マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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久御山町佐古・泥棒除けまじないの逆さ十二月十二日護符

2019年03月28日 09時59分37秒 | もっと遠くへ(京都編)
入院していたおふくろが無事に退院した2週間後の12月26日に尋ねた泥棒除けまじない。

その思い出はおふくろの生家である大阪の富田林の錦織。

私の記憶にあるのは茅葺民家の母屋である。

おふくろが云うには父親の仕事は石垣造り。

建屋の基礎部分を仕事としていた。

いつしか業態を替えて豆腐造りに転業したようだ。

その光景は今でも映像に出てくるというおふくろ。

12月12日の何時だかわからないが、母親が書いていたのかどうかも覚えていないが、玄関の庇(ひさし)に貼っていたという。

玄関に入ると左側は雑なものを隠すための引き戸の板扉。

その向かいが板の間の半床。

中は空洞で板を外して何かしらのモノを収納していた。

その板の間で茶粥を食べていた。

茶粥は椀に、よそってもらっていたことを思い出す。

その奥は座敷。

それはともかく土間を突きつけると正面に井戸があった。

その左側がオクドさん。

窯は二つだったか、三つだったか思い出せないが、種火を点けて竹筒を吹いてフーフーしていたような気がする。

井戸のすぐ左手は鉄釜のお風呂。

ここも竃と同じように薪を入れて燃やしていた。

お風呂は五右衛門風呂。

従妹の子らと入ったような記憶もあるのだが・・・。

五右衛門風呂に入るには下駄を履いたような気もする。

それか、丸い蓋があって、それを沈めて入浴。

動いたら危ないと思ってか、じっとしていた。

五右衛門は大泥棒。

盗人の大泥棒が入って来やんように玄関の庇に書いて貼ったお札の文字が「十二月十二日」。

縦に書いていた「十二月十二日」は逆さに貼っていた。

それが泥棒除けのお札。

効き目があったのか、泥棒に入られたという話しはまったく出なかった。

田中家に嫁いではみたもののその行為は継がなかったが、父親の母親がしていた。

田中家に生まれた私にとっては祖母である。

おおばあさんが「十二月十二日」と書いた貼り紙。

生まれ育った大阪市内の住之江に住んでいた住居の玄関の庇に貼っていた。

その光景は今でも思い出すが、書いて、貼っていたのは戦前まで大阪中央区の瓦町で呉服屋を営んでいた祖母のおおばあさんだった。

おふくろはそのことを継がなかったのであらためて聞いたわけである。

ちなみに家内の記憶である。

東大阪市内の枚岡が居住地だった。

ここも母親が書いて貼っていたという。

我が家の関係先は、いずれも女性が書いて貼っていた。

30云年前に大阪から奈良に引っ越した。

それから十数年後。

数々の民俗を記録する身になった。

親、或いは祖母がしていた泥棒除けのまじないは奈良県内にもままあることを知り、記録取材を重ねてきた。

私が記録した事例は、桜井市脇本のM家、同市脇本のN家、大和郡山市万願寺町のI家、天理市荒蒔のK家、田原本町矢部のN家の5軒。

他にあるように思えるが、いずれも民家だけに実態を掴むことは難しい。

京都検定受験者向けにネット公開している「京都通百科事典」なるものに書いてあった逆さ札の件。

12月12日は、三条河原で五右衛門が処刑された日と書いてあった。

子どものころから、そういわれて育った私も思っていたが、実際に処刑された日は別の日。

ウキペディアによれば、文禄三年(1594)の八月二十四日のようだが、なぜに処刑された日がまじないになるのか・・・。

広く流布された泥棒除けの護符は謎である。

京都住まいのある人がブログ「歴史探訪京都から」に書いていた事例。

大阪・松原市では十二月二十五日。

地域はわからないが大阪の南部では「十二月二十三日」の事例もあるらしい。

二十三日であれば二十三夜を思い起こすが、二十五日は・・。

四代目市川九團次さんがブログに綴った記事によれば、永禄元年(1558)12月12日は五右衛門生誕の日にあたると書いてあった。

またまた謎である。

関西ではなく九州の福岡県飯塚市にも事例がある。

事例の場は木造芝居小屋の嘉穂劇場

日付けは「十二月二十五日」である。

また、奈良民俗文化研究所代表の鹿谷勲さんがテレビインタビューに答える泥棒除け取材も参考になるが、放映された映像は消えている。

さて、本日の泥棒除け取材先は京都。

久御山(くみやま)町にお住まいのYさんである。

平成28年6月4日に取材した佐古の野神神事に奉る御供作りである。

私は事情があって、その夜に行われる神事は拝見していなかったが、製作に同行取材していた写真家のKさんが、神事取材に伺ったYさんから聞いた件が泥棒除けまじないの逆さ十二月十二日護符だった。

そのときの話しによれば、十二月十二日の護符は実家のお姉さんが書いていたそうだ。

その護符、貼る日をつい忘れてしまうことがあったらしい。

かつてはY家のおおばあさんがしていたという。

Yさんの奥さんは京都の宇治小椋。

割合近い地域であるが、奥さんの出里でもしていたところから、おおばあさんに倣って今でも自然体でしてきたという。

ただ、なぜにこのようなことをするのかは聞かずじまいだったようだ。

貴重な家の民俗を知って取材をお願いしたら、ありがたく承諾してくださった。

御供作りにも同行取材していた写真家Kさんとともに訪問するY家。

どうぞ、上ってくださいの声に玄関を開ける。

敷居を跨いですぐさま見上げる玄関土間。

視線は土間でなく庇である。

そこにはなかったが柱に貼ってあった一年前の護符である。

貼る場所は玄関と裏口の2カ所。

いずれも柱にしているという。

12月12日に書いて、その日の24時までに貼り終える。

本日は私どものために待ってくださっていた。



奥さんは出かけなければならない用事があるが、書いている様子も撮らせてほしいとお願いしていた。

いつも使っている硯石に墨。

墨汁でなく奥さんが墨を摺って護符文字を筆で書く。

書の卓はとても素敵な風合い。

落ち着きのあるパッチワークの紋様にあこがれる。

一年間も守ってくれた古式的セキュリテイの護符を柱から剥がして、新しい護符に貼りかえる。



玄関扉上のガラスに貼っていた護符の文字は「五大力尊御影 上醍醐寺」。

醍醐寺ご本尊の「五大力尊お分身、昼夜を問わず陰の形に従うが如く、その人の御身を守り、かつ家を護り、あらゆる災難を払い除け、その身は無事息災、一家は安泰隆昌になります」と、世界遺産京都醍醐寺・五大力尊仁王会(ごだいりきそんにんのうえ)が伝えている(※醍醐寺HP参照)。

また、五大力といえば、度々テレビで取り上げられる「五大力餅」の奉納である。

五大明王の霊験を授かりたく、巨大な餅を持ち上げる名物の「餅上げ」だ。

女性の場合は90kg。

男性であれば150kgの大鏡餅を抱え上げる。

抱える時間を競い、無病息災に身体堅固を祈ってもらう。



五大力さんの護符取り上げともにY家を護ってきた「十二月十二日」の護符は一年のお役ごめんをして新しくした。

ちなみに奥さんが書をしてくれた「十二月十二日」の護符は、物差しで計って綺麗に分離する。

カッターナイフで切断した護符は家にある扉の柱に。



残りの護符はどうされるのか、聞きそびれたが、たぶんに近い親戚筋におすそ分けするのであろう。

ちなみにY家の護符は、広い範囲に伝承されている「十二月十二日」の護符であるが、一つ、紹介しておきたい護符がある。

奈良市須山で拝見した護符は「十二月十二日 朝の水」だった。

平成29年の3月26日に拝見した「十二月十二日 朝の水」は、まさに防火のまじないであったことを付記しておく。

(H29.12.12 EOS40D撮影)