の大晦日。
12月31日に訪れた。
境内から階段下まで続く砂モチ。
量は少ないがその在り方を現認できた。
それから2年後の平成26年も訪れたが、簾型注連縄が架かっているだけだった。
その年の当番さんの都合で砂モチをすると聞いていたから、この年は遅いのであろう。
着いた時間には砂がまったくなかったが、待つわけにはいかない。
大晦日の行事や風習の取材は他所も行かなくてはならない。
諦めざるを得なかった。
この年に取材した二条町の亀畑佐紀神社の行事に宵宮祭がある。
そのときにお願いした大晦日の砂モチ。
是非とも記録に納めたい写真撮り。
3人の年番当役が予定される時間を教えてもらって伺った。
この年はこれまで何人かの年番当役に聞いていた時間からいえば最も早い時間帯。
家の正月迎えがあるから早く済ませて空き時間を確保するということである。
今回の取材は宵宮祭も同行した写真家Kさんの願いでもある。
落とせない砂モチ風習はここ佐紀町に2社もある。
西畑二条の佐紀神社に門外の釣殿神社の砂モチである。
西畑二条も門外も前日の12月30日に砂モチ作業をしているはずだが、今回はどのような状態であるのか、取材時間・取材地の関係で見送る。
来られるまでの時間帯は前日に行われていた状況を知る。
12月30日は朝から大祓の祭典。
半年に一度の夏越しの大祓は県内事例に、そこそこ見られるが、ここ佐紀町にはされている様子はない。
ないが、とうぜんのごとく歳末の大祓はよほどのことがない限り、どの神社でもされているはずである。
亀畑佐紀神社の大祓は神事に先だって拝殿に掲げる前掛けと呼ぶ注連縄を作ってからだ。
二条町は西座・東座の両座があったが、現在は村座になっている。
簾型に縄結いをして大幣を垂らす。
村行事であるから氏子、座中が揃って神事をされる。
そのときに場を清めた痕跡がある。
清めに撒いた塩である。
お酒も撒いて清めたと思うが、痕跡はわからない。
大祓に清めた場は祓戸社。
いつもの行事に必ずやお清めされる場所であるが、ここにも砂モチをされる。
聞いていた時間ぴったしに来られた年番当役。
後継者育成のことも考えられて息子さんらとともに作業をする。
移動しやすい一輪車に砂を盛る。
かつては山にあった砂(山土)を採取して、それを盛っていた。
山には所有者が居る。
事情が発生してそこでは採ることができなくなった。
それからはいつでも売っているコーナンが販売する真砂土を買うようにした。
7年前までは門松を立てていた。
オン(雄)松にメン(雌)松も山に出かけて採取したが、これもまた採ることが不可能になってやめたという。
オン(雄)松にメン(雌)松が採れなくなって造園業者に注文するようになった地区はままある。
材料入手が困難になってきた時代。
採取が不可能であれば、購入しかない。
それもまた仕方のないことである。
そんな話しをしながら作業される代表の年番当役。
砂モチという表現はなく、家を出るときには神社へ行って砂盛りしてくる、という。
砂を盛る間隔は両肩の幅ぐらいだという。
人それぞれの両肩幅であるが大差はない。
形に決まりはないから、気にならんからかまへんでという。
息子さんもスコップをもって後ずさりしながら、少しずつ、少しずつ砂を盛っていく。
拝殿前から始めた砂盛り。
最初の一段目に合わせて次の段の砂を盛る。
一段、二段と下がっていくにつれ、一輪車も下げる。
社叢から差し込む木漏れの光。
樹木の間から差し込む光がなんともいえない。
もし、遮るものがなければ・・・砂盛りばかりが目立ってしまうことだろう。
そのころに突然現れたカメラマン。
なんと知り合いのNさんだった。
東にある水上池でカワセミなどの野鳥や朝の風景を撮っていたそうだ。
ふとざわめいた。
引き寄せられるように当地にやってきたら遭遇した、という。
なんという嗅覚であろうか。
Nさんが撮られた写真はいつも感心させられる。
感覚が優れているのだろう。
近年、特にそう思う。
同行するKさんもそうだが、真似のできない素晴らしい写真を撮る。
憧れる二人である。
それはともかく砂盛り作業は境内から階段を下っていく。
同じように後ずさりしながら砂を盛る。
スコップに何杯も掬ったことであろうか。
数を数えたくもなるが、先を急ごう。
鳥居を下って参道も。
そこは弁天社があるところだ。
ここへ下りてくるまでにしていた祓戸社も済ませば場を離れる。
ここから北に数百メートル歩いた場は「二条の宮さん」とも呼ばれている護摩堂がある所だ。
そこには「永禄十一(1568)」の刻印が見られる石碑がある。
中央に薄っすらと読める文字は「□行者金剛住」であろうか。
かつてあったとされる前期超昇寺の遺構でもある石碑はこれ以上の判読はできない。
護摩堂の前に砂盛り。
坂を下るようにここもまた後ずさりしながら砂を盛っていく。
これですべての砂盛りを終えた。
残す作業は今夜の夜中に始まる歳旦際の準備である。
下がり藤の紋がある幕を拝殿にかけてようやく終えた。
(H28.12.31 EOS40D撮影)