田原本町阪手北は古代・中世に亘って役所があった要衝の地。
中世にはひもの(桧物)を売るサカテ座があったとされる商売の地。
旧村集落の佇まいをみせる建物が立ち並ぶ。
阪手北の八坂神社で行われる「華鎮祭」がある。
38戸の阪手北明神講が営む行事である。
村屋神社の宮司が結鎮祭文(けいちんさいもん)を詠みあげ、明神講の人たちが的打ちをする行事は平成16年2月に取材したことがある。
昨年の暮れに訪れた阪手北。
神社役員や当家らが簾型の注連縄を飾っていた。
そのときに話題がでた阪手北の明神講。
10月の初めころに講中が祭祀される明神講のマツリがあると話していた。
八坂神社に当家で一年間祀ってしたヤシロを持ち込むというのだ。
家の床の間に祀るのはヤシロだけでなく錆びたカタナもあると話していた。
毎月の1日と15日は酒、塩、米を供えてローソクに火を灯す。
八坂神社の分霊であるかも、と思っていた。
直前に伺った当家。
まさにその通りに祀っていた。
明日の午前中に公民館へ運ぶというヤシロとカタナを拝見した。
錆びてはいるが真剣である。
カタナは大刀・小刀の2本。
納めてある箱はそれほど古いようでもない。
そして翌日に訪れた阪手北の公民館。
自治会長の了解を得て取材に入る。
時間ともなれば一年間祀っていた当家が運んできた。
公民館は、かつて阿弥陀寺であった。
明治時代は観音寺であったが消失したと受け当家は話す。
八坂神社の創建年代は不明である。
江戸時代は牛王天王社と呼ばれていたが、明治22年に現在の社名である八坂神社になった。
それまでは神宮寺・西の坊と称して釈迦堂、薬師堂があった。
それが受け当家が話す観音寺であったようだ。
廃仏毀釈の関係で明治7年に廃寺された釈迦堂、薬師堂は阿弥陀寺に遷されたと案内札に書いてある。
「華鎮祭」において各戸に配られるお札がある。
それには版木で刷られた「牛の玉 西坊法印」の文字があるようだ。
かつては坊の僧侶とともに神社の社守によって行われたと想起するのである。
いつの時代か判らないが、阿弥陀寺は火事で焼けた。
その後に建てられたのが公民館である。
場所からいってまさしく神宮寺である。
西の坊の元の地や阿弥陀寺の地、神社、大神宮まで含めて戦前までは敷地内であったと話す受け当家。
織田信長の時代までは天領だったという阪手北。
平野権平長泰(ひらのごんべえながやす)の子孫だったと話す受け当家は羽柴秀吉に土地を貰った。
当時、婦人を秀吉にあてがった。
子供が誕生して元服した。
占をしていた家系であったが、おじいさんの時代にやめた。
いろいろあって村に土地を返したと話すのである受け当家には古い弓や「ゴーシンサン」に供える「ショウユセンベイ」を焼く道具もあると云うである。
10月22日の夕刻には大阪平野大念仏から如来さんがやってくる大和ご回在がある。
公民館前、大神宮石塔がある辻角に融通念仏宗派の阿弥陀寺である。
かつて西の坊にあった木造釈迦如来坐像を安置しているそうだ。
この日はまだ上陸もしていない台風18号の余波を受けてやや強い風が吹いていた。
自治会長に宮役員、当家、受け当家に次年度に受け当家となる新人は境内を清掃する。
風に煽られていくら履いても散らかる。
仕方なく途中で断念された。
そうして午後に行われる明神講の行事に際して予め設営しておいた神饌台に錫製の瓶子(へいし)と塗り椀の酒盃と酒器。
本殿には狛犬も置いた。
調えた人たちは宮役員を覗いた4人。
公民館で会食をして午後の祭典を待つ。
会食の献立は巻き寿司にマツタケの吸い物、刺身だ。
参集した講中は拝殿に登る。
まずは自治会長が祓え詞を奏上する。
かつては十五人衆と呼ばれる長老衆であった。
八坂神社の年中行事を勤めていた。
1日、15日はお参り。
年に数回は十五人衆が寄りあって会食をしていた。
当番になる家でご馳走をよばれていたが、いつしか3人まで減少した平成16年ころ。
行事は自治会に委ねられ了承されて今に至る。
かつての十五人衆は引退するまで勤めていた。
次にあたる講中はいっぱい待っていたという「シニマチ」やったと経験者である大正14年生まれの長老が話す。
一月は初勘定、五月は田植えの集会もあった。
水溜めは桜井市の倉橋だと話すのは自治会長。
水門開けに4時間もかかる阪手までは長い距離だ。
日照りで干上がった水路はカラカラに乾くから途中で水が染み込んで消える。
水門を開けてから阪手に届くには3日間もかかったと云う。
十五人衆が祭典を勤めていたときは最長老の一老が奏上していたようである。
多の宮司さんに教わった祝詞奏上。
家で何日も練習したという自治会長の声が拝殿に響く。
次は大祓えを奏上した。
次に行われるのが当家渡しの神事である。
2礼、2拍手、1礼をされて指示をする。
この日まで家でヤシロを祀っていた当家とこの日より受け継ぐ新入りと呼ばれる受け当家に命じて、一旦仮納めしていたヤシロとカタナを運ばせる。
境内を通ることなく公民館を出発して境内周りを歩いて鳥居を潜る。
ヤシロの神さんは鳥居を潜るのである。
手で抱えて運んだヤシロとカタナは恭しく神饌台に置かれて頭を下げる。
こうして役目を終えた当家は「見届け」になりその場に留まる。
受け当家は当家になり、新たに次の年に受け当家となる新人が並んで2礼、2拍手、1礼でお参りだ。
次に行われるのは供えた生のカマス喰いである。
喰いであるが、口には銜えない。
生魚だけに、いただくのは家に持ち帰ってからだと云う。
カマスは三つに切り分けている。
頭は自治会長に、中央は当家、尾は新人に渡されるのである。
それぞれ半紙に包んだカマスは、その順で手渡される。
かつて十五人衆を勤めた長老によれば箸で摘まんで差し出していたようだ。
次は酒盃の儀式である。
見届け人はヤシロを下げて当家の前に遷す。
盃を手にする自治会長、当家、新人の順に酒を注ぐ。
三三九度の儀式ともされる酒盃の儀式には当家は飲み干したときに「高砂」の謡を謳われる。
新人も注がれた酒を飲み干せば、講中全員が頭を下げて拝する。
当家渡しの儀式はこうして終えた。
直ちに受けたヤシロとカタナを手で抱えて当家に向かう。
何故かヤシロを抱えていたのは新人だった。
床の間に調えた二人は拝殿に戻れば直会となる。
パック詰め料理はお酒とともによばれる会食。
長老の話ではかつての会食はコイモにマツタケの吸い物であったようだ。
今ではワカメの味噌汁に香物もつく。
こうして延々と酒を飲み続けた講中。
アガリの酒は尽きなく4本目。
実に飲みっぷりがいい。
座におられた男性に声を掛けられた。
なんと、である。
平成19年度まで県立民俗博物館に在職されていた館長であった。
そのころより頻繁に訪れて鹿谷勲氏と打合せをしていたことを思い出す。
(H26.10. 5 EOS40D撮影)
中世にはひもの(桧物)を売るサカテ座があったとされる商売の地。
旧村集落の佇まいをみせる建物が立ち並ぶ。
阪手北の八坂神社で行われる「華鎮祭」がある。
38戸の阪手北明神講が営む行事である。
村屋神社の宮司が結鎮祭文(けいちんさいもん)を詠みあげ、明神講の人たちが的打ちをする行事は平成16年2月に取材したことがある。
昨年の暮れに訪れた阪手北。
神社役員や当家らが簾型の注連縄を飾っていた。
そのときに話題がでた阪手北の明神講。
10月の初めころに講中が祭祀される明神講のマツリがあると話していた。
八坂神社に当家で一年間祀ってしたヤシロを持ち込むというのだ。
家の床の間に祀るのはヤシロだけでなく錆びたカタナもあると話していた。
毎月の1日と15日は酒、塩、米を供えてローソクに火を灯す。
八坂神社の分霊であるかも、と思っていた。
直前に伺った当家。
まさにその通りに祀っていた。
明日の午前中に公民館へ運ぶというヤシロとカタナを拝見した。
錆びてはいるが真剣である。
カタナは大刀・小刀の2本。
納めてある箱はそれほど古いようでもない。
そして翌日に訪れた阪手北の公民館。
自治会長の了解を得て取材に入る。
時間ともなれば一年間祀っていた当家が運んできた。
公民館は、かつて阿弥陀寺であった。
明治時代は観音寺であったが消失したと受け当家は話す。
八坂神社の創建年代は不明である。
江戸時代は牛王天王社と呼ばれていたが、明治22年に現在の社名である八坂神社になった。
それまでは神宮寺・西の坊と称して釈迦堂、薬師堂があった。
それが受け当家が話す観音寺であったようだ。
廃仏毀釈の関係で明治7年に廃寺された釈迦堂、薬師堂は阿弥陀寺に遷されたと案内札に書いてある。
「華鎮祭」において各戸に配られるお札がある。
それには版木で刷られた「牛の玉 西坊法印」の文字があるようだ。
かつては坊の僧侶とともに神社の社守によって行われたと想起するのである。
いつの時代か判らないが、阿弥陀寺は火事で焼けた。
その後に建てられたのが公民館である。
場所からいってまさしく神宮寺である。
西の坊の元の地や阿弥陀寺の地、神社、大神宮まで含めて戦前までは敷地内であったと話す受け当家。
織田信長の時代までは天領だったという阪手北。
平野権平長泰(ひらのごんべえながやす)の子孫だったと話す受け当家は羽柴秀吉に土地を貰った。
当時、婦人を秀吉にあてがった。
子供が誕生して元服した。
占をしていた家系であったが、おじいさんの時代にやめた。
いろいろあって村に土地を返したと話すのである受け当家には古い弓や「ゴーシンサン」に供える「ショウユセンベイ」を焼く道具もあると云うである。
10月22日の夕刻には大阪平野大念仏から如来さんがやってくる大和ご回在がある。
公民館前、大神宮石塔がある辻角に融通念仏宗派の阿弥陀寺である。
かつて西の坊にあった木造釈迦如来坐像を安置しているそうだ。
この日はまだ上陸もしていない台風18号の余波を受けてやや強い風が吹いていた。
自治会長に宮役員、当家、受け当家に次年度に受け当家となる新人は境内を清掃する。
風に煽られていくら履いても散らかる。
仕方なく途中で断念された。
そうして午後に行われる明神講の行事に際して予め設営しておいた神饌台に錫製の瓶子(へいし)と塗り椀の酒盃と酒器。
本殿には狛犬も置いた。
調えた人たちは宮役員を覗いた4人。
公民館で会食をして午後の祭典を待つ。
会食の献立は巻き寿司にマツタケの吸い物、刺身だ。
参集した講中は拝殿に登る。
まずは自治会長が祓え詞を奏上する。
かつては十五人衆と呼ばれる長老衆であった。
八坂神社の年中行事を勤めていた。
1日、15日はお参り。
年に数回は十五人衆が寄りあって会食をしていた。
当番になる家でご馳走をよばれていたが、いつしか3人まで減少した平成16年ころ。
行事は自治会に委ねられ了承されて今に至る。
かつての十五人衆は引退するまで勤めていた。
次にあたる講中はいっぱい待っていたという「シニマチ」やったと経験者である大正14年生まれの長老が話す。
一月は初勘定、五月は田植えの集会もあった。
水溜めは桜井市の倉橋だと話すのは自治会長。
水門開けに4時間もかかる阪手までは長い距離だ。
日照りで干上がった水路はカラカラに乾くから途中で水が染み込んで消える。
水門を開けてから阪手に届くには3日間もかかったと云う。
十五人衆が祭典を勤めていたときは最長老の一老が奏上していたようである。
多の宮司さんに教わった祝詞奏上。
家で何日も練習したという自治会長の声が拝殿に響く。
次は大祓えを奏上した。
次に行われるのが当家渡しの神事である。
2礼、2拍手、1礼をされて指示をする。
この日まで家でヤシロを祀っていた当家とこの日より受け継ぐ新入りと呼ばれる受け当家に命じて、一旦仮納めしていたヤシロとカタナを運ばせる。
境内を通ることなく公民館を出発して境内周りを歩いて鳥居を潜る。
ヤシロの神さんは鳥居を潜るのである。
手で抱えて運んだヤシロとカタナは恭しく神饌台に置かれて頭を下げる。
こうして役目を終えた当家は「見届け」になりその場に留まる。
受け当家は当家になり、新たに次の年に受け当家となる新人が並んで2礼、2拍手、1礼でお参りだ。
次に行われるのは供えた生のカマス喰いである。
喰いであるが、口には銜えない。
生魚だけに、いただくのは家に持ち帰ってからだと云う。
カマスは三つに切り分けている。
頭は自治会長に、中央は当家、尾は新人に渡されるのである。
それぞれ半紙に包んだカマスは、その順で手渡される。
かつて十五人衆を勤めた長老によれば箸で摘まんで差し出していたようだ。
次は酒盃の儀式である。
見届け人はヤシロを下げて当家の前に遷す。
盃を手にする自治会長、当家、新人の順に酒を注ぐ。
三三九度の儀式ともされる酒盃の儀式には当家は飲み干したときに「高砂」の謡を謳われる。
新人も注がれた酒を飲み干せば、講中全員が頭を下げて拝する。
当家渡しの儀式はこうして終えた。
直ちに受けたヤシロとカタナを手で抱えて当家に向かう。
何故かヤシロを抱えていたのは新人だった。
床の間に調えた二人は拝殿に戻れば直会となる。
パック詰め料理はお酒とともによばれる会食。
長老の話ではかつての会食はコイモにマツタケの吸い物であったようだ。
今ではワカメの味噌汁に香物もつく。
こうして延々と酒を飲み続けた講中。
アガリの酒は尽きなく4本目。
実に飲みっぷりがいい。
座におられた男性に声を掛けられた。
なんと、である。
平成19年度まで県立民俗博物館に在職されていた館長であった。
そのころより頻繁に訪れて鹿谷勲氏と打合せをしていたことを思い出す。
(H26.10. 5 EOS40D撮影)