午後にオコナイをすると聞いていた天理山間部の一村。
車を走らせた道中に見つかった簾型注連縄に足止め、ではなく、目撃映像に釘付けされた。
大和郡山から帯解間を東西に走る旧街道は郡山街道。
幾度となく通る街道にあった注連縄であるが、何十年も走っていても気づかないなんて・・。
もしかとすれば、ある地域のように注連縄下ろしが正月明けすぐ、とも考えられる。
気になれば出かけて当主に伺う地域の注連縄調査であるが、聞き取り取材をしたのは三が日明けの4日に訪問した。
呼び鈴押した家人の返答は、主人でないとわからないですが、もうすぐ戻ってくる、と。
お会いできた当主は、なんと以前にもお会いしたIさん。
春日大社の若宮おん祭にも出仕される大和士(やまとざむらい)の代表のIさん。
大宿所におられたとき、御湯をされる加奥さんが身に着けるサンバイコを作っていた方だ。
4年前、ライオンズクラブイベント・イタリアから来た子供たちに注連縄作り文化を伝えることになった。
春日大社の岡本彰夫さんから、日本文化は絶やしてはならん、と意見もあって、いっぺんやってみよかと決心されて実行。
見よう見真似でなく、かつてとった杵柄。
思い出して作った簾注連縄。
名前はと尋ねたら「オウガイ」と呼ぶ。
どうやら「ドウガイ」が訛ったようである。
ある地域で「ゾウガイ」と呼ぶ人もおられるが、それも「ドウガイ」が訛ったもの。
私の叔父もそうだったが、“ダジヅデド”を“ザジズゼゾ”の発音。
和歌山では逆の“ザジズゼゾ”が“ダジヅデド”にうーーん。
また兵庫県播州地域では、その区別ができない、とか・・。
探偵ナイトスクープの探偵さんにこぎつけた。
積もる話しに会話も弾み、その春日大社の若宮おん祭もしている掲載著書の『奈良大和路の年中行事』を献本させていただいた。
そのお礼に、とても美味しい生みたて玉子をいただいた。
Iさんは、またならグリーンファーム養鶏場の経営者。
一度、養鶏場に伺ったことがある。
平成21年の1月と5月。
上三橋にあったノガミ調査に立ち寄ったときだ。
生物の鶏を育て、美味しい玉子を毎日提供する養鶏場経営。
一日たりとも養鶏場を留守にできない仕事柄。
休みは、ないと話していた。
ちなみに提供する新鮮生玉子は「ミネ卵 極」。
大和郡山市内の中心部、城下町の一角。
近鉄郡山駅から東。
JR郡山駅を結ぶ商店街通り。
藺町線と重なる信号すぐ傍にあるタイムパーッキング前に自動販売機を設置しているので、気がついた人は少なくないだろう。
ちなみに、Iさんは、若宮おん祭に参列される「大和士((やまとざむらい)参勤春日講」の代表者でもあるし、また、「明日のお城と城下町を考える会」の代表者でもある。
昭和55年9月に結成し、昭和58年(1983)から昭和61年(1986)にかけて、追手門と追手東隅櫓台・多門櫓、追手向櫓・多聞櫓を再建された。
城郭に入る玄関口の再建によって城らしき姿を取り戻した団体。
その後の目標は、極楽橋の再建に白沢門櫓台石垣修復も含む整備事業に移った。
市民寄付に頼っていたが、少額寄付もありがたくいのだが、目標額にはほど遠く。
そのような状況だった寄付金が、一挙に目標額に達した、という。
稀代な一人の篤志家によって一気に進んだ整備事業。
この年の3月22日に地鎮祭を迎えるまでに至った。
感無量の表情を見せるIさんの活動も尊い。
さて、話題は地域の民俗行事である。
かつては、ここ上三橋も他村同様に、砂を撒く砂の道をしていた。
今では往来激しい車移動に対応するアスファルト舗装道。
その前の時代にしていたというからずいぶん前に中断したようだ。
砂、土なら雨に打たれたら土に戻る。
その砂の道は正月の神さんを迎える道。
近くを流れる地蔵院川の砂。
綺麗な砂が溜まる洲から掬って砂の道を形成していた。
2月1日の朝7時。
小正月のとんどと呼んでいた。
一般的に、小正月は1月15日であるが、ここ上三橋は15日遅れの小正月にとんどをする。
かつては村の真ん中にしていたが、今は旧公民館の地に移したそうだ。
上三橋は30戸の集落。
8月11日から14日間は、新仏のタナを奉る家や、辻々で鉦を打って無縁仏の供養する六斎講があった。
6人、7人で1組を構成する六斎講。
3組で30戸を分担し、14日は村の北の端から順繰りに六斎念仏に鉦を打っていた。
上三橋の六斎講の存在を知ったのは、平成25年の5月1日。
たまたま走っていた街道に出会った苗代つくり。
おそらくテンマサン(※天満さん)の祭りに授かった御符を水口に立てるであろう、と思って緊急取材をさせてもらったU夫妻。
そのときに話してくださった上三橋の六斎講。
今から60年前は鉦を打つ念仏講があった、と。
それから6年も経った本日から遡ったら68年前の時代。
記憶に残した六斎講。
「8月15日は各家で所有している六斎鉦を持ってきて40戸の集落を巡っていく。集まった総員は、その家の廊下に座って並んだ。その場で鉦を叩きながら念仏を唱えた。1軒、1軒巡っていたから相当な時間を要した。念仏はしなくなったが、今でもその鉦は各家で残している、と思うと話す六斎念仏は「カンカラカン」と呼んでいた」と、ブログに揚げた。
打ち鳴らす鉦の音がそのように聞こえた六斎鉦は、講を解散した以降もお家に保管していると話してくれた。
後日伺ったU家。
どこに収納したあら、思い出せなくて・・・。
結局は、拝見できなかった六斎鉦。
どなたが所有しているかわからず、一軒、一軒を訪ねるわけにもいかず断念したことを思い出した。
(R2. 1. 1 SB805SH撮影)
(R2. 1. 4 聞き取り)
車を走らせた道中に見つかった簾型注連縄に足止め、ではなく、目撃映像に釘付けされた。
大和郡山から帯解間を東西に走る旧街道は郡山街道。
幾度となく通る街道にあった注連縄であるが、何十年も走っていても気づかないなんて・・。
もしかとすれば、ある地域のように注連縄下ろしが正月明けすぐ、とも考えられる。
気になれば出かけて当主に伺う地域の注連縄調査であるが、聞き取り取材をしたのは三が日明けの4日に訪問した。
呼び鈴押した家人の返答は、主人でないとわからないですが、もうすぐ戻ってくる、と。
お会いできた当主は、なんと以前にもお会いしたIさん。
春日大社の若宮おん祭にも出仕される大和士(やまとざむらい)の代表のIさん。
大宿所におられたとき、御湯をされる加奥さんが身に着けるサンバイコを作っていた方だ。
4年前、ライオンズクラブイベント・イタリアから来た子供たちに注連縄作り文化を伝えることになった。
春日大社の岡本彰夫さんから、日本文化は絶やしてはならん、と意見もあって、いっぺんやってみよかと決心されて実行。
見よう見真似でなく、かつてとった杵柄。
思い出して作った簾注連縄。
名前はと尋ねたら「オウガイ」と呼ぶ。
どうやら「ドウガイ」が訛ったようである。
ある地域で「ゾウガイ」と呼ぶ人もおられるが、それも「ドウガイ」が訛ったもの。
私の叔父もそうだったが、“ダジヅデド”を“ザジズゼゾ”の発音。
和歌山では逆の“ザジズゼゾ”が“ダジヅデド”にうーーん。
また兵庫県播州地域では、その区別ができない、とか・・。
探偵ナイトスクープの探偵さんにこぎつけた。
積もる話しに会話も弾み、その春日大社の若宮おん祭もしている掲載著書の『奈良大和路の年中行事』を献本させていただいた。
そのお礼に、とても美味しい生みたて玉子をいただいた。
Iさんは、またならグリーンファーム養鶏場の経営者。
一度、養鶏場に伺ったことがある。
平成21年の1月と5月。
上三橋にあったノガミ調査に立ち寄ったときだ。
生物の鶏を育て、美味しい玉子を毎日提供する養鶏場経営。
一日たりとも養鶏場を留守にできない仕事柄。
休みは、ないと話していた。
ちなみに提供する新鮮生玉子は「ミネ卵 極」。
大和郡山市内の中心部、城下町の一角。
近鉄郡山駅から東。
JR郡山駅を結ぶ商店街通り。
藺町線と重なる信号すぐ傍にあるタイムパーッキング前に自動販売機を設置しているので、気がついた人は少なくないだろう。
ちなみに、Iさんは、若宮おん祭に参列される「大和士((やまとざむらい)参勤春日講」の代表者でもあるし、また、「明日のお城と城下町を考える会」の代表者でもある。
昭和55年9月に結成し、昭和58年(1983)から昭和61年(1986)にかけて、追手門と追手東隅櫓台・多門櫓、追手向櫓・多聞櫓を再建された。
城郭に入る玄関口の再建によって城らしき姿を取り戻した団体。
その後の目標は、極楽橋の再建に白沢門櫓台石垣修復も含む整備事業に移った。
市民寄付に頼っていたが、少額寄付もありがたくいのだが、目標額にはほど遠く。
そのような状況だった寄付金が、一挙に目標額に達した、という。
稀代な一人の篤志家によって一気に進んだ整備事業。
この年の3月22日に地鎮祭を迎えるまでに至った。
感無量の表情を見せるIさんの活動も尊い。
さて、話題は地域の民俗行事である。
かつては、ここ上三橋も他村同様に、砂を撒く砂の道をしていた。
今では往来激しい車移動に対応するアスファルト舗装道。
その前の時代にしていたというからずいぶん前に中断したようだ。
砂、土なら雨に打たれたら土に戻る。
その砂の道は正月の神さんを迎える道。
近くを流れる地蔵院川の砂。
綺麗な砂が溜まる洲から掬って砂の道を形成していた。
2月1日の朝7時。
小正月のとんどと呼んでいた。
一般的に、小正月は1月15日であるが、ここ上三橋は15日遅れの小正月にとんどをする。
かつては村の真ん中にしていたが、今は旧公民館の地に移したそうだ。
上三橋は30戸の集落。
8月11日から14日間は、新仏のタナを奉る家や、辻々で鉦を打って無縁仏の供養する六斎講があった。
6人、7人で1組を構成する六斎講。
3組で30戸を分担し、14日は村の北の端から順繰りに六斎念仏に鉦を打っていた。
上三橋の六斎講の存在を知ったのは、平成25年の5月1日。
たまたま走っていた街道に出会った苗代つくり。
おそらくテンマサン(※天満さん)の祭りに授かった御符を水口に立てるであろう、と思って緊急取材をさせてもらったU夫妻。
そのときに話してくださった上三橋の六斎講。
今から60年前は鉦を打つ念仏講があった、と。
それから6年も経った本日から遡ったら68年前の時代。
記憶に残した六斎講。
「8月15日は各家で所有している六斎鉦を持ってきて40戸の集落を巡っていく。集まった総員は、その家の廊下に座って並んだ。その場で鉦を叩きながら念仏を唱えた。1軒、1軒巡っていたから相当な時間を要した。念仏はしなくなったが、今でもその鉦は各家で残している、と思うと話す六斎念仏は「カンカラカン」と呼んでいた」と、ブログに揚げた。
打ち鳴らす鉦の音がそのように聞こえた六斎鉦は、講を解散した以降もお家に保管していると話してくれた。
後日伺ったU家。
どこに収納したあら、思い出せなくて・・・。
結局は、拝見できなかった六斎鉦。
どなたが所有しているかわからず、一軒、一軒を訪ねるわけにもいかず断念したことを思い出した。
(R2. 1. 1 SB805SH撮影)
(R2. 1. 4 聞き取り)