前夜の宵宮に訪れた奈良市東鳴川町の春日神社。
この日もまた特殊な御供があるマツリに寄せていただいた。
朝早くからの作業に一老、二老に当家(※当夜とも)が集まってくる。
マツリが始まる時間帯は午前11時。
座中が参集されるまでに準備しなくてはならない作業がある。
一つは御供作り。
昨夜はシトギ作りのシラモチ。
大きな円形にバランの葉のせが特徴である。
この日のマツリは同じお米でもシトギ作りでなく蒸し飯作りになる。
御供の名称は宵宮と同様のシラムシ(※白蒸し)であるが別名にモッソがある。
充てる漢字は“盛相”である。
収穫したばかりの新米のヒノヒカリで作る白蒸しモッソの量は2升。
昔は5升、あまりにも多いという意見が出て3升になったが、いつしかそれもまた2升に落ち着いた。
塩水を垂らした大量の米を炊いて蒸していたというから相当な作業量である。
御供の量はともかく、大量にあった白蒸しモッソはどうしても余る。
余ったモッソはその場でおにぎり飯にして食べる人もあれば持ち帰る人も・・・。
ヒノヒカリは県推奨の粳米の品種。
昨今、どこの地域でもその名を口にされることが多い。
当家を手伝う若手の手伝いさんが作り始めた白蒸しモッソ。
蒸し飯を詰める容器は高さ5cm、一辺が140cmの桝である。
しゃもじで掬った蒸し飯を詰め込んでいく。
かつてはこれよりもっと大きな桝だったようだ。
詰め込む量はすり切れでなく、やや盛り状態にしておく。
取っ手のある蓋板を被せてぐっと押す。
親指を蓋に他の指は枠に手を当てながら抜く。
いわゆる押し寿司のようにぐっと力を込めて押し抜く。
できあがりはどうだろう。
みなが心配そうに見守るなか、そっと蓋を外したら、四隅も綺麗な白蒸しモッソが顔を出した。
ほっとして次もまた白蒸しモッソ作りである。
白蒸しモッソは2段重ね。
出来上がったらそれぞれをラップ包みにする。
それを四つも作るので調整時間はままかかる。
四つ作るのは「春日さんの神さんは四柱だから」という。
押しモッソは当家を手伝う若者の作業。
一方、作った2段重ねの白蒸しモッソに飾り付ける藁括りは大人の出番だ。
二老とともに当家の父親と調整作業。
先に施す三隅を半紙囲い。
その半紙の裏から廻した藁で括る。
藁括りは2段。
藁の端を中央に寄せて締める。
2段の藁先を揃えるように直立させる。
https://blog.goo.ne.jp/mnjr05gob/e/e1b8b4ac1f8b51f406a00ff643591a1f
ピンと立てたらできあがりであるが、前部を見ていただいたらわかるように、細く切った前部の半紙を結びにしている。
湿り気のある白蒸しモッソに直接触れる部分は柔らかくなるのはいいが、無理をすれば破れてしまうこともある。
丁寧さが求められる調整作業である。
作り終えてから拝見した大き目の桝はかつて使用していたモッソ容器である。
高さは7.5cmに一辺が17cm。
一回り大きいという具合であるが構造に違いが見られる。
現在使用中の桝は奈良県内各地に拝見した蓋押し構造。
それを押して枠から押し出す。
東鳴川のこれは押し出し式でなく、底の板が引き出せる引き出し式の構造である。
これまで見たことのない構造に感動した。
一方、白蒸しモッソと併行して注連縄を坦々と結い始めたのは当家を務める昭和60年生まれのIさん。
モチワラを慣れた手つきで結っていく。
ほぼできあがる少し前。
座中の一人が社務所下にある倉に納めている所蔵品を見せてくださる。
一つはゾーク(造営事業)の際に社殿に納めていた棟札である。
時代は大正八年拾年拾貳年。
「奉謹請 祭神(※春日四柱) 斎主社掌岡野半次郎 大工稲垣安太郎 守護攸」とあった。
もう一つは二つの太鼓。
太鼓革が破損したのか張り替えることなく残していた。
時間があれば内側の墨書を見ておきたかった代物である。
太鼓は現在の宵宮、マツリに用いることはないようだ。また、かつては6月26日に虫送りをしていたという。
太鼓を叩いて「虫よ、あっちへいけ」と囃していたという虫送り。
戦前まであったと伝わる。
御供や注連縄ができあがったころを見計らって出かける地がある。
そこは山の神の地とされる“嵩山”である。
下見兼ねて訪れた際、東鳴川の行事のことを教えてくださった宮総代・一老であるOさんが示す方角に山の神の地がある。
そこへ行くには道がわからない。
そこまでは歩きでなく、みなは軽トラに乗っていくという。
ついていくには無理があるから乗ってください、と云われてありがたく乗車する。
軽トラで行けるところまで行って、そこからは緩やかな山登り。
道筋に生えていた雑草は綺麗に刈り込んでいた。
当家のIさんは親父さんとともに草刈り作業をしていたという。
距離はそれほどもない山の神の地に大木がある。
集落からは見えにくい位置にある巨木はヒノキ。
そこが山の神の地。
白いカワラケを置いて、塩、洗い米にお神酒を供える。
当屋に次期当屋務めの男性に手伝いさんも。
神式に則り拝礼をした。
神事を済ませたら、ヒノキ周りに供えた塩、米、お神酒を撒いて終える。
山の神参拝を済ませた一行が神社に戻ってきた。
集まった座中は注連縄張り。
左右に高張提灯を立てた鳥居に注連縄をかける。
当屋が結った七・五・三注連縄はシデに麻緒を垂らしていた。
前夜の宵宮に出仕された宮司から授かったシデ、麻緒を取り付けていた。
この日は宮司の出仕はない。
宵宮かマツリか、出仕はいずれかの日に相談して決めるそうだ。
社殿に納めた御供はできたばかりの白蒸しモッソと前夜の宵宮と同じく五菜である。
葉付き大根に人参(若しくは生姜)、葉付き牛蒡、生椎茸、昆布の5品。
奉書に包んでモチ藁で括る。
漆の木で作った箸は四膳。
四柱の神さんに食べていただく五菜も四つである。
その手前に並ぶ四品。
紅白の水引で括った半紙包みの御供は五つの栗に柿と2個の蜜柑である。
塩、洗い米にお神酒を供えて神事を始める。
燈籠の蝋燭に火を灯して参拝。
ただ、一同が揃って参拝することなく、めいめいが四神に向かって手を合わせる参拝である。
東鳴川は下の5戸を入れて全戸が23戸の集落。
座入りした長男の人だけが座の行事に参集する。
一同が座ったところで記念撮影。
実は前夜の宵宮に出仕された石田武士宮司からのお願いである。
これまで揃って写真を撮ったことはない。
本日のマツリなら手伝いの二人も揃うからと伝えられていたご下命の記念撮影である。
尤も、座中は全員でなく、一人がやむない事情で参列できなかったのが申しわけなく思う。
まずは手伝いさんがお神酒注ぎに廻って一同の乾杯。
一老の挨拶、口上をもって下げたお神酒をいただく。
こうして座の会食が始まった。
座食は宵宮と同じ3品。
重箱に詰めた調理の品々は酒の肴である。
棒状に切った牛蒡にすり胡麻を振りかけた酢牛蒡。
醤油味で煮込んだコンニャク。
三角に捻りコンニャクの2種盛り。
もう一品が青野菜のおひたし。
この日は胡麻を振ったほうれん草のおひたし。
上座に座る一老、二老らの順に手造りの肴を盛ったお重を廻す。
三種の肴はめいめいが箸で摘まんで小皿に盛っていただく。
酒の肴が廻っている間に早くも動き出した3人。
四神に供えた白蒸しモッソも酒の肴にいただく。
三方を囲っていた半紙を取り除いてモチ藁を紐解く。
モッソを包んでいたラップも取り除いた。
供えたときと同じように二段重ねもモッソを中皿に盛る。
まずは上座に運んで一老、二老の順に添えた漆の木で作った箸でつまんで分ける。
白蒸しモッソは炊いてから時間が長く経過すると固くなる傾向にある。
この日の白蒸しモッソは朝に炊いて2時間ほど前にモッソにしていたので柔らかい。
尤もご飯のような食感でなくやや固めの印象であるが、品種はヒノヒカリ。
甘くて美味しいお米である。
座中がいうにはモッソも酒の肴。
それだけで酒が飲めるという。
美味しいモッソはお代わりの要求があちこちから座中が声をあげる。
その都度、モッソの膳を廻ってくる。
やや太めの漆の木の箸は持ちにくい。
漆といえば被れる人も多いやに聞くが、それは生木。
木肌の汁が直接肌にかかったらかぶれること間違いなし。
モッソを分ける漆の箸はカラカラに乾かしたもの。
一老は山に入って自生する漆の木を伐採して持ち帰る。
漆は長い期間をかけて干す。
汁気がまったくない状態のカラカラ干し。
そうなれば大丈夫。
皮を剥いで削れば白い木肌が現れる。
東鳴川では本日のマツリ以外にもモッソが登場する。
一年に何度か酒の肴にいただくモッソ。
この日に使った漆の箸は捨てて、次の年中行事のときにまた新しい漆の箸が登場する。
1行事に対していちいち作っているわけにはいかないので、一年分の箸を作っておいたいう。
尤も実際は2年分。
一老の任期が2年間のお勤めになるから、その期間中のすべての箸を前もって作ったそうだ。
三品のお重にモッソ。
いつになく美味しいからといって食も酒もようすすむわ、と話していた。
実は、であるが、この席には親子三代で参列している人がいる。
三代でなくとも親子で参列する組も。
親子で飲み交わす座の宴。
お家のなかではなかなか親子で酒を酌み交わすことはあまりないそうだが、この座では当たり前のように酌み交わす。
おそらく他村では見られない、際立って珍しい形態ではないだろうか。
しかもこの席に座するすべての人たちが長男である。
格式を重んじてきた東鳴川の座。
貴重な座の在り方に、寄せてもらってことに感謝申し上げる次第である。
座の〆に配られる蜜柑。
御供下げのデザートも美味しくいただいた。
ちなみに東鳴川を流れる川はその名通りの鳴川。
下流に注ぐ赤田川を経て大川の木津川に流れていくそうだ。
村には寺の跡があった。
耕す田んぼの名に旧寺の名があるという。
坊が多かったそうで「鳴川千坊」と称していた。
尤も県西部の平群町もまた鳴川の地があるから間違えそうにもなる同名の地。
調べによれば東鳴川にあった寺は南都仏教寺院。
興福寺一乗院に属した大伽藍の鳴川千坊があったそうだ。
東鳴川をはじめとする付近一帯は南都僧侶が山中に籠って修行をしていた。
この地は行基さんが49院を創立。
そのことから鳴川千坊の名が付いたようだ。
(H29.10. 9 SB932SH撮影)
(H29.10. 9 EOS40D撮影)
この日もまた特殊な御供があるマツリに寄せていただいた。
朝早くからの作業に一老、二老に当家(※当夜とも)が集まってくる。
マツリが始まる時間帯は午前11時。
座中が参集されるまでに準備しなくてはならない作業がある。
一つは御供作り。
昨夜はシトギ作りのシラモチ。
大きな円形にバランの葉のせが特徴である。
この日のマツリは同じお米でもシトギ作りでなく蒸し飯作りになる。
御供の名称は宵宮と同様のシラムシ(※白蒸し)であるが別名にモッソがある。
充てる漢字は“盛相”である。
収穫したばかりの新米のヒノヒカリで作る白蒸しモッソの量は2升。
昔は5升、あまりにも多いという意見が出て3升になったが、いつしかそれもまた2升に落ち着いた。
塩水を垂らした大量の米を炊いて蒸していたというから相当な作業量である。
御供の量はともかく、大量にあった白蒸しモッソはどうしても余る。
余ったモッソはその場でおにぎり飯にして食べる人もあれば持ち帰る人も・・・。
ヒノヒカリは県推奨の粳米の品種。
昨今、どこの地域でもその名を口にされることが多い。
当家を手伝う若手の手伝いさんが作り始めた白蒸しモッソ。
蒸し飯を詰める容器は高さ5cm、一辺が140cmの桝である。
しゃもじで掬った蒸し飯を詰め込んでいく。
かつてはこれよりもっと大きな桝だったようだ。
詰め込む量はすり切れでなく、やや盛り状態にしておく。
取っ手のある蓋板を被せてぐっと押す。
親指を蓋に他の指は枠に手を当てながら抜く。
いわゆる押し寿司のようにぐっと力を込めて押し抜く。
できあがりはどうだろう。
みなが心配そうに見守るなか、そっと蓋を外したら、四隅も綺麗な白蒸しモッソが顔を出した。
ほっとして次もまた白蒸しモッソ作りである。
白蒸しモッソは2段重ね。
出来上がったらそれぞれをラップ包みにする。
それを四つも作るので調整時間はままかかる。
四つ作るのは「春日さんの神さんは四柱だから」という。
押しモッソは当家を手伝う若者の作業。
一方、作った2段重ねの白蒸しモッソに飾り付ける藁括りは大人の出番だ。
二老とともに当家の父親と調整作業。
先に施す三隅を半紙囲い。
その半紙の裏から廻した藁で括る。
藁括りは2段。
藁の端を中央に寄せて締める。
2段の藁先を揃えるように直立させる。
https://blog.goo.ne.jp/mnjr05gob/e/e1b8b4ac1f8b51f406a00ff643591a1f
ピンと立てたらできあがりであるが、前部を見ていただいたらわかるように、細く切った前部の半紙を結びにしている。
湿り気のある白蒸しモッソに直接触れる部分は柔らかくなるのはいいが、無理をすれば破れてしまうこともある。
丁寧さが求められる調整作業である。
作り終えてから拝見した大き目の桝はかつて使用していたモッソ容器である。
高さは7.5cmに一辺が17cm。
一回り大きいという具合であるが構造に違いが見られる。
現在使用中の桝は奈良県内各地に拝見した蓋押し構造。
それを押して枠から押し出す。
東鳴川のこれは押し出し式でなく、底の板が引き出せる引き出し式の構造である。
これまで見たことのない構造に感動した。
一方、白蒸しモッソと併行して注連縄を坦々と結い始めたのは当家を務める昭和60年生まれのIさん。
モチワラを慣れた手つきで結っていく。
ほぼできあがる少し前。
座中の一人が社務所下にある倉に納めている所蔵品を見せてくださる。
一つはゾーク(造営事業)の際に社殿に納めていた棟札である。
時代は大正八年拾年拾貳年。
「奉謹請 祭神(※春日四柱) 斎主社掌岡野半次郎 大工稲垣安太郎 守護攸」とあった。
もう一つは二つの太鼓。
太鼓革が破損したのか張り替えることなく残していた。
時間があれば内側の墨書を見ておきたかった代物である。
太鼓は現在の宵宮、マツリに用いることはないようだ。また、かつては6月26日に虫送りをしていたという。
太鼓を叩いて「虫よ、あっちへいけ」と囃していたという虫送り。
戦前まであったと伝わる。
御供や注連縄ができあがったころを見計らって出かける地がある。
そこは山の神の地とされる“嵩山”である。
下見兼ねて訪れた際、東鳴川の行事のことを教えてくださった宮総代・一老であるOさんが示す方角に山の神の地がある。
そこへ行くには道がわからない。
そこまでは歩きでなく、みなは軽トラに乗っていくという。
ついていくには無理があるから乗ってください、と云われてありがたく乗車する。
軽トラで行けるところまで行って、そこからは緩やかな山登り。
道筋に生えていた雑草は綺麗に刈り込んでいた。
当家のIさんは親父さんとともに草刈り作業をしていたという。
距離はそれほどもない山の神の地に大木がある。
集落からは見えにくい位置にある巨木はヒノキ。
そこが山の神の地。
白いカワラケを置いて、塩、洗い米にお神酒を供える。
当屋に次期当屋務めの男性に手伝いさんも。
神式に則り拝礼をした。
神事を済ませたら、ヒノキ周りに供えた塩、米、お神酒を撒いて終える。
山の神参拝を済ませた一行が神社に戻ってきた。
集まった座中は注連縄張り。
左右に高張提灯を立てた鳥居に注連縄をかける。
当屋が結った七・五・三注連縄はシデに麻緒を垂らしていた。
前夜の宵宮に出仕された宮司から授かったシデ、麻緒を取り付けていた。
この日は宮司の出仕はない。
宵宮かマツリか、出仕はいずれかの日に相談して決めるそうだ。
社殿に納めた御供はできたばかりの白蒸しモッソと前夜の宵宮と同じく五菜である。
葉付き大根に人参(若しくは生姜)、葉付き牛蒡、生椎茸、昆布の5品。
奉書に包んでモチ藁で括る。
漆の木で作った箸は四膳。
四柱の神さんに食べていただく五菜も四つである。
その手前に並ぶ四品。
紅白の水引で括った半紙包みの御供は五つの栗に柿と2個の蜜柑である。
塩、洗い米にお神酒を供えて神事を始める。
燈籠の蝋燭に火を灯して参拝。
ただ、一同が揃って参拝することなく、めいめいが四神に向かって手を合わせる参拝である。
東鳴川は下の5戸を入れて全戸が23戸の集落。
座入りした長男の人だけが座の行事に参集する。
一同が座ったところで記念撮影。
実は前夜の宵宮に出仕された石田武士宮司からのお願いである。
これまで揃って写真を撮ったことはない。
本日のマツリなら手伝いの二人も揃うからと伝えられていたご下命の記念撮影である。
尤も、座中は全員でなく、一人がやむない事情で参列できなかったのが申しわけなく思う。
まずは手伝いさんがお神酒注ぎに廻って一同の乾杯。
一老の挨拶、口上をもって下げたお神酒をいただく。
こうして座の会食が始まった。
座食は宵宮と同じ3品。
重箱に詰めた調理の品々は酒の肴である。
棒状に切った牛蒡にすり胡麻を振りかけた酢牛蒡。
醤油味で煮込んだコンニャク。
三角に捻りコンニャクの2種盛り。
もう一品が青野菜のおひたし。
この日は胡麻を振ったほうれん草のおひたし。
上座に座る一老、二老らの順に手造りの肴を盛ったお重を廻す。
三種の肴はめいめいが箸で摘まんで小皿に盛っていただく。
酒の肴が廻っている間に早くも動き出した3人。
四神に供えた白蒸しモッソも酒の肴にいただく。
三方を囲っていた半紙を取り除いてモチ藁を紐解く。
モッソを包んでいたラップも取り除いた。
供えたときと同じように二段重ねもモッソを中皿に盛る。
まずは上座に運んで一老、二老の順に添えた漆の木で作った箸でつまんで分ける。
白蒸しモッソは炊いてから時間が長く経過すると固くなる傾向にある。
この日の白蒸しモッソは朝に炊いて2時間ほど前にモッソにしていたので柔らかい。
尤もご飯のような食感でなくやや固めの印象であるが、品種はヒノヒカリ。
甘くて美味しいお米である。
座中がいうにはモッソも酒の肴。
それだけで酒が飲めるという。
美味しいモッソはお代わりの要求があちこちから座中が声をあげる。
その都度、モッソの膳を廻ってくる。
やや太めの漆の木の箸は持ちにくい。
漆といえば被れる人も多いやに聞くが、それは生木。
木肌の汁が直接肌にかかったらかぶれること間違いなし。
モッソを分ける漆の箸はカラカラに乾かしたもの。
一老は山に入って自生する漆の木を伐採して持ち帰る。
漆は長い期間をかけて干す。
汁気がまったくない状態のカラカラ干し。
そうなれば大丈夫。
皮を剥いで削れば白い木肌が現れる。
東鳴川では本日のマツリ以外にもモッソが登場する。
一年に何度か酒の肴にいただくモッソ。
この日に使った漆の箸は捨てて、次の年中行事のときにまた新しい漆の箸が登場する。
1行事に対していちいち作っているわけにはいかないので、一年分の箸を作っておいたいう。
尤も実際は2年分。
一老の任期が2年間のお勤めになるから、その期間中のすべての箸を前もって作ったそうだ。
三品のお重にモッソ。
いつになく美味しいからといって食も酒もようすすむわ、と話していた。
実は、であるが、この席には親子三代で参列している人がいる。
三代でなくとも親子で参列する組も。
親子で飲み交わす座の宴。
お家のなかではなかなか親子で酒を酌み交わすことはあまりないそうだが、この座では当たり前のように酌み交わす。
おそらく他村では見られない、際立って珍しい形態ではないだろうか。
しかもこの席に座するすべての人たちが長男である。
格式を重んじてきた東鳴川の座。
貴重な座の在り方に、寄せてもらってことに感謝申し上げる次第である。
座の〆に配られる蜜柑。
御供下げのデザートも美味しくいただいた。
ちなみに東鳴川を流れる川はその名通りの鳴川。
下流に注ぐ赤田川を経て大川の木津川に流れていくそうだ。
村には寺の跡があった。
耕す田んぼの名に旧寺の名があるという。
坊が多かったそうで「鳴川千坊」と称していた。
尤も県西部の平群町もまた鳴川の地があるから間違えそうにもなる同名の地。
調べによれば東鳴川にあった寺は南都仏教寺院。
興福寺一乗院に属した大伽藍の鳴川千坊があったそうだ。
東鳴川をはじめとする付近一帯は南都僧侶が山中に籠って修行をしていた。
この地は行基さんが49院を創立。
そのことから鳴川千坊の名が付いたようだ。
(H29.10. 9 SB932SH撮影)
(H29.10. 9 EOS40D撮影)