天理の病院に入院しているときに判った訃報。
河南町に住む叔父が80歳で亡くなったとおふくろが伝えてくれたが、どうすることもできない。
葬儀は身内だけの家族葬で行われたと聞く。
退院直前におふくろが伝えた四十九日の法要の日程。
そのころであれば、リハビリで身体も動けて参列することもできるだろうと判断して是非とも行くと伝言していた。
この日は朝から生憎の雨。
奈良よりも大阪のほうがよく降っている。
カーナビゲーションにセットした大阪府南部の河南町。
カーナビゲーションが案内する通りに車を走らせる。
大和中央道よりまほろばIC。
そこからは西名阪高速道路。
降りる処は藤井寺ICだ。
外環状線などからは地道。
案内されるがままに車を走らせる。
貴志から富田林に入れば見慣れた道にでる。
そこからほど遠くない地が河南町の南加納。
平成22年11月22日には貴重な村行事の「ゐのこ(いのこ)」を取材した地である。
それ以降も度々訪れる。
おふくろを迎えに出かけて住之江に送る送迎者になる。
叔父は何度も手術に耐えてきた。
仏さんになった今では見ることも挨拶もできないが、とにかく法要に向かう。
勝手知ったる家はすぐそこだ。
遺影を掲げた祭壇に遺骨もある。
しばらくすれば連絡を受けた従姉妹たちがやってきた。
おふくろは従姉妹が駅まで出かけて迎えていた。
お住っさんは門徒。
同家も門徒。
初めての葬儀にてんやわんやだったらしい。
お住っさんが始めに言った。
「長丁場になるので足は崩してください」、だ。
まず一時間はかかるだろうと思ったが、それを遙かに超えたほぼ2時間。
穴も掘って塔婆も用意しておいた墓地法要。
連携がうまくできていなくて親族が参る形になった。
それから2時間後には村の観音講は仏前に座ってご詠歌を唱える。
それまでに済ませておきたいパックの膳。
この日は雨で墓行きができなかった数人と別れて早めの膳をよばれる。
蓋を開けて広げた膳の品数は今までみたことがないぐらいに多い。
南河内郡太子町・懐食吉田の会席膳は私の舌とよく合う味付け。
なにもかも美味い。
一品、一品の量が多くて時間がかかる。
半分ほど食べたころは墓参りを済ませた一行が戻ってきた。
お慌ててよばれる会席御膳。
食べ終わってばたばたと座布団などを並べる。
観音講は30人ぐらい。
いとこのねえちゃんからは、一定の年齢になれば村の観音講に入って西国三十三番のご詠歌を唱えると聞いていた。
私より10歳上のねえちゃんは講中の一人。
弔いの場には参列することはできない。
この日の導師は5人。
おりんや小さな鉦を座布団の前に置く。
これより始まった。
撞木を叩いて鉦を鳴らす。
同時にご詠歌を唱える。
西国三十三番御詠歌は23番辺りで小休止。
家人が配るお茶をよばれる。
続きは24番から。
番外があったかどうか不明だが、この日は「帰命頂禮ありがたや 中陰和讃の心得は ・・・」から始まる中陰和讃が唱えられる。
中陰和讃は南加納特有の詞章がある和讃らしい。
1時間ほどで四十九日の弔いご詠歌済ませて家に戻っていく。
この日の観音講は27人。
うち4人が男性だ。
奈良県内の事例では見かけたことがない組織である。
(H27. 9. 6 SB932SH撮影)
河南町に住む叔父が80歳で亡くなったとおふくろが伝えてくれたが、どうすることもできない。
葬儀は身内だけの家族葬で行われたと聞く。
退院直前におふくろが伝えた四十九日の法要の日程。
そのころであれば、リハビリで身体も動けて参列することもできるだろうと判断して是非とも行くと伝言していた。
この日は朝から生憎の雨。
奈良よりも大阪のほうがよく降っている。
カーナビゲーションにセットした大阪府南部の河南町。
カーナビゲーションが案内する通りに車を走らせる。
大和中央道よりまほろばIC。
そこからは西名阪高速道路。
降りる処は藤井寺ICだ。
外環状線などからは地道。
案内されるがままに車を走らせる。
貴志から富田林に入れば見慣れた道にでる。
そこからほど遠くない地が河南町の南加納。
平成22年11月22日には貴重な村行事の「ゐのこ(いのこ)」を取材した地である。
それ以降も度々訪れる。
おふくろを迎えに出かけて住之江に送る送迎者になる。
叔父は何度も手術に耐えてきた。
仏さんになった今では見ることも挨拶もできないが、とにかく法要に向かう。
勝手知ったる家はすぐそこだ。
遺影を掲げた祭壇に遺骨もある。
しばらくすれば連絡を受けた従姉妹たちがやってきた。
おふくろは従姉妹が駅まで出かけて迎えていた。
お住っさんは門徒。
同家も門徒。
初めての葬儀にてんやわんやだったらしい。
お住っさんが始めに言った。
「長丁場になるので足は崩してください」、だ。
まず一時間はかかるだろうと思ったが、それを遙かに超えたほぼ2時間。
穴も掘って塔婆も用意しておいた墓地法要。
連携がうまくできていなくて親族が参る形になった。
それから2時間後には村の観音講は仏前に座ってご詠歌を唱える。
それまでに済ませておきたいパックの膳。
この日は雨で墓行きができなかった数人と別れて早めの膳をよばれる。
蓋を開けて広げた膳の品数は今までみたことがないぐらいに多い。
南河内郡太子町・懐食吉田の会席膳は私の舌とよく合う味付け。
なにもかも美味い。
一品、一品の量が多くて時間がかかる。
半分ほど食べたころは墓参りを済ませた一行が戻ってきた。
お慌ててよばれる会席御膳。
食べ終わってばたばたと座布団などを並べる。
観音講は30人ぐらい。
いとこのねえちゃんからは、一定の年齢になれば村の観音講に入って西国三十三番のご詠歌を唱えると聞いていた。
私より10歳上のねえちゃんは講中の一人。
弔いの場には参列することはできない。
この日の導師は5人。
おりんや小さな鉦を座布団の前に置く。
これより始まった。
撞木を叩いて鉦を鳴らす。
同時にご詠歌を唱える。
西国三十三番御詠歌は23番辺りで小休止。
家人が配るお茶をよばれる。
続きは24番から。
番外があったかどうか不明だが、この日は「帰命頂禮ありがたや 中陰和讃の心得は ・・・」から始まる中陰和讃が唱えられる。
中陰和讃は南加納特有の詞章がある和讃らしい。
1時間ほどで四十九日の弔いご詠歌済ませて家に戻っていく。
この日の観音講は27人。
うち4人が男性だ。
奈良県内の事例では見かけたことがない組織である。
(H27. 9. 6 SB932SH撮影)