2月に行われた涅槃会。
宇陀市榛原栗谷にある日蓮宗大念寺だった。
行事があることは隣村の石田の人たちに聞いていた。
調べてみたらメディアネット宇陀に栗谷の涅槃会が紹介されていた。
そのことが頭の中に残っていて2月に訪れた。
その取材中に耳にした花まつり。
違っているかもしれないが、気になれば出かけてみたくなるのが性である。
再訪した大念寺は満開だった桜の花が境内一面に広がっていた。
本堂の扉が閉まっている。
時間帯が違ったのか、本日ではないのか。
ネットをくってみてもまったくヒットしない大念寺。
村の人に聞くしかないと思って付近を探してみる。
ぐるりと周囲を廻った地に鳥居が見える。
小高い丘のようなところに鎮座していたのは春日神社だった。
階段を登っていけば社殿があった。
あるブログで紹介していたので参考にするが、その内容は榛原町教育委員会が掲示した神社由緒解説にある。
春日神社は東から若宮(大将軍・大山祇神)に武甕槌命(たけみかずちのみこと)・経津主命(ふつのしのみこと)・天児屋根命(あめのこやねのみこと)・比売大神(ひめのおおみかみ)の四神を祀った四連棟型社殿形式である。
この形式は全国的にも、宇陀市というか、奈良県内においても極めて珍しい建造物である。
もう一つの棟札の写しによれば、元文二年(1737)に現在の形式で建之されたと伝わる。
もう一つの棟札写しより、元徳元年(1329)12月。
当時、土地の名主だったとする願主実盛が春日四神を祀って創建したようだ。
「栗谷守 享保壬子(享保十七年/1732)天 春日大明神 十一月吉日」の刻印が見られた春日神社の手水鉢。
元文二年の棟札の写しよりも5年前の記し。
再建かどうか断定できないが、祈念に寄進された可能性もある。
神社より下った処にあった出荷場に数人の女性たちがおられた。
涅槃会におられた人も居るし、当日は不参加だった人もいる。
涅槃会取材に撮らせてもらった十数枚の記録写真をもってお礼とする。
その場には区長の奥さんもおられたので話は通じやすいが、結局は村に花まつり行事はなかった。
代わりといえばなんだが、春日神社の年中行事を教えてもらう。
正月朔日の元日祭は鏡餅を供えるが、3月3日の節句は一般的な神饌になる。
田植え奉告祭もあるようだが、なんといっても秋のマツリである。
以前は10月20日がマツリだった。
特定日であれば、集まりにくくなった時代があった。
氏子の職がサラリーマン化していくにつれて平日開催がしにくくなった。
そういう理由で土曜、日曜、祝日に移行した地域は数多い。
秋のマツリは最たるものである。
栗谷もそうせざるを得なかった。
年中行事を一年間に亘って務める人がいる。
その人の役名はミヤド、である。
ミヤドを充てる漢字は何であるのか聞きそびれたが、毎月の1日、15日は神社境内を清掃しているというから、おそらく宮守の役であろう。
ただ、現在は1日、15日に縛られることなく、相前後する日でも構わないようだ。
その秋のマツリの本祭は特別なものはなく、ヨミヤに見られるという。
神饌御供は鏡餅もあるが、その他に栗、枝豆がある。
特徴があるのは大根である。
その大根は言いようのない細工をしているという。
具体的な形は想像できなかったので、実物を見てみる価値がありそうな特殊神饌であろう。
夕方(午後5時)に神事がある。
その後は直会。
神事が始まってから3時間後(午後8時)にモチマキがあるという。
(H30. 4. 8 EOS7D撮影)
宇陀市榛原栗谷にある日蓮宗大念寺だった。
行事があることは隣村の石田の人たちに聞いていた。
調べてみたらメディアネット宇陀に栗谷の涅槃会が紹介されていた。
そのことが頭の中に残っていて2月に訪れた。
その取材中に耳にした花まつり。
違っているかもしれないが、気になれば出かけてみたくなるのが性である。
再訪した大念寺は満開だった桜の花が境内一面に広がっていた。
本堂の扉が閉まっている。
時間帯が違ったのか、本日ではないのか。
ネットをくってみてもまったくヒットしない大念寺。
村の人に聞くしかないと思って付近を探してみる。
ぐるりと周囲を廻った地に鳥居が見える。
小高い丘のようなところに鎮座していたのは春日神社だった。
階段を登っていけば社殿があった。
あるブログで紹介していたので参考にするが、その内容は榛原町教育委員会が掲示した神社由緒解説にある。
春日神社は東から若宮(大将軍・大山祇神)に武甕槌命(たけみかずちのみこと)・経津主命(ふつのしのみこと)・天児屋根命(あめのこやねのみこと)・比売大神(ひめのおおみかみ)の四神を祀った四連棟型社殿形式である。
この形式は全国的にも、宇陀市というか、奈良県内においても極めて珍しい建造物である。
もう一つの棟札の写しによれば、元文二年(1737)に現在の形式で建之されたと伝わる。
もう一つの棟札写しより、元徳元年(1329)12月。
当時、土地の名主だったとする願主実盛が春日四神を祀って創建したようだ。
「栗谷守 享保壬子(享保十七年/1732)天 春日大明神 十一月吉日」の刻印が見られた春日神社の手水鉢。
元文二年の棟札の写しよりも5年前の記し。
再建かどうか断定できないが、祈念に寄進された可能性もある。
神社より下った処にあった出荷場に数人の女性たちがおられた。
涅槃会におられた人も居るし、当日は不参加だった人もいる。
涅槃会取材に撮らせてもらった十数枚の記録写真をもってお礼とする。
その場には区長の奥さんもおられたので話は通じやすいが、結局は村に花まつり行事はなかった。
代わりといえばなんだが、春日神社の年中行事を教えてもらう。
正月朔日の元日祭は鏡餅を供えるが、3月3日の節句は一般的な神饌になる。
田植え奉告祭もあるようだが、なんといっても秋のマツリである。
以前は10月20日がマツリだった。
特定日であれば、集まりにくくなった時代があった。
氏子の職がサラリーマン化していくにつれて平日開催がしにくくなった。
そういう理由で土曜、日曜、祝日に移行した地域は数多い。
秋のマツリは最たるものである。
栗谷もそうせざるを得なかった。
年中行事を一年間に亘って務める人がいる。
その人の役名はミヤド、である。
ミヤドを充てる漢字は何であるのか聞きそびれたが、毎月の1日、15日は神社境内を清掃しているというから、おそらく宮守の役であろう。
ただ、現在は1日、15日に縛られることなく、相前後する日でも構わないようだ。
その秋のマツリの本祭は特別なものはなく、ヨミヤに見られるという。
神饌御供は鏡餅もあるが、その他に栗、枝豆がある。
特徴があるのは大根である。
その大根は言いようのない細工をしているという。
具体的な形は想像できなかったので、実物を見てみる価値がありそうな特殊神饌であろう。
夕方(午後5時)に神事がある。
その後は直会。
神事が始まってから3時間後(午後8時)にモチマキがあるという。
(H30. 4. 8 EOS7D撮影)